子どもたちの風景

あしなむ

シルクスクリーン

     1


 少年がいつものように美容院の手伝いをしていると、お姉さんがやってきた。

 お姉さんは少年に微笑み、少年もはにかんで微笑み返す。それだけで顔が火照り、視線が浮ついてしまう。

 お姉さんが椅子に座り、少年の母が横に立つ。

「今日はどのくらい切るの?」

 母が髪を指ですきながら聞く。お姉さんは少し口籠もった後、透き通るような声で言う。

「ばっさりと、いっちゃって下さい」

「ばっさりって、肩くらい?」

「いえ、もっと、ベリーショートになるくらい」

 母が目を丸くして鏡越しに見やると、お姉さんは目を細めた。母は少し戸惑ったが、微かに頷いて霧吹きを取り、肩に手を乗せた。

「なにかあったんだね?」

 お姉さんは柔和に微笑み、

「ないしょです」

 といたずらに答えた。

「じゃあ本当にばっさりいっちゃうから」

 母が霧吹きで髪を濡らし始め、お姉さんはその手つきを見つめる。

 不意に、鏡越しに目が合った。

 少年は狼狽え、おもむろに立ち上がり、床に散らかっている客の髪を掃いて集めだす。お姉さんはそれを見てくすくすと笑う。

 少年はまたお姉さんを見やる。その長くて艶のある髪が好きだった。腰の下まで伸びた、黒く滑らかで、絹のような髪が。

「よし、一気にいくよ」

 母の声と共に、鋏が入れられる。

 ジョリ。ジョリ。ジョリ。

 ゆっくりと音が響き、

 パサッ。

 髪が落ちた。

「はいもう戻れません」

 母が言うと、

「うう、やりましたね」

 お姉さんは幼く見上げて膨れた表情を見せた。

「…………」

 少年は、床に落ちた髪を見つめている。光を反射し、輝いている髪。束になってまるまっている、今までお姉さんの一部だった、髪。

 母は既に細かい手入れに映っている。二人は穏やかに談笑し、少年を見る者は誰もいない。

 新聞紙を手に取り、何気ない動作で髪をくるんで奥の部屋に放る。

「あれ、お前いまなに投げたの」

 母に気付かれてしまったが、笑ってお茶を濁す。

「変な子」

 母は視線を戻しお姉さんと向き合う。既に男の子のような短髪になっているお姉さん。しきりに前髪を引っ張り、上目遣いに気にしている。

 そして少年はお腹が痛くなったと言い、

「あら、じゃあもういいわよ」

 母の了解を得、奥に入る。

 放った新聞紙を拾い、階段を昇り自室へと戻ると、途端、焦れたように新聞紙を開き、そこにくるまっている髪を確認する。

 絹のような、髪。

 指で掬い、サラサラと落とすと、清水のように流れる。屈んで嗅いでみれば、柑橘系の甘い香りが鼻をつく。

 お姉さんの、香り。

 堪らなくなり、髪をざぁっと掬って顔をうずめる。まるでお姉さんの髪に顔をうずめているかのようだ。鼻息が、ぬくい。

 恍惚に、息が震える。


 翌日、学校では上の空だった。

 放課後、級友たちからのサッカーの誘いを断わり、ひとり教室を出る。そして、薄暗い工場街へと赴く。

 工場と工場のあいだにぽっかりと開いた空き地、そこにマネキン人形が転がっている。女性の、滑らかな曲線美を持ったマネキン。土に汚れ、体中が擦り傷だらけになっている。

 少年は手提げ袋の中から小さく錆び付いたノコギリを取り出し、周囲に目を向ける。誰もいない。首に刃先をあてがう。指先に力を込める。

 ガリッ、ガリッ、ガリッ、ガリッ。

 音が響き、手から全身に振動が伝わる。痺れるような快楽に包まれ、夢中になって刃を立てる。マネキンの顔に汗が落ちる。口元が緩む。

 と、背後で音。

 ハッとして振り向くと、野良猫が見つめていた。毛が逆立ち、目やにで瞼が開き切っていない、やせっぽちの猫。鋭い眼光でじっと見つめている。

 少年もじっと見つめる。

 野良猫はその場に座り込み、やがて少年も作業に戻る。ガリッ、ガリッ、ガリッ。野良猫の視線を感じながら、首の根まで力強く刃を押しては引く。上腕二頭筋が軋む。

 三十分後、なんとか首が転がる。思ったよりも時間がかかってしまったが、誰にも見つからずに作業を終えることができた。

 泥が付着した首を拾い上げると、それを見届けたかのように野良猫はふいっといなくなった。マネキンは深淵を見つめている。

 少年は土を払い、紙袋を取り出し中に入れる。パンパンに膨らみ、輪郭も浮き出てしまったが、特に問題はないだろう。ほうっと息をつき、汗を拭い、疲労で膝を震えさせながら帰路に就く。

 途中、町長とチコを見る。

 ふたりは黒塗りの細長い車の後部座席に座っていた。町長は窓を開けぼんやりと景色を眺め、チコは背筋を伸ばし微動だにせず前方を見つめていた。

 一瞬のことだったが間違いはなかった。学校帰りだろうか、去っていく車を見つめながら少年は思う。いつもの場所以外で見たのは初めてだ。雰囲気が違う、あんな表情は初めて見た。

 けれど、それも当然のことなのかもしれない。ここは、いつもの商店街ではないのだ。

 あの、ぼくらの聖域では。


 家に着き、接客をしている母の後ろを何気もなく通り過ぎ、勇む足を抑え付けながら階段を昇り、部屋の戸を開ける。鞄を降ろすと、途端、息が荒む。

 押し入れから昨日新聞紙にくるんだ髪を取り出し、開き、マネキンの頭部と並べて眺める。

 マネキンと、お姉さんの髪。

 工作、開始。


 アルミホイルを用意し、マネキンの頭に巻き付ける。その上に不織布を巻き付け、ボンドで隙間無くくっつけ頭の形を取る。

 型が固定されたら土台としていたアルミホイルごと外し、再度新しいアルミホイルをマネキンの頭に巻き付ける。そこにボンドで固めた不織布を被せ、表面にまんべんなくボンドを塗る。

 ここからが本番。

 慎重に、一本ずつ髪の毛をくっつけていく。

 植毛だ。失敗は許されない。丁寧に、繊細に、額に汗が滲み呼吸が早くなるが決して焦ってはいけない。たっぷりと時間をかけ、取り組む。

 植毛を終えたらブラシでとかし、距離を置き全体のバランスを確認する。

 うん。

 少年は頷く。

 植毛した不織布の下のアルミホイルを抜き取り、掲げる。

 完成だ。

 多少歪ではあるが、髪の量も多く、そう不自然には見えないだろう。少しふんわりと広がってしまったが、なかなかの出来だ。

 うん。

 少年は頷く。

 何度も頷く。


 四時間の成果を手に、大きな姿見の前に立つ。カツラを持った手は小刻みに震えている。

 慎重に、上目遣いになりながら頭に持っていく。目を瞑り、頭に乗せ、手で柔らかく押し込み、隙間のできないようぴったりと装着する。垂れてきた前髪を掻き上げ、耳の後ろに流す。ふわっと甘い香りが鼻をつく。

