第20話


「ここにいらしたの?」

 

 霓裳ニーシャンに声をかけられて我に返るまで、しゅうは湖を覗き込んでいたらしい。


「あ、つい――」

 照れたように頭を掻く。

「ぼうっと見惚れていたよ。それにしても――いつまで見ても飽きない。本当にここは素晴らしい風景だな」

下のむらは何処か落ち着かず、気付くと、ここ、湖沼地帯に足を向けていた。

 長い旅をして来たのだ。脩とヴォルツォフは花の採取等、実務は、明日にして、今日はのんびり休むことにした。嬉々として紗羽バオユーが用意してくれた早目の夕食の後である。

 緊張が緩んだのか、ヴォルツォフも食事を取ると部屋の隅でリュックに寄りかかって寝入ってしまった。

 先に娘たちが断った通り、結局、他の邑人は誰一人姿を見せていない。皆、土気色の――事実、蛇の腹のように思える――ほらの奥深く息を顰めているのだろう。

 いつまで? 脩は自問した。きっと、俺とヴォルツォフ――遠方からの訪問者が立ち去るまで。

 そうして? これから先、未来永劫、ずっと……

 何故なら、彼ら虹の一族は気が遠くなる遥か昔から、長い時の中をこうやってひっそりと生き継いで来たのだから。


 (やはり、俺達は招かれざる客だったな。)


 わかっていたことではあるが。

 とにかく、最低限の調査を済ませて、できるだけ早くここを出よう。それが賢明だ。

「難しい顔をして……何を考えていらっしゃるの?」

 大地を踏み分けて霓裳が真横に立った。湖面に2つの影が揺れる。

「うん。例えば、ジャーのこと」

 これはこれで嘘ではなかった。

「虹の邑――君たちの故郷へ来てわかった気がするよ。甲に、あんなに素晴らしい絵を描けた理由が」

 暗い棲家と、一歩外へ出れば氾濫する光の風景。

 陰と陽。ネガとポジ。相反する究極の美しい世界が少年画家の揺籃だった。光と影――色彩の全てを甲はここで学んだのだ。

「あいつには天賦の才があった。もっと描かせてやりたかった……」

「ありがとうございます」

 硬い表情で姉は礼を言った。

「脩さんのその言葉、あの子が聞いたら、喜びます」

「あ!」

 ここで突然、脩は声を上げた。見つめていた湖水から一転、娘に視線を移す。

「霓裳、いいのか? もう日が暮れるぞ?」

 いつかの、車で遠出した日を思い出したのだ。

 周囲は夕焼けが始まっていた。

「じき暗くなる。君、闇が苦手だろう?」

「いいの。大丈夫よ」

 すっぽりと身体を包んでいたストールを肩まで摺り落として、素晴らしい微笑を煌かす虹の娘。

「この場所なら……平気」

「ああ、そうか!」

 脩は納得した。

「やはり、故郷の闇は特別なんだな?」

 もう一度、水面に目を戻す。夕陽に燃える湖沼群を眺めながら脩は言った。

「西洋のことわざでは、虹の根元には黄金が埋まっているそうだ。それを聞いた時、想像したよ。だとしたら、その地は物凄く煌いているに違いないってね。ここはまさにそこ、虹の生まれる場所……虹の故郷に思えるよ!」

 言い伝えは真実だったのだ! 辺り一面こんなに煌いて……!

 両手を広げて脩は叫んだ。

「世界中の虹はここから昇って行く……!」

「逆よ、脩さん。昇って行くのではなくて、降りて来るの」

「え?」

 可笑しそうに笑って霓裳が訂正した。

「中国では虹は蛇だと言ったでしょ。しかも、雄と雌の。その2匹の蛇は真ん中で尻尾を繋げて同体になっているんです。そうして、それぞれが地面に口をつけている……」

「へえ?」

 娘は白い指で空中に虹を描いてみせた。

「フフ、真ん中が繋がった尻尾。で、こっちの端がおすへびの口ならば……反対の端がめすへびの口……ね?」

「そりゃあ憐れだな!」

 脩の言葉に霓裳は吃驚して目を瞬いた。

「憐れって? 何故?」

「だってソレじぁあ――」

 脩は霓裳を引き寄せた。

「虹と霓は永遠に口づけが出来ない。こんな風に――」

 脩は口付けをした。虹の代わりに。

 虹に代わって。

 霓裳の指がきつく背中に食い込む。

「――……」

 胸の中でくぐもった声で囁いた。

「そうだわ。脩さん? 私たちの一族のこと……教えたんですもの。脩さんも教えて……」

「何?」

 刹那、怪訝そうに眉を寄せる脩。

「俺は秘密なんてなにも――」

 真剣な顔で答えた。

「もうあらかた話したはずだ。混血で、水の民で、工作員だということ。これ以上……」

これ・・よ」

 娘の指が背中をまさぐる。

「いつもシャツを脱がずに隠している、この背中には何があるの?」

「!」

「私、驚かないわ。どんなものを見ても。たとえ――」

 真直ぐに見上げてキッパリと言い切った。

「蛇の鱗でも」

「本当に?」

 脩は確認した。

「本当に君は、何を見ても驚かないかい? そして、俺を嫌いにならないでいてくれるのか?」

「なるものですか!」

 まだ燃え盛る太陽の残滓。その中で鮎川脩は上着を脱ぎ、シャツを剥ぎ取った。

「あ」

 

 そこに顕れたのは――

 蛇ではない、

 

 竜。

 

 黒々とうねる竜の、刺青だった。


「驚いたろう?」

 シャツを拾って、素早く着る。抑揚のない声で一息に話した。

「日本じゃあ、こんなもの彫るのは極道だけだ。俺は、一度グレたと言ったろ? 中学の頃、家を飛び出して……その頃、粋がって彫ったんだよ。散々馬鹿な真似をやった果てに、養母の今際いまわきわに、呼び戻されて……臨終の枕元で全うになるって約束した」

 

 その時、養母が手を握って言ったのだ。



 ―― 皆が吃驚しますよ、脩ちゃん。あなた、服を脱いではいけませんよ?



「ごめんなさい。じゃあ、私、脩さんにお義母様との大切な約束を破らせてしまったのね?」

「大丈夫さ!」

 脩は笑った。 

「オフクロはこうも言った」



 ――  貴方のことを心から好いてくださるお嬢さんなら、大丈夫。

     あなたがどんなにいい子かわかってくれます。

     でも、それ以外は……やたら・・・には、だめ。


 ――  わかったよ。かあさん。

 

 ――  ほんとうに、あなたはどこのだれよりもいい子なのに。

     こんな風に育ててしまったのは私のせいね?

     あんまり可愛くて、大切で、甘やかしてしまったわ。

     あなたのお母様になんと言ってお詫びをすればいいかしら?


 ――  いや、止めてくれよ。悪かったのは……馬鹿なのは俺の方だ……


 ――  脩ちゃん。あなたが幸せになるのを私は見つめていますからね?

     約束ですよ? 絶対、幸せにおなりなさい。

       

     幸せに……




「オフクロの言った通りだったな! 君は怖がらなかった」

「当たり前よ。私、脩さんが、ほんとに蛇や竜の化身でも、全然、平気だわ。だって――」

「霓裳……」

 脩が抱き寄せて、また口づけを交わそうとした、その時だ。

 大地を揺るがす凄まじい大音響とともに火柱が上がった。

 

 ドドドオォォン――――――


「きゃあっ!?」

「な、何だ?」




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