第22話

「あ! お帰りなさい、霓裳ニーシャン! そして――鮎川あゆかわさん?」

 早朝の三馬路サマロ

 《虹》の店先を掃除していた年若いボーイが、よろめきながら近づいて来る二人の姿に気づいて箒を投げ出して駆け寄った。

「え? え?  どうしたんです、鮎川さん……ですよね? こんなにやつれて――」

「いいから」

 支えている霓裳の反対側へ回って肩を貸そうとする若者に霓裳は言った。

「兄さんを呼んで来て。私たちは部屋で待っているから」





「どうなさいました、鮎川さん?」

 時を置かずやって来たフーディ・G

 その足元へしゅうは倒れ込むようにして膝を突いた。

「申し訳ありません。全て、僕のせいです」

 這いつくばってって頭を下げる。

「お詫びの言葉もない。とんでもない過ちを僕は犯してしまいました」

 つかえ閊え、吐き出される言葉。

「僕に今できることは……自分の口から失態の全てをお伝えすること。それだけが僕に残された最後の役割だと思って……恥ずかしながら……こうして戻って来ました」

「……それは、一体……?」





「そうですか」

 

 土下座して語る鮎川脩あゆかわしゅうの前で、こちらも直立不動のまま全てを聞き終えたフーディ・Gだった。

 やがて静かに口を開いた。

「鮎川さん、どうかお顔をお上げください」

 脩は一層深く床に額を擦りつけた。

「いえ、どのような言葉で罵倒されようと僕はそれに値する――」

「あなたのせいではありません。全ての責任は、族長であるこの私にあります」

 窓の方を見た。それから、いつもと変わらない温雅な声で言う。

「見誤ったのは私です。どうやら私は、決断を間違ったようだ」

「僕の命で購えるなら、どうぞ」

 脩は短剣を取り出してフーディの足下へ置いた。

 息を飲む霓裳。だが、兄の表情は変わらなかった。

「ええ、わかっています。俺一人の命など……何の意味もない。チャンチャラ可笑しいですよね?」

 食いしばった歯の間から自嘲の笑いが漏れる。

「俺の失態のせいで貴方は全てを喪ってしまった。一族の尊い命、かけがえのない故郷のむら、そして、そして、何千年もの間、伝え、護って来た宝の秘薬も、何もかも……」

 フーディ・Gは悲しげに、だが、きっぱりと首を振った。

「それはちがいます」

「え」

「《虹》は……薬は喪ってはいない」

 呆けたようにポカンと口をあけたままの脩。

 フーディは繰り返した。

「私たちは薬は喪ってはいません」

「で、でも、花畑はヴォルツォフの手でドイツの手に渡りました。もう取り戻すことは不可能でしょう。日本は諜報活動において破れたんです。それも、僕の無能のせいで……」

 今更ながら己の迂闊さに脩は唇を噛んだ。租界内で日本と鍔競つばぜり合いを演じているのはドイツだった。ドイツ軍事顧問団団長ファルケンハウゼンは、『中国にとって敵は日本が第一、共産党は第二』と明言し日本と戦うよう中国軍を率いる蒋介石をそそのかしている。そのドイツから迫害されたユダヤ人だからと気を許したとはいえ、ヴォルツォフにもっと注意を払うべきだった! 明らかに自分の失態だ。とはいえ――

 改めて脩はハッとした。たった今、発せられた虹の族長の言葉……

「待ってください、 今、なんと仰いました? 薬は・・喪っていない・・・・・・?」

「ですから、薬が〈花〉だと誰が言いました?」

「!」

「霓裳、おまえ、まだ知らせていなかったのか?」

 ここで兄は妹を振り返った。

「だって、兄さん――」

「?」

 霓裳はうずくまっている脩の前に駆け寄ると、その手を取った。

「ごめんなさい、脩さん! 騙すつもりはなかったの。本当よ。私、あの日の内に――邑に到着したあの日の夕方、花畑の前で全てをきちんとお話しするつもりでした。でも、その前にあんなことが起こって……」

「霓裳? 何のことだ?」

「そういうことなら――この場で、おまえがその身を持って示しなさい」

 兄は先刻、脩が置いた床の短刀を妹に投げ与えた。

「ちょうどいい。これを使いなさい」

「あ? やめろ! 責任なら僕が――取る! 死んでお詫びをするのは僕だ!」

「いいから――貴方は黙って見ていればいい」

「いや! だめだ! やめ――」

 脩の制止も間に合わない。虹の娘は鞘を払ってすばやく腕を掻き切った。

 迸る鮮血……!