 お姉さんの香り。

 甘い、香り。

 ゆっくりと目を開き、お姉さんの髪を被った自分と対峙する。


 ----------------。


 髪を手串でとかしてみる。さらさらと、絹糸のように流れ、よく見てみると頭頂部が天使の輪のように輝いている。

 前髪を肩の前に垂らしてみる。艶やかな張りのある髪が、胸の下をくすぐる。

「…………」

 手で払うように一気に後方に流してみる。毛先が首筋を撫で、ぞくりと身の毛がよだつ。

 鳥肌が立ち、じゅわりと目が滲む。




     2


 少年は学校帰りのお姉さんを待ち伏せする。

 お姉さんの帰宅時間は把握している。

「あれぇ、どしたの?」

 お姉さんが少年を見つけて駆けてきた。

 膝丈までの淡いベージュのスカートが揺れ、細身のセーターに身を包んだ上半身の細いボディラインが街灯に照らされ地面に揺れる。

 少年はお姉さんをぼんやりと見つめる。

 そこに、あるべきものが足りない。

「ん? ん? どしたの?」

 ぽけっとしていると、顔を覗き込まれた。お姉さんは頬を染め、息を弾ませ、にこにことしている。まるいふたつの膨らみが、目の前で上下している。

 少年は視線をうろつかせ、しどろもどろになりながらも言葉を発する。

「わたしが使ってる、シャンプーとリンス?」

 きょとんとされる。

 少年はか細い声で、ぼくも使ってみたくて、と答える。

「そっかぁ、そういう年頃になったんだねぇ」

 しみじみと目を細めるお姉さん。目が合ってしまい、俯くと、口に手をあて笑われてしまう。

 耳まで朱に染まる。

「そんなに恥ずかしがることないんだよ。ん、よし、教えてあげよう」

 ぽん、と頭を撫でられ、少年は銘柄を聞く。


 聞き覚えのない銘柄だった。

 近所のドラッグストアを駆けずり回ったが、どこにも置いてはいなかった。

 休日になり、自転車に乗り範囲を広げてみたが、それでも見つけることはできない。

 少年は途方に暮れる。

 あの銘柄以外でお姉さんの髪を洗うなど、考えられない。 だけど、日も暮れてきている。

 少年は自転車を停め坂の上から朱く染まる町を見下ろす。足も腰も痛みを帯びている。

 もう、諦めて家にあるもので洗ってしまおうか。このまま放置しておけば、痛んでゆくばかりだ。潤いも、香りも、損なわれてしまう。それだけは避けなければならない。

 …………でも。

「おい」

 背後から声をかけられた。

 振り向くと、豆子が夕陽を背に立っていた。

「なんか途方に暮れてるけど、大丈夫か?」

 スーパーマーケットの帰りなのか、長ネギが飛び出たビニール袋を腕に提げている。

 少年はその飛び出たネギをじっと見つめ、沈黙する。

「なんだ、なにかあるなら言えよ」

 豆子が隣に並ぶ。

 不意に、ふわりと石鹸の香りが鼻をついた。豆子のセミロングの髪が、夕陽に煌めいていた。少年は思わず目を細める。

 スーパーマーケットの袋の中には、ネギの他に豆腐と納豆と何かの肉が見える。今夜は鍋物だろうか。けれど、どちらにしても豆乳は買ったんだろうな、そう少年は思う。豆子は豆乳が好きだった。豆繋がりだけあってうまいと言い、朝晩欠かさず飲んでいる。特に抹茶味が好きなことを、少年は知っている。

「おいったら」

 こづくように身体を当てられた。少年はハッとする。

 やわらかい。

 思わず後ずさってしまい、見れば、豆子は若干怒ったような視線を向けていた。じっと、ただ視線で訴えかけている。

 どうして教えてくれないんだ?

 少年は思わず言ってしまう。

「シャンプー、リンス?」

 きょとんとされる。

 当然の反応に、恥ずかしくなってくる。

「なんで」

 迷ったが、理由を説明する。

 豆子に言い逃れはできない。

「あのお姉さんの、髪?」

 少年は頷く。

「へぇ。で、この銘柄を探してるのか」

 少年は頷く。

「ふーん……」

 豆子は声を漏らし、無表情に銘柄を書き留めている紙を見つめる。

 少年は背中を流れる嫌な汗を抑えきれない。早くこの場を離れたい。心臓が脈打つ。

 周囲の雑音が嫌に耳に響く。

 すぐ傍を、自動車がかなりの速度で通り過ぎる音。遠くで鳴る、自転車のベルの音。豆子が抱えた、ビニール袋が揺れる音。自分の息遣い。豆子の息遣い。

 ネギが、ゆらゆらと揺れている。

 豆子は依然視線を落としている。

 と、ぽつりと呟く。

「俺、これ売ってるところ知ってる」

 えっ、と少年は驚く。

 豆子は続ける。

「少し遠いけど、隣町の図書館の側にあるデパートで売ってたと思う」

 少年は一転笑顔になり、お礼を言う。

「ああ」

 豆子は静かに坂を下り始める。少年も後に続き、隣に並ぶ。

 寒風が吹き抜け、豆子はマフラーに顔をうずめて身を縮める。少年は豆子の提げたスーパーの袋からネギを抜き取り、スイングを始める。枝のように振る。

 ブン。ブン。

 それを横目で見ながら、豆子が小さな声で言う。

「でも、それいいアイデアかもな」

 少年が振り向くと、豆子は視線を逸らした。

「それ、売れるかもしれない。特に、お前みたいにあこがれのお姉さんとか持ってる奴も多いだろ。お前の家、美容院だし、手伝うフリして若い女のひとの髪を集めてみろよ。それで、商店街で売りにだしてみよう。みんな、おもしろがってくれると思う」

 少年は手を止め、豆子を見つめる。

 豆子は斜め下に視線を逸らしたまま、淡々と続ける。

「売りに出すときに、写真も添えられるとなおいいな。お前、年上のお姉さんにかわいがられるたちだから、なにか理由を付けて一緒に撮ってもらったらいいよ。それで、それを付けて売ろう。そっちの方が生々しくていい」

 少年はそのアイデアに興味を示す。

「じゃあ今度いっしょに店を出してみよう。売れるといいな」

 少年はその図を想像する。とてもいいと思える。

 そして頷き、お礼を言う。

「いいよ、べつに。自分の為でもあるんだし」

 それはたしかに、と少年は思う。商店街に店を出し、利益を得るということは、自分の為、ひいては皆の為になるということだ。

 それにしても。

 少年は豆子の横顔を見つめる。どこかぼんやりと、遠くを見つめるようなその瞳。いつも豆子の発想には驚かされる。どんなときも、導いてくれる。

 そして豆子と別れ、大急ぎで隣町のデパートへと駆ける。


 無事購入できたそれで、少年は毎日丹精込めて髪を洗った。

 撫でるように、慈しむように指ですき、熱いシャワーで流すと甘い熱気がもわんと顔を覆い、思わず鼻の穴を広げた。

 洗髪後は清潔な絹のタオルで舐めるように拭き取り、ドライヤーを弱に設定し丹念に乾かした。その際、目を瞑り、髪から立ち昇る香りに身を委ねると、得も言われぬ恍惚に身体が痺れた。

 きちんと乾かした髪をマネキンに被せ、頬にかすかな口付けをする。それがお決まりの挨拶で、夜には抱いて眠るようにすらなっていた。

 けれど、次第に物足りなく感じ始めてきてもいた。大きな姿見の前で髪を掻き上げても、以前のような恍惚はもう薄れてしまっている。慣れてしまったのだ。

 もっとどうにかできるはずだ。

 もっと、もっと。




     3


 少年はいつぞやと同じくお姉さんの帰りを待っている。

 しかし、今日はいつにもまして緊張している。心臓が激しく躍り、口からはみ出そうになっている。手のひらにはじっとりと汗が滲み、開いては閉じ開いては閉じ、平静を保つ。

 果たして、うまくいくだろうか。

 やがて、お姉さんがやってきた。

「また、どうしたの?」

 少年はお姉さんを見上げ、言葉を発しようとするが、声が出ず、んんっと喉を鳴らし、もう一度発する。

 あの、文化祭で、劇をやる事になって、女性ものの服がたくさん必要になったんです。お姉さんのお古を、分けてもらえませんか?

