第19話

「――信じられない……!」

 

 突然目の前に出現した湖沼地帯。

 この世のものと思われない、空の青を溶かす大小の地上の青、青、青……


「これは……」

 そう、ジャー少年が描いていた幻想画の世界がそこにあった――



「これは……凄い……!」


 目の続く限り何処までも続く湖の群れ……

 天の蒼穹を盛る特製の容器……


「気をつけて!」

 思わず身を乗り出したしゅうの肘を霓裳ニーシャンが掴んだ。

「透き通っているので浅く見えるけど、凄く深いのよ。大きな湖なら底まで7丈はあるわ」

「まさか」   ※7丈=約20m.

「山脈から流れ込んだ水だな。石灰石の成分――炭酸カルシウムが湖底に沈殿してるんでしょう。だから、こんなに水の透明度が高い……」

 膝を折って両手で湖水を救い上げながら、ヴォルツォフはいかにも科学者らしい弁を吐いた。

「その上――水中では腐植物が石灰分に因って固められ、固定化される。結果、湖全体でこんな奇妙で美しい景観を生み出してるんだ」

「初めて見たよ!」

 脩は子供のように目を瞠った。

「こんな水辺の風景があるとは! 俺は川の民、水の民族出身だけど。なにしろ、長江は濁っているからな。あそこは濁りが豊かさの証しではあるが……」

 水辺を愛する男の率直な感嘆を愛しそうに見つめてから、霓裳は視線を転じた。一方、学術的な興味を押さえられないギルベルト・ヴォルツォフ。

「フフ、それにしても……ヴォルツォフさんは色々なことにお詳しいのね!」

 娘の賛辞にヴォルツォフは目を逸らした。

「いえ、欧州にも似た場所があるんです。クロアチアのブリトヴィツ湖群という処です。ここほど広大ではないけれど僕はそこを知っていたので……」

 濡れた手をハンカチで拭いながら話題を変える。

「甲君の描いた玫瑰メイクイみたいな花の――花畑は見えませんね?」

「ああ、それはもう少し先よ。ここよりはずっと小さくて浅いわ」

 霓裳はすぐに案内してくれた。

 10分ほど歩くと至ったそこは、言葉通り、小さな池だった。護るように周囲を木立が囲んでいる。


 再び言葉を喪う脩とヴォルツォフ。

 

 二人は身じろぎも出来ないまま、暫く立ち尽くしていた。

 通り過ぎて来た湖沼のどれとも違う色……!

 今まで見て来たのが零れた空を溜めた器なら、ここは空だけでなく光まで閉じ込めた器……?

 池中にぎっしりと花が植えられているせいだ。

 実際、その小さな池は宝石箱のように見えた。

「こりゃ……子供の頃クリスマスに貰ったスノードームのようだな! 思い出したよ!」

 丸いガラスの球体をひっくり返すと閉じ込められた水中の花々に銀の雪が舞う……この場合、雪は降り注ぐ光、太陽の陽射しだ。

「僕が思い出すのはパンチです。パーティがあると母が必ず用意したっけ。硝子鉢に注いだワインに色々なフルーツがキラキラ浮いていて……その色合いが綺麗で悪戯に掻き混ぜて、よく叱られましたよ」

 だが、男たちはすぐに表情を引き締めた。

 脩は率直に質した。

「これが――今、目の前にあるこれこそが、君たちの秘薬……〈虹〉の原料なのか?」

 ヴォルツォフも我慢できず身を乗り出す。

「想像はしていたけれど、凄く変わっていますね? 一見して麻の種類とはかけ離れている――」

 霓裳は頭を振って悲しげに一つ息を吐いた。

「この花は、この池でしか育たないんです。他のどんな池に移植しても枯れてしまうの」

 かって、甲の描いた絵を見て脩やヴォルツォフは〈印象派の技巧〉と誉め讃えたが、こうしてみると少年は現実を忠実に再現しようと試みていたのだ。

 一同が眺めている間にも花達は色を変えて行く。空中の光の粒子、空の濃淡、雲の動き。それらを映して、風が吹き過ぎるたびに赤から橙、そして黄色、紅緋、蘇芳すおうとき色、また代赭たいしゃ色、葡萄色……