「馬鹿!」

 飛びついて傷口に唇を当てる。幸い手首ではない。二の腕の辺り、滴る血を止めようと、一滴も漏らすまいと口で拭う恋人の愚かな行為だった。が、次の瞬間――

「!?」

 弾かれたように脩は顔を上げた。

「霓裳……これ……これは……」

 この味……

「そうよ、そうなの!」

 室内に虹の族長の声が金鼓のように響いた。

「《虹》は、《秘薬》の原料は、私たちの血の中にあるんです」



「言ったでしょう?

 《虹》とは私たちのことだと。

  一族の名であり、血の名であり、薬の名なのです」

 

 空の虹と同じくらい古くから、そう言いかけてフーディは微苦笑した。

「いや、ひょっとしたら、私たちの方が先だったのかも。《虹》は私たちを言うために生み出されたのかも知れないとさえ思ってしまいます。それほどこの漢字もじは我が一族の身体上の特質を見事に形どっているから」

「そ、それは、つまり?」

 脩は訊いた。今語られている話の内容になんとかついて行こうと必死だった。

「虹の字に雄と雌――〝性別〟があるからですか?」

「それもあるが、もっと的確なことですよ」

 フーディは掌にその字を書いた。

「虹という字をよくご覧になって下さい」

 なぞりながら、

「虹 ――〈虫〉と言う字に、加えられている〈工〉……

 工虫こうちゅう甲虫こうちゅうは最も多種多様の形を有す、種類の多い虫だそうです」

「?」

 もはや脩には眼前の男が何を話しているのか全く理解できなかった。

「先ほどの血からもおわかりのように私たちは異形の一族なのです。現代の言葉では〈特殊体質〉と言うのでしょうか?

 血に、ヒトの心を惑わす不可思議な成分があるように、容貌すがたかたちもまた……」


「あんた、何を言っているんだ?」

 

 いや、俺は知らない内に――霓裳の血を嘗めた〝今〟ではなく――もっと早い段階で、秘薬を飲まされていた? それで、こんな、妖しげな……夢のような世界に迷い込んだ?


「いいえ、ご安心ください」

 脩の困惑を感じ取ったのか、フーディはサッと両手を広げた。

「貴方は、今現在、魔都の店にいて、私の語る話を聞いている最中ですよ! それも、けっして夢物語などではありません。私がお話ししているのは、全て、現実であり真実です」

 言葉を切って脩の瞳を覗きこむ。

「その証拠に、貴方を納得させる事柄をまずお話しましょうか――」

 唐突にフーディは言った。

「ロシア人を殺したのは紗羽バオユーです」

「は?」

「止むに止まれぬ事情で――しつこく求愛する男に嫌悪感が募った末ではありますが」

「そ、そんなこと、無理だろ! 凶器は何だ? 逃走方法は?」

 我慢ができず脩は声を荒げた。

「俺は犯行が行なわれたホテルの現場をこの目で見たんだぞ! いい加減なことを言うな!」

「いいですか、鮎川さん?」

 落ち着き払ってフーディは言う。

「あの娘には、鋭い歯と羽がありました。カミキリムシに良く似た……」


 ―― 鳥が羽を広げて飛び去ったよ!」

 ―― 僕見たよ! ほんとに、はっきり見たんだ!

 ―― 暗い影が夜空をサーーーって横切って行ったんだ!


 じゃ、あれはやはり?

 いや! いや! いや! 激しく脩は頭を振った。

 そんなはずはない……やはり、嘘だ! 


「でたらめを言うのは止めろっ!」

「まあ、羽と言っても薄い膜状のそれで、普段は背中にピッタリと折り畳まれているから、見てもわからないでしょう。触ったところで、細い傷跡ていどだ。微かに盛り上がっているだけ。よほど意識していなければ気づきませんよ」

 人差し指を額に当てて詳細に説明するフーディ。

「現に客たちは誰一人として気づかなかった……」

 一方、脩の疑問は別の処へ移っていた。聞いたばかりの言葉が頭の中で渦巻く。


 甲虫……虫……?

 様々な形態……容貌って、

 ハッ、待てよ?


「なら、君も?」

 脩は霓裳を見た。

「君は何なんだ? 俺の知る限り身体上に違ったモノなんて何処にも……」

 皓々と照らされた灯りの下で幾度も愛を交わした。その都度、光の中で存分に眺めて来たのだ!