「え、わたしの服?」

 少年は、こく、こく、と頷く。口の中がカラカラになっている。

 お姉さんは困った顔を見せる。

「んー、あげられるものなんてあったかなぁ」

 顎に手をあて考える。

「夏物? 冬物?」

 どちらでも構いませんが、できれば両方。か細い声で答える。

「そっかぁ……。まだ劇中の季節が決まってないってことかな?」

 どちらの季節にもなるんです。しかも、大勢出るんです。

「なるほど、モブシーンがあるんだね。それでお古を集めてるんだ」

 しっかりと頷く。喉が震え、膝が揺れる。

「うーん、そっかぁ……」

 お姉さんは顎に手を添えたままじっと考えに耽り、少年はただそれ見上げ返答を待つ。

 お姉さんは顔を上げ、にこやかに言う。

「ん、それならどんなものでもよさそうだね。じゃあうちに来なよ。選んで持って行って」

 きゅっと手を握られ、少年の心臓が跳ねる。そのまま半ば強引に手を引かれ、お姉さんの後に続く。

 頭の中が霞みがかり、まるで浮遊しているかのような感覚を覚える。


 これまでも、幾度かはお姉さんの部屋に入ったことがあった。

 だから、少年は目を見張る。

 白を基調とした簡素で清楚な部屋だったはずが、壁紙とカーテンは淡いピンクに変わり、棚にはカラフルな小物が並べられ、机の上には流行のアイドルを紹介する雑誌が無造作に置かれていた。その横には、ファッション雑誌と共に、ルイ・ヴィトンのカタログも置かれている。

 まるで印象がちがう。

「ちょっと座ってて」

 さて、と小さく呟き、お姉さんは箪笥の前に腰を降ろした。引き出しを開ける。

 少年は促されるままベッドに腰を降ろす。ぎしぃっ、スプリングが軋み、腰が沈み込む。身体が傾き、そのまま静かに倒れ込むと、布団から甘い香りが立ち昇り、鼻孔を突く。

 お姉さんは引き出しの中に視線を落としている。

 顔をうずめ、腹一杯に深呼吸する。

 ふと、側にテンピュールの柔らかい枕が置かれているのに気が付く。弾むベッドで少しはしゃいでいるフリをしながら接近を試みる。

 あまりの緊張に、世界が廻る。気付かれていないだろうか、大丈夫だろうか、やりすぎなんじゃないだろうか。

 けれど、こんなチャンスは今しかしない。

 意を決し、微笑を湛えながらぼふん、ぼふん、とお尻を弾ませ、その反動でバランスを崩したように見せかけ枕に顔から突っ込む。

 お姉さんが振り向いた。

「ごめんね、ちょっと待っててね」

 少年はごん、とベッド頭頂部の柵に頭を打ち付けてしまう。世界が揺れている。

 お姉さんは目を丸くする。

「え、ちょっ、だいじょぶ? どしたの?」

 少年は涙の滲む目で頭をさすりながら、びよんびよん弾むから、と答える。

「びよんびよん弾むから?」

 お姉さんは首を傾げる。

 少年は悲しげな瞳で頷く。

「……あはは」

 お姉さんは柔和に目を細め、ういうい、と少年の額を拳でぐりぐりと攻める。

「ういうい」

 やめてください、少年は潤んだ瞳で訴える。

 お姉さんは「えへへ」と口元を緩め、作業に戻った。

「どれにしようかなぁ」

 少年は力が抜けてしまい、ぼふっと倒れ伏す。と、顔の下に枕がある。柔らかな枕。甘い香りに身をよじらせる。横を向き、ばれないよう頬ずりをしながらお姉さんを見つめる。

 お姉さんは引き出しの中の服を一枚一枚捲り、検討している。とても綺麗な後ろ姿だ。スタイルもよく、短く切り揃えられた髪も華奢な身体によく似合っている。

 ……でも。

 少年はかぶりをかぶる。

 でも、これはちがう。


 次々に床に引き出していく。

 キャミソール、スカート、靴下、そして下着まで。少年がそこにいることなんて、まるで気にも留めていないかのように。

 少年は視線を彷徨わせる。身体が熱くなる。

 やがて、

「よし、こんなものでどうでしょう」

 お姉さんが服を並べ、提示してくれた。

 少年は目をしばたく。その中には、ついこのあいだまで好んで着ていたお気に入りのものが何着も入っていた。

 驚いて目を向けると、お姉さんは照れたように笑い、答える。

「あー……もういいんだ。実はね、これまで着ていた服はもう処分しちゃおうかなって思ってたところだったんだ」

 少年は思いを馳せる。そういえば、部屋と同じように、近頃は服装も感じが変わったかもしれない。一言で言うと、派手になった。

「でも、こんなのでいいの?」

 少しの沈黙の後、少年は頷く。

「えと、まさか、君も着るの?」

 からかうように聞かれ、 ほぇ? と素っ頓狂な声を出してしまう。慌ててぶんぶん首を振る。

「あはは。でも君が着ても似合うと思うよ。だってすっごくかわいい顔してるもんねー」

 お姉さんが身体を寄せ、少年の頬をぷにぷにと突つく。まだ幼さの残る頬は弾力性を保っている。

 ぷにぷにと指を突き立てる度に漏れるお姉さんの吐息に、少年は沸騰し、くらくらする。

 んふふー、お姉さんはうぶな子をからかうかのように流し目で少年を見つめ、かと思うとすぐにあどけなく見据え、言う。

「がんばってね、観に行くよ」

 少年は火照りきった瞳でぼんやりと頷く。


 部屋に戻るとすぐに貰った服を広げ手に取る。

 色とりどりの服、お姉さんの着ていた、服。

 種々あるが、そのなかでも一際目を惹くのが淡いシアンのワンピースだ。少年はとりわけこのワンピースが好きだった。お姉さんには、このワンピースが本当によく似合った。晴れ渡った日など、まるで空に溶け込んでしまった天使のようにすら見えた。

 顔をうずめ、深く、深く、血に巡らせるかのように息を吸い込む。微かに匂う、お姉さんの体臭。

 --------ぁああ。

 洗濯後なのだから匂うはずもないのだが、少年には嗅ぎ取ることができた。

 恍惚の表情。顔を離し、部屋の鍵を締め、カーテンを閉める。

 トレーナーを脱ぎ、ズボンを脱ぎ、ワンピースに袖を通していく。腕が小刻みに震え、肌が絹に触れるたび鳥肌が立ち、今にも座り込んでしまいそうなほど身体に力が入らない。

 袖を通し終え、カツラを被り、さらりと後方に流して具合を確認する。

 少年はゆっくりと顔を上げ、姿見と向き合う。

 …………。

 …………。

 手を後ろに組み、お姉さんがよく見せる仕草を真似てみる。あの、太母のような笑み。にこっ。

 …………。

 …………。

 スカートを摘み上げ、まるで草原で屈託なく笑う少女のようにひらりと廻ってみる。

 細すぎず、太すぎず、ほどよい加減の太股が露わになる。電光に反射し、美味しそうに見える。

 …………。

 …………。

 少年は込み上げるものを抑えるかのように、深く深く息を吸い込む。そしてぴょんと一度だけ跳ねる。乙女のように。

 長く豊かな髪を、ヘアピンで自身の地毛と挟み込む。これでそうそう外れることはないだろう。引っ張ってもみたが、大丈夫だった。

 少年は脱ぎ捨てた服を押し入れに投げ入れ、高鳴る心臓の音を全身に響かせながらドアノブを掴む。キ、キ、キ、僅かに軋む戸。

 そっと顔を出して廊下を確認する。ほうっと息をつく。

 階段下から母の低い声が響いてくる。踵だけを用い、音を忍ばせ降りていく。もはや気を抜くと倒れ込んでしまいそうなほどに身体がカッカカッカと火照りを帯びている。酸欠気味に、視界が朧気だ。

 降りきると左側の店内を覗き、母が接客中なのを確認する。今は髪をすすいでいるところだった。

 素早く右に折れ、裏口から外へ出る。

 大丈夫、気が付かれなかった。

 ふっ、と笑みが零れる。

 途端気分が高揚し、鼻歌が漏れる。スキップ気味に角を曲がると、隣家のおばさんがいた。

 息が、止まる。

 おばさんは少年と目が合うと、ん? と訝しげな表情になる。

 少年は固まって動けない。

 おばさんは少年をねめる。元々あまりよくない目つきが、一層の険しさを見せる。

 やがておばさんは去っていった。どうも、過剰な反応こそを訝しんだようだった。

 少年はほうぅううっと長く長く息を吐き、どっと脱力する。そこでハタと思い至る。

 そもそも、この服を着て出てこなくとも、外で着替えることもできたのだ。

 膝の力が抜け、その場にへたり込む。そして、笑う。


 難関を突破したことで、少年は自信を付け大胆になる。

 商店街、デパート、図書館、なんの気兼ねもなく駆け回る。いつもと景色がちがって見える。なんてすばらしいのだろう。踊るように舞うように少年は町中を駆ける。

 行き着いた先は高台にある公園。ここからは、眼下の町を一望できる。

 柵に手を付き眼前を見つめる。空はマゼンダとシアンが混ざり合い、溶け合っている。町は半分暗がりに入っている。黄昏は誰彼とも書くのだ、少年はそんなことをテレビで見たことがある。