 脩は呟いた。

「ああ! 本当に、〈虹の花〉だな……」

「ええ。これもまた、浸かっている水の影響でしょうか? 大量の石灰分と光の屈折率。底に生えている苔も何らかの作用を及ぼしているに違いない」

「おいおい、ここへ来てそんな無粋なこと言うなよ」

 呆れて苦笑する脩。だが、その声も耳に入らないほどヴォルツォフは興奮していた。花達の上へ屈み込むと、

「何だろう? 玫瑰――薔薇科というより杜若かきつばたの変種に近いような……見た限りじゃ明らかに抽水植物ですが、この種の植物がTHCを有しているなんて聞いたことが無い! と言うことはやはり新種?」

「俺達は今着いたばかりだぞ。詳しい調査はこの後ゆっくりやればいい。まあ、落ち着けよ、ヴォルツォフ――」


「ヴォルツォフさーーーーん!」

 

 名を呼ぶ声が重なった。傍らの脩より遥かに甘くて澄んだ声。


「あれは――」

紗羽バオユー?」


 息せき切って駆け寄って来たのは、なんと、上海租界の店にいた娘――

「信じられない! この場所で? 貴方に再びお会いできるなんて!」

 ヴォルツォフの緑の瞳をうっとりと見つめた後で、紗羽は霓裳に抱きついた。

「ああ、お帰りなさい、霓裳! じゃ、やはり私たちの薬は日本に管理してもらうことになったのね? 商談成立!?」

「ええ、そうよ、紗羽……!」

「良かったじゃない、霓裳、おめでとう! あなたはずっとそれを願っていたものね!」

 抱き合った肩越しに紗羽は悪戯っぽく脩を見上げて目配せした。

「霓裳たら、二言目には脩さん、脩さんて。脩さんこそ信頼できるって、そりゃあもう煩さかったのよ」

「い、いやだ、紗羽、止めてよ」

 霓裳は慌てて紗羽から離れると頬を染めて説明した。

「あのね、例のロシア人の殺人の件で、この紗羽が疑われたから、工部局にこれ以上深く詮索される前に故郷へ帰らせていたのよ」

「そうだったのか!」

「それは賢明な判断だと思います」

 改めて紗羽はヴォルツォフの前へ立った。

「ヴォルツォフさん、お久しぶりです。また会えて嬉しいわ!」

 おずおずと白い手を差し出す。ヴォルツォフも握り返した。硬い表情は相変わらずだったが。

「僕もです。その、元気そうで……何よりです」

 すぐに手を引っ込めると、決まり悪げに金の髪を揺らして周囲を見回した。

「で、あなた方のむらは何処なんです?」

 虹の娘たちのたおやかな腕がそよぐ。鏡を敷き詰めたような青い大地からやや傾斜した方角を指し示した。

「それは……この下よ」

「もっと下った谷の中……だわ」



 水を湛えた湖沼地帯から、一路、低地へ。

 

 日干し煉瓦を積んだ回廊めいた建物は、くすんで色彩に乏しく、遠くからでは畝った蛇のように見える。


 フーディは1000人と言っていたが。

 邑はひっそりと静まっていて人の気配が全くなかった。

 邑に入ってもくすんだ印象は変わらなかった。

 上層の湖沼地帯で煌くものを見すぎたせいだろう。土気色の建物は装飾も無く、遠望した時同様、うろにしか見えない。明かり取りと思える窓も、奥から布状のもので塞がれていた。

「大概の邑人は外の人に姿を見られるのを好みません。同族以外の人間をひどく怖がっているんです」

 俯いて申し訳なさそうに霓裳は言う。

「怖がらない、豪胆な者は外へ出て行くし……」

 庇うように紗羽が続けた。

「ええ。威勢の良い元気者は、逆にここを嫌ってさっさと出て行ってしまうんです。そして、外の世界で自分が虹の民だということを隠して暮らすの……」

「二度と戻って来ない者も多いわ」

 上海ほど遠方ではなくとも成都など都会で生活している同族もいるらしい。だが、これは少数民族では珍しくないことだ。

「ですから、邑の人たちが無愛想で、挨拶になど来なくても、お許しを」

 虹の娘たちは謝罪の言葉を吐いた。

「お二人とも、どうかお気を悪くなさらないでね?」

「そんなこと!」

 笑い飛ばす脩。

「全然気になどしませんよ! 実際、僕らは、いきなりやって来た無遠慮な異邦人……得体の知れない奇妙な訪問者なんだから。なあ、ギル?」

 陽気に後輩の肩を叩く。

「特におまえなんか、鬼だと思われるぞ? その金の髪、緑の目」

「ええ、そのとおりです」

 ヴォルッフは脩の軽口を笑わなかった。リュックサックを揺すり上げて相槌を打った。

「僕も、邑の皆さんとは顔を合わせないほうが楽です。気が散らなくて仕事がはかどります……」






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