 霓裳は恥ずかしそうに頬を染めた。瞳を伏せると、


「私、光るんです。闇の中では」

「――……」


 だから? あれほど暗闇を恐れていた?


「闇が怖いと言うより他人に――特に恋してからは貴方に――知られるのが怖かったのよ」

「闇夜で光る――私達、族長筋にはこの傾向が多いようです」

 飄然と頷く族長。


 ドライブの際、蛍の大軍の中にいる霓裳に紗羽が叫んだ言葉が蘇る。

 

 ―― 光の家来たちがお迎えよ! 霓裳皇女様!


 では、アノ意味は……


「そんな……」


 ガタタン――


 流石に、あまりの衝撃に腰が抜けて立ち上がれない脩。床にへたり込んだ。

「水を! 冷たい水をお持ちしろ!」

 ドアを開けてフーディは命じた。それから、肩を抱いて助け起こすと寝台へ座らせる。

「驚かせて申し訳ありませんが、私たちの特質についてお知らせしなければならないことがまだ一つあります」

 もう、こうなったら破れ被れだ。何を聞こうが驚くものか。脩は喘ぎながら族長を仰ぎ見た。

「それは?」

「それは」

 ここでノックとともにドアが開いた。

「冷水をお持ちしました」

「ああ、こちら、鮎川さんへお渡ししなさい」

「どうぞ」

「……ありがとう」

 水を飲んで落ち着きを取り戻したのを確認してから、フーディは話を再開した。

「私たちの成長の仕方……仕組みです。蛹化すると言えばいいのかな?」

 薄く笑って、

「特に成人になる時が顕著です。身体が硬くなって仮死状態になります…」

「え?」

「大丈夫ですか? もう一杯、お注ぎしましょうか?」

 水差しを差し出す若いボーイ。

「ああ、すまない。お願いする……よ? げっ!」

 脩の指からグラスが滑り落ちる。

 落としたグラスは、すんでのところで青年が掴んだ。だが、脩の目はグラスにはない。青年を凝視している。

「君!?」

「お気づきにになられましたか?」

 青年はニヤニヤ笑った。

「あの夜は、どうも、鮎川さん」

 グラスを銀の盆に戻しながら、

「僕、あんまり激しく痛めつけられて……そのせいで体が吃驚して、過剰反応しちゃったみたいなんだ」

ジャー……なのか?」

「本当にご迷惑おかけして申し訳ありませんでした」

 含羞はにかんで笑うその顔には、確かに少年だった頃の面影が残っていた。但し、背も高く声も低い。脩の見知っている少年画家から4、5年は成長した姿をしている。


「どうぞご理解ください。私たちは、ずっとこのような稀有な体質と血を受け継いで生きて来たのです」


 妹と弟を両脇に呼んで虹の族長は言った。


 

「幾たび人は『この世は終りだ!』と叫んで来たことでしょう?

 だが、御覧なさい。未だに世界は終わってはいない。

 私は思うのです。

 一人でも生き残れたのであれば、その血は、命は受け継がれて行く……」


「〈民俗掃蕩〉〈絶滅〉がいかに難しいか。

 これも歴史が証明しています。皮肉にも、今回我々に災いを為したあのユダヤ青年の存在こそ、それです。かの一族は史上、何度も滅ぼされかけました。

 けれど、ユダヤの民は現在に生き継いでいる。歴代の施政者、覇王たちの執念にも拘らずに、ね?」


 今一度、交互に妹弟の顔を眺めて、言い切った。

 

「一人でも虹の民の血を引く者がいる限り――

 我々だってまだまだわかりませんよ……!」





「どうしたの? 何を見ているの?」


 脩はさっきから拳を見つめていた。

 久々に横たわった《虹》の階上、霓裳の居室の寝台の上。

「殴って悪かったかな?」

「何のこと?」


 ひょっとしてあいつ・・・……

 

「ヴォルツォフは気づいていたんじゃないだろうか」

「何を?」

「紗羽のことを」

 だとしたら、アノ言葉は全く意味が違ってくる。


 ―― 紗羽か。 あの娘は僕の予想どうりの身体をしていましたよ!


 

 あいつは娘の特質を確認した。

 そして、そうだとすれば、

 飛ぶことの出来る娘を炎から逃すことだって……

 いや、そもそも邑人むらびと全員を退避させてから火を放つことだってできたはず……

 秘薬(だと信じた)虹の花を独占するために、ギリギリあいつにできたことは、虹の民の邑の破壊であって、派手な残骸だけが〈証拠〉として必要だったのでは?