 と、一陣の冷風が吹き抜け、少年の髪がさらさらと流れた。

 あっ、と手で押さえるが、スカートも浮き上がり太股が露わになってしまう。慌ててこちらも押さえる。んんっ、目を細め、もうっ、思わず可愛らしい声が漏れる。

 不意に、斜め後ろのベンチに腰掛けている青年と目が合った。

 青年は少年の視線に気が付くとはにかみ、目を逸らした。落ち着かない様子で視線はひとところに定まっていない。明らかに、少年を意識している。

 少年は視線を戻し、再び眼下の町を望む。

 遠方に連なる山間に沈んでいく夕陽。最後の光を必死に届かせながら、今、沈んだ。

 帳が降りる。

 闇の中で、心地良く髪とスカートがなびく。

 少年は目を瞑り、衣の擦れる音に耳を澄ませ、肌に擦れる感触を味わう。身体がほぐれ、自分すらほどけていく感覚に包まれる。

 ぼくは風。

 風になっている。


 少年はファッション誌や女性誌を購読するようになり、化粧品も揃え、メイクまで覚える。

 下地・ファンデーション・アイシャドウ・アイライン・マスカラ・チーク・リップ。

 控えめで仄かな、謙虚さを感じさせる味付けを好んだ。素朴で、けれども芯のある、まるで、あの頃のお姉さんのような。

 当然の成り行きとして女性物の下着すら身に付けるようになる。



      

     4


 少年は豆子の提案通り、髪も平行して集めていた。

 言われた通り若く美しい女性を狙って集め、写真撮影も頼んだ。大体は常連の為、快く快諾してくれた。時々は理由も聞かれたが、「友人がお姉さんのファンなんです」などと答えてお茶を濁しておけば、まんざらでもなさそうに納得してくれた。うまく言えず口籠ってしまったときなどはしきりに頭を撫でられ、「かわいーなぁーもーっ」などと抱き締められた。

 母はさすがに訝しんでいるようだったが、「本当は劇の為にカツラを作る必要があって、それで集めているんだ」と理由を述べたら、「随分と本格的なんだねぇ」とだけ言って興味を失った。細かいことを気にする母ではない、これで当分は乗り切れるだろう。

 出来る限り店を手伝い、髪を集め、写真を撮った。ある程度纏まった量の髪が手に入ったときはカツラを作り、長さや量が足りなかったりしたものはひと束ひと束透明なタッパーに入れて封をした。

 パックされた髪はまるで生きもののようにも見え、呼吸をしている気さえした。


「この短期間でずいぶん集めたな」

 豆子も驚歎せざる終えなかった。それだけの人数のものを少年は集めたのだ。

「お前のその顔は、本当に武器になる」

 まじまじと見つめられ、少年はそっぽを向く。

「なぁ、ちょっと潤んだ瞳で俺を見つめてみてくれよ」

 豆子は両手で少年の頬を掴み、対面させようとする。けれど、少年は頑として動かない。

「姉キラーだな」

 からかうように言われ、むっとして振り向くと、

「んっ」

 その瞬間、口をふさがれた。

 やさしく、糸を引くキスだった。

「じゃあ行こう」

 豆子が歩き出し、少ししてから少年も後を追う。

 今日は、店を開く為に商店街に行くのだ。


 商店街は橋向こうの森の傍に佇む廃校のなかにある。

 元は小学校で、木造三階建ての校舎も何十年か前までは現役だったと少年は聞いている。けれど、今では床は腐り、穴が空き、雨漏りもひどい。

 それでも埃だけは舞っていない。人の出入りが頻繁にあるからだ。

 ふたりが昇降口をくぐると、

「もす、久しぶりだな」

 低くくぐもった声が小さく響いた。目の前に、門番のようにブライアンが立っていた。

 ブライアンは、日本とどこかの国のハーフだと聞いたことがある。髪は幾分ちぢれ、肩幅はとても広く、肉付きのよい体格は格闘技でもやっていそうなほどにたくましい。まるで、闘牛士を夢見た少年のようにも見える。

 彼はこうして訪問者を迎える。実際に、門番を任されているのだ。

 彼の許可なくして、中に入ることはできない。

「今日は売りか? 買いか?」

 問われ、

「売り」

 豆子が答えた。

「じゃあ町長の許可がいるな」

「町長、いる?」

 ブライアンは脇に挟んだサッカーボールをぽんと弾ませた。

「いるよ、たぶん、音楽室に。でも行かせない」

「あ」

 ブライアンは豆子に抱きつき、長くがっちりとした両腕を背中に廻して押さえ込んだ。片手を離し、胸を揉みしだく。尻を掴む。

 豆子は抵抗したが、ブライアンはびくともせず、そのままもつれて倒れこんだ。さすがに中学二年生男子の力に叶うはずもない。

 組み伏せられ、豆子は見上げながら無表情に言う。

「ブライアン、今度殺す」

「望むところだ」

 ブライアンは豆子の顔にキスの雨を降らせ、豆子は固く目を閉じ、身体を硬くしてじっと耐える。

 少年は激しく体当たりをし、ブライアンを吹き飛ばす。 ブライアンは顔から地面に衝突し、鼻から血を流し始めた。少年は豆子を助け起こす。

 鼻を拭いながらブライアンは言う。

「お前、今度後ろから包丁で浣腸してやるよ」

 おどけたような表情に、けれどもふたりは無表情で踵を返す。

 ブライアンなら本当にやるだろう。

 構わずその場を離れた。

 ふたりの後ろ姿を見つめていたブライアンは、その姿が見えなくなると壁に手をつき、苦悶の表情で身体を起こした。汗がどっと噴き出て、息を切らしている。

 ブライアンに右足はない。


 音楽室からピアノの旋律が響いている。

 ドビュッシーかラヴェルか、少年の浅い知識では判別できないが、どこかで聞いたことのある音色だった。

「ちがう、リストだ」

 豆子が戸を開く。

 ピアノの旋律を浴び、鼓膜がうわんと鳴り響いた。

 奏者はちらりと視線を向けたが、すぐに鍵盤に戻した。

 ふたりが中に入ると、窓際の机に腰を降ろして外を眺めていた少女が気が付き嬉しげな声をあげた。

「にゃははははふふふふひ!」

 少女は屈託なく笑っている。けれども、全裸だ。名を清少納言という。日常の風景と化してしまっているためその姿を気に留める者はいない。

「ねぇまめこぉ。こんどやきゅーするからきゃっちゃーやってよきゃっちゃー」

 背後から声をかけられ振り向くと、チョークを手にした小さな少女がふたりを見据えていた。

 いつぞや見かけた、町長の妹チコ。

 絵の才能に秀で、今も黒板に奔放な絵を描いていたようだ。それは抽象画というよりも事象の深奥に迫るかのようなデフォルメされた絵で、少年は昔見た山下清の絵を思い出す。

「じゃあチコがピッチャーやるならな」

 豆子が返答すると、チコはにやりと笑みを浮かべた。

「まかせてよ。らいとよりかはうまいんだから」

 たしかにチコならばストライクくらい訳なく投げるだろう。球速は望めないが。

「よし、しゅーりょーっ」

 ターン、ターン、ターン。

 お辞儀の合図が響き、鍵盤に向かっていた彼が振り返る。

「どうだった?」

 聞かれ、リストですね、少年は答える。うまかったです。

「ちがう、てきとーだよ」

 彼は笑う。彼の名は町長といい、ここを取り仕切っている。

 少年は隣の豆子を見る。豆子は視線を逸らし、素知らぬ顔で手元に置いてあった本を捲り始める。『泥まみれの死』。

「な。俺、北国へ移住しようかと思うんだよ。だから次の町長やってよ」

 突然の提案に少年は目を剥く。むりです。即座に答える。とても、むりです。

「そう? だめ? んー、ならもう少しここにいないとなぁ」

 町長は笑い、少年は胸を撫で下ろす。町長がいなくなれば、この聖域は瓦解するだろう。

「でもさ、やっぱりいつかはみんなで北へ行きたいよね。こんな町は出てさ」

 うん、と少年は頷く。

 うん、と皆も頷く。

 ここにいて、北へ行きたくない者などいない。

 北にはまだ見ぬふるさとがある。

 それが彼らの共通の想いだった。

「もっと寒くならないかなー。雪でも降ると嬉しいんだけどなー」

「町長、今日は出店の許可を貰いに来ました」

 豆子が言った。町長はそれを無視する。

「ぐしゅん! ……ズズっ」

 清少納言がくしゃみをした。半目で鼻をすすっている。

 町長は笑って、

「こいつに暖めてもらったらいいよ」

 少年の肩を叩いた。

 少年は狼狽える。

「わはっ! わはっ! わはっ!」

 清少納言は声を上げて笑い、椅子をガタンガタンと前後に揺らせる。足の間の薄く淡い茂みが露わになっている。

「町長、今日は出店の許可を」

「でもそろそろ調律入れないとだめだなー。音がすぐ狂う。ね、いいよねべつに呼んでも」

 ピアノ----スタンウェイを軽く叩く町長。調律料は二万円といったところだろうか。必要なのものなのだから許可などいらないのに。そう少年は思う。けれど、それが町長らしくもあった。

「じゃ、呼びまーす。ってウソ。今度自分で調律やってみようと思いまーす。道具揃えてね」

「町長、出店の----」

 出店したいんです、少年が代わりに言う。

 豆子は少年を横目で見やったが、すぐに目を伏せた。

 町長は興味を持ち、少年に向き直る。

「どんな店を出すの?」

 女性の髪を、写真を付けて売るんです。

「おー、おー、自分の特性を生かしたナイスアイデアだ」

 町長はしきりに頷く。

「自分ちがお店やってる人は特色出せるから面白いよね。売れると思うよ。家が歯医者の子とか、葬儀屋の子とか、面白い趣向を凝らしてやってるから今度参考に覗いてみるといいよ」

 と、チコが続く。

「歯医者はすごいぞまめこ、ばかすぎて。患者の親知らずをあつめてつくった首飾りを売ってるんだけど、『これさえあれば親に見つからずに密事を決行できます』とか触れまわったり、犬歯でつくったものには、『悪縁切りにお役立て下さい』とかもんくをつけて売っててさ、じゅじゅつのせかいかっての。でもこれがこうかあるからわらえないんだ。あいつ、くやしいけどなんかもってる。てんさい」

 チコはニッと少し黄ばんだ歯を見せ、その中の一本を指差した。少年と豆子は目を凝らす。どうも、そこだけ歯の大きさが違って見える。

「ほれね、まめほがぬいたはをうめほんでんの」

「え?」

 豆子が身を乗り出す。

「うわほんとに大きさがちがう。バカやめろよそういうの」

 豆子は溜め息をつく。チコはニヒッと嬉しそうに笑った。

 町長がチコの肩を抑え付け、口に手を突っ込んだ。その歯を力強く摘んだ。

「ぎっ!?」

 チコは突然のことに顔を歪める。町長は震えるほどの力を込め引き抜こうとする。

 けれど引き抜けない。

 傍に置いてあったペンチを取り、改めて口の中に突っ込む。ぐいっと力を込め、一気に引き抜いた。

 ぶちっ。

 音が響き、チコが悶絶する。

「ぎゃっ、あっあっあっあっ」

 打ち上げられた魚のように、白目を剥いて声にならない声を漏らしながら身体を痙攣させる。腕と足をじたばたと動かし、ゴン、ゴン、壁に頭を打ち付け額から血が滲む。

 町長は抜いた歯をトンカチで粉砕し、ゴミ箱に捨てた。口から血と泡を垂らし涙と鼻水で顔中を濡らしたチコをきつく抱きしめ、赤子をあやすかのように語りかける。

「よしよし、チコ、大丈夫だぞ。お兄ちゃんがいるからな」

「あ、ぅあうあうぅあうううう……」

 チコは目も虚ろにその腕に抱かれる。

 清少納言はゲッゲッと笑い、少年と豆子は沈黙し教室を後にした。


「わっ」

 廊下へ出ると、ちょうど入れ替わりに入室しようとしていた少女と衝突した。

 ショートカットにズボンを履いた、気の強そうな吊り目をした彼女の名を水母(くらげ)という。

「来てたのか」

 水母の言葉に少年は頷く。豆子は水母の顔をじっと見つめる。

「豆子ちゃん、こんちは」

 水母は微笑み、豆子は無表情に頷いて返した。

「うちの、いる?」

 うちの、と問われ、少年と豆子は顔を見合わせ、頷く。

「やっぱり、相も変わらず?」

 少年と豆子は顔を見合わせ、頷く。

「そう、また服脱いじゃってるのか……」

 水母は片目を瞑り少しうなだれる。

「……そ、」

 ふたりは会釈をし、横を通り抜ける。

 水母は豆子に耳打ちする。

「がんばって」

「…………」

 豆子は目を丸くし、水母を見る。水母は戸を開き、中に入った。

 豆子はしばらく閉じられた戸を見つめた。

 少年はその横顔を見つめた。


 出店場所を決める為、学校内を見て回ることにした。

 各階、各教室にそれぞれ店舗が出されており、どこに出店するかはある程度自由に決めることができる。場所選びは思いのほか大切だ。どのような客層を見込むのか、どのような雰囲気にしたいのか、そこから逆算し絞り込んでいく必要がある。

 売上げの半分は町長に渡す。北へ移住する為の資金作り、商店街はその為に存在している。

 売買どちらにも町長の許可が必要で、それがないと昇降口でブライアンに止められる。また、それ自体も誰もが得られるわけではない。出店はとりわけ厳しいが、購買すら許されない者も多く、この選別は全て町長が行っている。一体町長はどのような基準で選別を行っているのか、ともかく冷やかしで訪れるような者は皆無だ。誰もが経済の流れの中に位置し、差し詰めここは完結したひとつの町のようでもあった。

 まるで、体内----。

 時々少年はそんな感覚に包まれる。体内、ここは、ぼくらの内側のような場所なのだから、異物を受け入れるわけにはいかない。異物が入り込んでしまえば、すぐに組織は死滅し、臓腑は腐臭のうちに爛れ落ちるだろう。

 この学校はスマートな作りをした学校ではない。初めて訪れた者は必ず迷う、蛇が絡まり合ったかのような作りをしている。

 天井も傾斜がかり、防災のためにこのようにしていたのだとは聞いていたが、圧迫感が強く、長時間歩いていると遠近感が狂いだす。そして寄る辺のない寂寞感が襲いかかってくる。

 複雑怪奇に絡まり合うそれぞれの小部屋、そこで営まれる生産とその循環。ここは、三階音楽室を脳梁とした胴体、その臓物といえた。

 だから生臭い。


「さて、どこに出すか。いい場所はたいてい取られちまってるけど」

 豆子と一階を見て回る。

 子供たちが静かに教室を出入りし、売買している。玩具、食料、服、自作の作品etc……。

 児戯だという者もいたが、児戯なんかではない。ぼくらにとっては。

「……よし、あそこにするか」

 豆子が位置を定めた。

 人目の付かない女子トイレの個室。

 わざとそんな辺鄙な場所を選び取った。

 主な客層には思春期までの男子を想定した。であるならば、女子トイレに入るのは恥ずかしいだろう、だからこそ選んだ。元々商品からしてフェチズムに訴えかけるものだ、羞恥心を刺激するくらいでちょうどいい。日替わりで出店するトイレを変更するつもりでもいる。日々移店し、客の方から店を探すように仕向ける。

 そそる仕掛けを、豆子は次々と組み込んだ。

 売上げは伸びた。

 客は場所を突き止めるとそっと友人に耳打ちし、情報は連鎖し男子の心を刺激した。

 子どもたちは各々静かにやってきて、店先に並べられている髪と写真をまじまじと見比べた。時にはタッパーを開け匂いを嗅いだり、耳に添え音を感じ取ろうさえとしていた。まるでほら貝から遠い潮騒を聞き取ろうとしているかのように。

 秘密は厳守された。しかし、そもそも誰一人ふたりが秘密を漏らすとは考えていない。この空間に生きる仲間、その絆は固い。

 時にはリクエストを受けることもあり、約束はできないが、と少年は引き受けた。

 あるとき、持ち帰った髪をどうするのかとふと尋ねてみた。

 鑑賞したり、撫でたりして愛でるのだろうか。

「磨り潰して飲むんだよ」

 いがぐり頭の背の低い子が言った。

 磨り潰して、飲む?