 いや、買いかぶりすぎだ。

 あれほど痛烈に裏切られていながら、まだ俺は懲りていないのか? まだ信じたがっている?


 だから、俺は嗤われるのだ。

 

 ―― 貴方は甘すぎます。


 続けて脩は思い出した。

 

 ―― 生き延びて下さい。貴方はどうか幸せに生きてください。

    国のためではなく愛のため、愛する者のために……!

 

 俺が教えたんだよな? おまえに。嘘をつくことが商売だと。


 寝台を下り、窓辺へ寄る。

 燦ざめく魔都、上海租界の夜景を眺めて脩は囁いた。

  

 おまえもな・・・・・、ギル!


 俺もおまえにはなむけの言葉を。


 生き延びろよ? 愛する家族ひとたちと共に!


 ビルの向こうに黒雲が垂れ込めた空が見える。宛ら、自分たちの未来のようだ。

 嵐を孕む不穏な世界に俺達は生まれ合わせたのだ。

 時代は選べない。だからこそ、生き延びろ。どんなことをしても。

 この激動の、我等の時代を……!


 俺も、おまえのこと、気に入ってたよ。


 シャララン……

 霓裳が手を伸ばしてレインボーメーカーを揺らした。



 工作員は何時いつ如何いかなる時でも、己の心情を明かしてはいけない。





 

 数日後、ロシア人殺害の件で改めて工部局警察が乗り込んだ時、《虹》の店内はもぬけからだった。

 店長、従業員はおろか、歌やダンスを競った花のような娘たちに至るまで――かすみのごとく消え去っていた。

 ハナから、工作員鮎川脩と補助員ギルベルト・ヴォルツォフの存在など確認する術もない。

 そもそも彼ら二人は存在していたのだろうか? 阿片の生んだ幻影、あるいは、魔都を徘徊する亡霊だったのかも知れないではないか。

 存在しないものを証明することは至難の技である。

 《虹》に捜査の手が入った日からさほど時をおかず、租界内で上海特別陸戦隊しゃんりくの中隊長射殺事件が発生した。それ以後、魔都の治安は一挙に暗転する。

 そうして、

 1937’8/11 陸戦隊支隊上陸。8/13 全軍戦闘開始。10/27 上海をほぼ征圧。

 (蛇足ながら、この一連の戦いは主にドイツ軍事顧問団の訓練を受けドイツ製の最新の兵器を持った中国軍と陸戦隊の闘いであった。同盟通信の松本重治上海支社長は「上海の戦いは日独戦争である」と月刊誌『改造』に書いたほどである。果たしてそこに某国の騙された秘薬への恨みがなかったかどうか……)

 1941’12月 租界全域は日本の統治下に入った。記録では10万を超える日本人が居住していたという。なお、日本租界内には2万のユダヤ人が居た。

 上海租界が終焉を迎えるのは1945’ 日本が無条件降伏をした年である。

 時を同じくして上海特別陸戦隊は中国国民党軍によって武装解除された。

 これにより100年に及ぶ租界の歴史は幕を閉じた――


 

       ✟


 この戦争前後のある時期、長江には夜になると不可思議な光を発する舟が行き来していると噂になったとか。

 美しい歌声と煌々と光る舟。

 これを見た者は幸福になるとも、長命を授かるとも、まことしやかに囁かれた。

 無論、その真偽のほどは定かではない。


       ✟

       

       ✟



 201Xの現在、上海は中華人民共和国が誇る最大の産業都市・文化都市である。

 1990年代より開始された上海(浦東)再開発計画により、かつての外灘バンド一帯は往年の面影が見事に復元されて、訪れる人々を華やかしなり時代へといざなってくれる。





201X 5'27

【恋子の旅日記】 いいね♥125


来たぞ~~~! 上海!

外灘ですっごいハンサム君に遭遇!


「あなた日本から来たの?

奇遇だな! 僕の曽祖父は日本人なんですよ。

よかったら日本人地区……日本租界をご案内しましょうか?

当時の面影が残っていてノスタルジックで素敵ですよ。

ホンキュー

虹の口って書くんだ。

ご存知ですか?」


▼より詳しい情報をみる


案内してもらった虹口にて。

どれも素敵な写真。

でも、残念一枚だけ。なにこれ、ハンサム君、光ってない?

―――


( ಠωಠ)( ಠωಠ)( ಠωಠ)( ಠωಠ)( ಠωಠ)





     




          

             虹の口 ・ 上海綺譚


           ――――   了  ――――        





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虹の口 sanpo=二上圓 @sanpo55

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