 少年はその行為に想いを馳せた。

 磨り潰して飲むとは、いったいどういうことなのだろう?

 いがぐり頭の少年は屈託なく笑っていた。

「この調子でお金が貯まるといいけどな」

 隣で豆子が宙を仰ぎながら呟いた。

 少年は豆子の横顔を見つめる。

 肩が触れあい、吐息がかかる程の距離。便座をふたりで分け合いながら、日がな一日座っている。


「そうしたら、二人でさむいところに行ける。」




     5


 売上げの半分は町長に渡すといってもお金は着実に貯まった。

 けれど、少年はそれに手を付けることはしなかった。来たるべき日の為に、少しでも蓄えておくにこしたことはない。

 その為、少年が使えるお金は雀の涙程度のお小遣いしかなかったが、それでもきちんと貯蓄し、時間を見つけては繁華街へと繰り出した。

 ショーツを穿き、ブラジャーを付け、ワンピースに袖を通し、ロングニットカーディガンを羽織り、髪を取り付け、入念にメイクをし、姿見で容姿を確認したのち外へと出る。多少肌寒かったが、それでも好んでワンピースを着た。

 人の多い場所を選んで足を運んだ。アクセサリーや服、靴や下着を見に。そして、自らを衆目に晒す為に。

 ブラジャーを付けているため小さく膨らんだ胸、仕草もお淑やかに柔らかくすることを心懸けた。

 店先のウインドウに映り込む姿を見ては、うっとりと息をついた。


 郊外のショッピングモールに足を運ぶ。

 数年前、郊外にオープンした大型のショッピングモールは晴れた日曜日ということもあり大変な賑わいを見せていた。太陽が燦々と降り注ぎ、少し暑いくらいだ。少年は口元を緩める。これならば、カーディガンを脱いでおこう。

 人混みのなかで髪を茶や金に染めた人やパーマをかけた人とすれ違う。その度に少年は思う。

 中身は外見に現れる、と。

 品というものは、否応もなく滲み出てくるものだ。あんな風に外見を乱してしまえば、心も乱れ、品も損なわれる。人の迷惑も考えず大声で喋ったり、短いスカートで大股で歩くようになり、道行く人は横目で避け始める。

 それに比べて、この絹のようなきめ細やかな黒髪、清楚で可憐な服装、薄く崩れることのない微笑。

 行き交う人は振り返り、笑みを浮かべて去ってゆく。これが、気品というものだ。美は人を笑顔にする。ぼくもいつもそうだった。

 お姉さんといる時は。


 ショッピングに疲れ、少年はモール内の喫茶店に入る。

 何を飲もうか、紅茶にしようか、アールグレイかな、などと迷っていると背後から聞き覚えのある声が届いた。振り返ると、知り合いの卒業生が数人、やかましく騒ぎたてていた。たしかあの人たちは中学二年生だっただろうか、すぐに素知らぬフリで顔を逸らす。

 少年は迷った末にダージリンを頼み、受け取り、空席を見つけ腰を下ろす。

 混雑のなか座ることができ、ほうっと息をつく。お尻にできたワンピースの皺を整え、紅茶をスプーンでかき混ぜる。そのまま目を瞑り、喧噪に身を溶け込ませる。

 遠くなる世界。そのなかで、ぼくはここにこうして存在している。

 至福の時。

「あのぅ」

 声をかけられた。

 驚いて目をやると、卒業生グループがへらへらしながら目の前に立っていた。

「他、空いてないんで、相席いっスか?」

 たしかにこのテーブル以外には空きはない。

 断るわけにもいかず、少年は渋々頷く。

「ありあっす」

 彼らは無造作に腰を降ろし、ガチャガチャとひどい音を立てながらカップをすすり始める。お互いちょっかいを出し合い、テーブルの下でも足が飛び交い始める。

 台無しだ。

 少年は視線を落とし、静かに紅茶を口に運ぶ。眉間に皺を寄せる。

 彼らは一息に飲み干してしまうと談笑に興じ始めた。相席者のことなど微塵も気にかけず、大声ではしゃぎ、わめき、こづきあい、ソーサーを弄り始める。

 やはり、中身は外見に現れる。

 少年は顔を上げない。

「----なんスけど、このあいだの試合、見ました?」

 少年は最初、自分に向けられた言葉だとは気が付かなかった。沈黙の後、気が付いた。

 彼らはじっと少年へ視線を送り、沈黙していた。その視線には、性的なものが混じっていることに少年は気が付く。

 少年は少し視線を泳がせるが、うつむき我関せずを装う。

 彼らはどっと笑いだし、また姦しく会話を始めた。

 少年は人知れずふぅっと一つ息をはく。

「----はどうスかね。僕はけっこういいと思うんスけど」

 …………

 沈黙。

 再びの問いかけ、今度は顔を上げない。

 少年は席を立ち、カップを掴み、歩き出す。踵を返すと髪が流れ、芳香が漂った。背後から「あーあ」という笑い混じりの落胆が聞こえる。

 少年は緩む頬を抑えきれない。


 午後は再びショッピングモールを見て回る。

 ウインドウショッピングは少年の好むところだ。このモールは品揃えも豊富で、モダンな造形もすばらしい。一日居ても、まったく飽きることはない。

 ぶらぶらとしていると、とても素敵な服を見つけた。白に花模様を散らしたブラウス、そして鳥の刺繍が入ったカーディガン。

 少年は一目惚れし、店に入る。

 お姉さんがいた。

 --------------------。

 身体が、硬直する。

 お姉さんは店員と談笑している。ハッとして物陰に隠れる。

 途端、全身から血の気が引き、ド、ド、ド、心臓が脈打ち始める。呼吸が乱れ、小刻みに震え、頭がぼんやりとしてくる。

 遠くから様子を覗き見る。

 久しぶりに見たお姉さんは、ベリーショートの髪を茶に染め、すべすべとした形の良い耳には大きなグリーンのピアスを付けていた。茶のジャケットを身に纏い、ミニスカートを穿き、ブーツを履いている。

 服を選ぶ相談だろうか、店員と身振り手振り大きな仕草で会話をし、時折声を上げて笑い、店員をこづき、こづき返されている。

 --------お姉さんは、いなくなってしまった。

 この世から、消えてしまった。

 しばらく眺めていたが、お目当ての服を手に試着室へと向かう。


 少年は試着室のなか、ブラウスとカーディガンを手に鏡の前に立ち、桃色の吐息をつく。

 袖を通すと、姿見の前でいつものポーズを決める。手は後ろで組み、太母のような柔和な笑みをたたえる。

 その自分と見つめ合う。

 髪も、化粧も、服も、物腰も、全てが理想通りになっている。

 まるで、あの頃のお姉さんのように。

 はぁぁあああ。

 恍惚に、息が震える。目が潤む。


 スカーフも合わせてみたくなった。

 嬉々として試着室のカーテンを開けると、お姉さんがいた。

 目が合う。

 ----------。

 膝が折れ、身体が傾ぎ、血の気が引いて世界に吸い込まれていく。

 白く浸食されていく世界のなか、お姉さんの微笑が見える。

 声が届く。

「その服、とてもお似合いですね」


 ……………………。


 少年は試着室のなかへと戻り、脱いだ服を掴んでお姉さんの横を通り抜ける。

 レジへと向かい、ダンッ、金額も聞かずに数枚の万札を置く。視界の隅に、お姉さんがきょとんとしているのが見える。

「あの、そのまま着て帰られるんですか?」

 困惑気味の店員に無言で頷く。

 店員はまず値段を調べお釣りを取り出し、少年に渡した。

「では、タグをお切りしま  」

 聞き終わらないうちに外へ出る。

 ぐんぐんと歩き、歩き、歩く。

 止まらない。

 止められない。

 心臓がせり上がり、喉元でつかえている。手足は痺れ、世界はふやけ、ぐるんぐるんと廻っている。景色の縮尺がおかしく、自分がきちんと歩けているのかすらもあやふやだ。重力がわからない。地に足が付かない。傾斜を昇っているかのような感覚がしている。喧噪が、雑踏が掻き消え、溶ける。

 不意に、強い風が吹き抜けた。

 髪が流れ、スカートがはためき、少年は髪を押さえて目を瞑る。

 風が収まるのを待ってゆっくりと顔を上げると、喧噪が戻っていた。心臓も平静を取り戻している。

 途端、全身の力が抜け、うずくまってしまう。

 息が震え、身体も震え、少年は笑う。


 三分ほどして震えも収まり立ち上がると、目の前に豆子がいた。

「…………」

 豆子はソフトアイスクリームを手にきょとんとしていた。

 少年は込み上げて涙が溢れ、踵を返す。

「待て」

 呼び止められるが聞きはしない。

「待てったら」

 強く肩を掴まれ、びくん、と震える。

 豆子が回り込み、少年の顔を覗き込んだ。

「おどろいた。まるで、お姉さんだ」

 感嘆の息を漏らしまじまじと少年の顔を見つめる。

 少年は顔を背けるが、瞳が潤むのを止められない。

「俺が彼氏でお前が彼女、か?」

 豆子は微笑み、少年の手を取る。弾みで、手からソフトアイスクリームがぼとんと落ちた。

「ここじゃ目を引くから、落ち着けるところに行こう」

 少年は豆子に手を引かれ、ショッピングモールを後にする。


「本当に似合ってるよ、それ。ここらじゃそれ以上の子はちょっと見当らないな」

 豆子は水道でべとついた手をすすいでいる。

 少年はベンチに腰を降ろし、ぼんやりと空を見上げている。先ほどまでは澄み切った青空だったのに、今は灰色の雲が流れていた。夕立が心配になる空模様だ。

 ふたりはショッピングモールから歩いて数分の生涯学習センター、その隣の公園にやってきていた。

 絶え間なく吹き出る噴水が煌めき、少年は目を細める。

「あれ、タグ付いてる。ちぎるから」

 振り向くと、豆子の顔が吐息の触れる距離にあった。

 豆子は少年の襟首に口を寄せ、タグを噛みちぎろうとする。

 なかなかうまくいかず、

「んっ、ふっ、うっ」

 荒い息遣いを漏らす。

 耳に触れる息と声がこそばゆく、そのうえ豆子が顔を揺らすたび髪が頬と首筋に触れ、少年は肩を持ち上げ眉間に皺を寄せる。耐えるように、身を縮める。

 豆子はやっとのことで噛みちぎると、ふうっと息をつき、少年の横に立った。

 少年が脇に抱えている服に目をやると、僅かに首を傾げた。

「それって、お姉さんの服じゃないか?」

 少年はゆくっりと豆子の顔を見、目で肯定する。さっき脱いだ、お気に入りのワンピース。

「ふぅん。俺が着たら似合うかな」

 いたずらに豆子ははにかんだ。喜怒哀楽の少ない豆子がこんな笑みを見せてくれるなんて、気遣ってくれているのだろう。

 不意に、抱きしめたくなる。

「まぁ、似合うはずもないけどな」

 そんなことはない、と少年は思う。とてもよく似合うだろう。

「似合いたくもないけど」

 曖昧に笑う。

 豆子は昔、父に犯されていた。

「でもほんとかわいいな、お前……」


 沈黙が、降りる。


「------うん、これも俺たちらしい」

 豆子は頷き、少年の前に立つ。

「俺が男で、お前が女。半身ずつ。ふたりで、ひとり」

 差し出された手を握り、少年は立ち上がる。

「ちょうどいい。たぶん、きっと」

 憂いを帯びたその横顔、それを見つめて少年は思う。

 そうだろうか。

 ちがうんじゃないだろうか。

「なんだか、これが本当だという気がする」

 豆子は少年に向き直り、笑みを見せる。少年は息を呑む。幼少期以来の、屈託のない笑みだった。

 心底幸せそうに、微笑んでいる。

 少年は、それを見ながら言っていた。

 ------ちがう。

 たぶん、きっと、ぼくの半身はお姉さんだったんだ。

 豆子ではなく。

「…………」

 豆子の笑顔が凍り付く。

「…………っぇ、ぁ?」

 吐息が漏れた。

「…………ぇ、と、ぁ……」

 何かを言おうと口を開いたが、息が漏れるばかりですぐに口をつぐんでしまった。

 視線を落とす。

「ぇぁ、うぅ……ぁあ」

 また顔を上げるが、黒目が揺れ、泳ぎ、身体は震えている。

 少年を見上げ口を開くが、やはり息が漏れるばかり。

 豆子はうつむき、早足で少年の横を擦り抜けた。

 少年は後を追う。

 豆子は歩き、歩き、坂を登り始める。どうやら足の赴くままに歩いているらしかった。

 少年には後ろから見る豆子の背中がひどく脆く映る。こんなに小さかっただろうか、そう思う。華奢で、強く抱きしめれば折れてしまいそうなくらいに、脆い。

 空には見渡す限り曇天が広がっており、今にも一雨きそうな気配がする。

 もう帰ろうよ。

 後ろから小さく呼びかけた。

 雨が降りそうだよ、ねえ、豆子。

「…………」

 豆子は足を止め、目を伏せたまま佇んだ。その肩は、小刻みに震えている。

 少年は華奢な背中を見つめながら返答を待つ。坂の上から降りてくるぬるい風が纏わり付き、髪がゆらゆらと揺れる。

 やがて、豆子は意を決したかのように振り向き、息を吸い込み、言った。

「あ、あのっ」

 そして豆子は死んだ。

 ワゴン車に轢かれて即死だった。


 鈍い音が炸裂し、ハッとして駆け寄ると、豆子はうずくまって動いていなかった。

 車を運転していた初老の婦人が動転しながら飛び出て、豆子の背に触れると、その身体はびくん、と震え、婦人は尻餅をついた。車からは幼い男の子も降りて、その様子をじっと見つめた。豆子はびくん、びくん、と痙攣を始め、けれどすぐにまた微動だにしなくなった。

 婦人は自らを奮い立たせ、意を決し豆子を仰向けにさせた。顔がごろんと傾いた。豆子は白目を剥き、鼻血を流し、開いた口からよだれが垂れ顎を濡らしていた。腕や膝から血が滲んでいたが、出血自体はさほど多くは見受けられなかった。ただ、腕はひしゃげ、首が歪んでいた。耳からも血が流れ出した。

 少年は見てはいけないものを見てしまった気がした。

 豆子の格好悪いところは見てはいけなかったのに。

 そう思った。

 救急車がやってくると、同伴し病院まで付き添った。

 救命措置もなく死亡が確認され、少年は祈ることもできずにただ待合所で宙を仰いだ。やがてハッとして、看護師の元へと走った。

 看護士に、血が付いてしまったから貸して欲しいと訴え、患者用のリネンの服を借りた。そしてトイレに行き、震える手で髪を脱ぎ、メイクを流し、服を脱いだ。購入した服はゴミ箱に突っ込み、ワンピースは髪と一緒にバッグに押し込んだ。身体を強張らせながら戻ると、リネン服を貸してくれた看護師はいなくなっており、胸を撫で下ろした。

 すぐに豆子の両親が駆けつけ、少年の両親が駆けつけ、皆で豆子の顔を見下ろした。鼻血とよだれは拭き取られ、きれいになっていた。

 豆子の母は嗚咽混じりに崩れ落ち、豆子の父は険しい表情で豆子のつるりとした頬をさすっていた。

 少年は親に促されその場を辞した。父を置いて、母と共に帰宅の途についた。

 帰り道、あの人が豆子のお父さんか、と思った。


 翌日、通夜が営まれた。

 参列者は幼い少年の目からしてもあまり多いようには見えなかった。泣いているのは豆子の両親くらいだった。額縁のなかから、豆子は無表情にこちらを見つめていた。

 少年は棺のなかの豆子の頬に触れてみた。ヒヤッとあまりの冷たさに驚いて、すぐに手を引っ込めてしまった。心臓が脈打ち始め、ドキドキした。

 白装束に身を包み、鼻に綿を詰められ死化粧を施された豆子はとても可愛らしかった。ふっくらとした唇は朱に染まり、頬もほのかに紅色で、体中から少女の匂いを発散しているかのようだった。鼻から息を吸い込むと、口のなかが甘くなった。

 少年は、豆子がまだ豆子だった頃のことを思い出した。

 けど、それならこれまでの豆子は豆子ではなかったのだろうか。わからなかった。わかるのは、ここにいる豆子がかわいいということだけだった。

 本当に、なんてかわいいんだろう。


 翌々日、しめやかに葬式が執り行われた。

 参列者は、通夜よりも更に少なかった。

 式の後、棺が閉じられ、火葬場へと移送された。

 豆子が燃やされているあいだ、食事を取る大人から離れ少年は親戚の子供たちの雪合戦に付き合った。前夜からの雪が降り積もっていた。それはこの冬初めて降る雪だった。

 白く染まる町並みを見て、それから少年は空を見上げた。

 煙突から、煙が立ち昇っていくのが見える。もくもくと、もくもくと、立ち昇って、溶けていく。

 ぼうっと見上げていると、奇襲を喰らった。顔に雪をぶつけられ、大量に口に含んでしまった。子どもたちは大喜びに駆け回り、少年はベッベッと雪を吐き出した。首筋から入ってしまった雪は、痛いほどに冷たかった。

 豆子は一時間弱で焼け、乾き切った骨と灰が残されていた。係の者がそれを穿き集め、ちりとりのように見えるものの上に載せた。

 二人一組となり、箸を用い焼骨を骨壺に収めていった。係の者が、骨が少ないなぁ、と呟いているのが聞こえた。

 皆が焼骨を見つめる中、少年は手元の鞄の中にすばやく骨を一掴み滑り込ませた。息が震えた。

 うまくやったつもりだったが、顔を上げると豆子の母が見つめていた。どっと血の気が引き、鞄を落しそうになった。けれど豆子の母はやさしく微笑み、何も言わなかった。見れば、隣の豆子の父も見ていたが、やはり何も言わなかった。ただじっと、見つめるだけだった。

 少年は視線から逃れるように手元の鞄を見つめた。

 薄い布でしかない鞄は、触れるとまだホカホカと熱かった。


 しばらく経ち、久しぶりに商店街へと足を運ぶとブライアンに会った。

 ブライアンは会うなり、

「豆子、本当に死んだのか」

 と尋ねてきた。

 頷くと、

「ちくしょう。だからあの時ヤっときゃよかったんだ」

 そう悔しがった。けれどその目は涙で濡れていた。

 音楽室に行くと、清少納言、水母、チコ、町長が少年を迎えた。

 清少納言はキャラキャラと笑い、いつもならそれをたしなめる水母もそんな気持ちになれないのか、沈痛な面持ちで少年を見つめた。

 チコは直立不動で涙を流し、

「あんた、最後のとき、豆子といたんだって」

 少年を見据えて尋ねた。

 少年は頷き、ぼくが呼び止めたから豆子は轢かれてしまったんだ、と答えた。

「おまえが殺したのか」

 チコは少年にチョークを投げつけた。

 盲目にも関わらず寸分の狂いなく目を直撃し、少年は目を押さえた。ぎぃいいん、鈍い痛みが残響し、瞼の裏に星が散った。

「死ね、死ね、死ね、今すぐ死ね」

 チコはマイナスドライバーを手に少年目がけて駆けだした。が、目の前のピアノに激しく身体を打ち付け仰向けに倒れ込んでしまった。

 鍵盤を撫でるように弾いていた町長がおもむろに立ち上がり、倒れたチコの横腹を蹴り上げた。

 ごふっ、チコは息を漏らす。

「死ねなんて言うな」

 チコは倒れたまま腹を押さえてうずくまり、上目遣いに兄を窺った。ただじっと、静かに見上げ、それは哀願するようにも祈るようにも見えた。

 町長はチコをかき抱き、頭を撫でた。

「みんな、悲しいんだ」

 本当かな、と少年は思った。本当に、町長も悲しいのだろうか。

「よしよし、お兄ちゃんが側にいるからな」

 町長はチコを慈しみ、チコはその腕のなかで涙と鼻水を流し、水母は目を伏せ、清少納言は変な顔をしていた。

 少年は教室を出た。

 息苦しかった。


 毎晩、布団の中で考えた。

 どうしてぼくは悲しくならないのだろう。

 けれどその理由はわかっていた。たぶん、まだ、実感がわかないんだ。きっと、そのうち嫌と言うほど泣くことになるだろう。

 夢に落ちると、豆子はしきりにキスをせがんできた。頬を染め、甘い息を吐き、瞳を潤ませていた。腕を絡ませ、頭を肩に乗せてきた。これは、ほんとうに豆子なのだろうか、夢のなかですらそう思った。でも、こっちが本当の豆子なのかもしれないな、そうも思った。


 月日は流れ、お姉さんの髪はまた伸びつつあった。

 会うたび面影を取り戻していた。

「また、伸ばしてるんだ」

 そう言い髪に手を添える仕草も、陽光に輝きまぶしい。

 桜は既に散り、日差しが強さを増し始める季節になっていた。青い空に、お姉さんの微笑が溶け込む。

 少年は目を細めてそれを見上げた。




     6


「もうすっかり元通りね」

 母がお姉さんの髪を手ですきながら言った。

「変わりたいと思ったんですけど、やっぱり私にはムリがあったみたいです」

 お姉さんは鏡越しに照れて笑った。

 少年は後ろから鏡に映るお姉さんを見つめる。

 母の言う通り、お姉さんはお姉さんに戻っていた。

 黒に戻した髪は滑らかな艶と長さを取り戻し、服も清楚で慎ましやかなものに戻った。それに伴い、仕草や雰囲気も以前と同じようなやわらかさを取り戻し、包み込まれるかのようにあたたかい。

 もうすっかり、元通りのお姉さんだ。

「なぁにぃ?」

 鏡越しに、目が合った。

 カーッと耳まで染め上がってしまい、おもむろに立ち上がり、床に散らかっている髪を掃いて集め出す。お姉さんはその様子にくすくすと笑った。

 少年は隙を見てまたお姉さんに視線を戻す。その、長くて艶のある髪が好きだった。腰の下まで伸びた、絹のような髪が。

 母が道具を取りに離れると、お姉さんは少年を手招きした。傍まで行くと、そっと抱きしめられた。

 お姉さんの胸に顔をうずめる。

 お姉さんが包み込み、少年が仔猫のようにぬくもりに顔をうずめる。

 それがいつものふたりだったから。

「は~っ、落ち着くなぁ……」

 耳元でお姉さんが声を漏らした。

 …………。

 ……………………。

 少年はそっと身を引いた。

 お姉さんは目を丸くして、やがて、寂しそうな笑みを浮かべた。

「嫌われちゃったかな」

 胸が、締め付けられた。


 翌日、少年はお姉さんの髪と服を売りに出した。




    *    *    *


 青のペンキで塗りたくったかのような空、風が心地よく、絶好の日和。

 少年は高台の公園に赴き、作業に取りかかった。

 町を見下ろすことのできるベンチに腰を降ろし、まずは白い紙を取り出す。その上に骨を置き、トンカチで慎重に砕いていく。粉微塵にしたら、清潔な白いハンカチを取り出し、紙から流し、盛っていく。

 ハンカチの上には、白い粉が盛られている。

 鞄からミネラルウォーターと紙コップを取り出した。

 水といっしょに、飲むのだ。 いつか聞いた、髪を磨り潰して飲んだという、あの少年のように。

 豆子。

 少年は思う。

 ぼくはまだ、涙を流せてはいないんだ。

 紙コップに水を注ぐと、水面が煌めきに揺れた。

 左手でコップを掴み、右手でハンカチを掴み、盛られた白い粉を見る。


 豆子を、取り込むんだ。


 深く、酸素が体中に行き渡るように深呼吸をし、少しだけ顎を上げる。

 そして、ハンカチを口元に近づけていく。

 ゆっくりと、

 ゆっくりと、

 一粒たりとも零れないように、

 ゆっくりと、

 ゆっくりと、

 豆子を、

 口に、

 風が吹き抜けた。

「あ」

 思わず声が漏れる。

 白い粉が、風に巻かれて飛んでいってしまった。

 咄嗟に手を伸ばすが空を切るばかり。見れば、手元には何も残っていない。

 一瞬のうちに、失われてしまった。

「…………」


 宙を見上げるが、散った粉が見えるはずもなく、ただ空の青が、目に痛かった。

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