第18話

「それにしても吃驚したよ。おまえが? あの場でいきなりあんなこと言い出すなんて……」


 ホテル帰還後の共用リビングルーム。

  急遽決定した明日の旅立ちを前に、はなむけの盃でもなかろうが、グラスを二つ並べてウィスキーを満たすしゅう

「甘い人間はこの職業に向いてないと言ったのは貴方ですよ。どうです? 僕は工作員になることを諦めてはいない。だから、ここは正当に評価して下さい」

 窓辺に立って夜景を見下ろしていたヴォルツォフが振り返った。

「みすみす貴方に落第点を付けらてクビになるわけにはいかないんです」

「わかったわかった。今回の件で全てが終了した暁にはちゃんと大佐に報告するさ。現地確認を提言したのは優秀なる補佐役ギルベルト・ヴォルツォフ君だったと。さあ、こっちに来て……乾杯しようぜ」

「本当に、よろしくお願いしますよ」

 脩の前のソファに腰を下ろすと、ぼそりと付け加えた。

「僕に言わせれば」

「え?」

「貴方の方が……ずっと甘いように思います」

 欧州人の外見をした金髪碧眼のユダヤの青年は、ふと不吉な言葉を口にした。魔都は静安寺町の西洋人墓地にある天使の石造のような微笑。

「……この旅の結末が後味の悪いものにならないといいんですが」

「それはどういう意味だい? 俺が騙されているとでも?」

 グラスを渡しながら脩、

「そりぁあ、今回の話は突拍子もない夢物語……絵空事のように聞こえるが。フーディや霓裳ニーシャンが嘘をついているようには俺には思えない。乾杯!」

 二つのグラスがぶつかって鈴のような清涼な音が室内に響いた。

 その音色が消えない内に脩は言った。

「俺の実母も特殊な少数民族出身だから、フーディの言ったことはわからないでもないのさ」

「え?」

「以前おまえに明かした思い出話は全て本当のことだよ。俺は〈D家〉族と呼ばれる水上生活者の一族の混血だ」


 

  天马河水波连波    きらきら 天馬の河に連なるのは水の波   

  万千小鸟多又多    あそこ ここ 飛び交うのは幾千万の小鳥たち 

  百年古榕舞婆娑    幾年月もこの歌を口ずさんで来たのは女たち

  好听的古仔一箩箩……  さあ、ぼうや、いつもの歌と ゆらゆら夢の中へ



「なんです、それ?」

「ふふ、ポーの詩は知ってても、流石にコレは知らないだろう? D家の子守唄さ。俺が五つの歳まで聞いて眠った……」


 

  离不开船           船からは離れられない

  离不开水           水からは離れられない

  这就是蛋家人的命       これがわたしたちの定め



 

「まあ、だから……何が言いたいかというとだな、この大陸には未だ地図にさえ記入されていない秘境や民族がいても可笑しくないということさ」

「ああ、そうですね」

 神妙な口調で頷くヴォルツォフだった。

「貴方の、その意見には僕も同感です。実は今回、〈虹〉に纏わる新薬騒動に関わって、僕なりに資料や文献等を読み漁ったのですが、それで――僕も知りました」

 一気に盃を飲み干して、口を拭い、生真面目な顔で言う。

「この中国大陸には麻薬と推測される植物の記述が実に多いんですよ」

「へえ?」

「例えば『海山経』。これは紀元前5から3世紀の書物ですが、これに〈不死草〉と呼ばれた苴草しょそうという名の植物の記述がある。それから、4世紀、晋の葛洪かっこうの著した『抱朴子ほうぼくし』で〈仙薬〉と記された植物とか。

 前漢から三国時代の『陶隠居撰神農本草経』の中の麻蔶まふん麻勃まぼつも怪しいな。この草の雌株の花芽部分に毒があると書かれていて『沢山食すと鬼を見て走り、長く服用すると忘我の状態に陥り異界に遊ぶ』

 どうです? これって明らかに麻薬服用時の幻覚状態を思わせるでしょう?」

「うむ……」

「漢代の小説『海内十州記かいだいじゅっしゅうき』には『祖州に不死の草あり。長さは3、4尺、この草で死後3日以内の死者を覆うと皆すぐ生き返る』……」

 ヴォルツォフは頬を上気させて列挙した。

「唐の則天武后の頃成立した張文成の『朝野僉載ちょうやせんざい』卷3にはゾロアスター教の司祭たちが示した驚異的な幻術が書かれていますよ。いずれも『門を出でて身体軽く一瞬にして数百里を飛行…』等等、『刀で腹を刺し腸を抉っても呪文だけで回復した』り、『額に釘を刺された男が飛鳥のごとく数百里走った』り、全く持って尋常じゃない。薬でもやっていない限り不可能だ」

 脩は後輩のグラスに酒を満たしてやった。

「改めて言うまでもなく、大麻は雌雄異株の植物です。漢字では雄を〈〉、雌を〈しょ〉と書く――どうかしましたか?」

 視線を泳がせている脩に気づいてヴォルツォフは話を中断した。

「あ、いや、雄と雌って言葉を聞いて、ちょっとな」

 脩は霓裳から聞いた話を思い出したのだ。

「そう言えば、霓裳が言ってたよ。ここ中国では虹にも雄と雌があるんだとさ」

「そりゃ凄い! 流石、四千年の歴史を有す国だ!」

 高々とグラスを掲げるヴォルッオフ。

「カンパイ! その悠久の時代を超えて、たった一つの種族がたった一箇所――自分たちの小さな領域で栽培し続けて来た秘密の植物……それが魔の新薬の原料と言うことなのでしょうか? ああ、待ちきれないや! これは一刻も早く実物を見て見たいものだ……」

 脩は笑った。

「おまえ、さっきと言うことが違ってるじゃないか」

「え?」

「さっきは悲愴な顔つきで『この旅の結末が悪いものにならないといい』なんぞと呟いたくせに?」

「そ、そうでしたっけ?」

 青年は紅潮して頭を掻いた。

「ぼ、僕は、旅には危険が付き物だって、そのことを言いたかっただけです。いづれにせよ、紀元前から、ペルシャ、インド、そして中国は幻想性植物の宝庫なんだから! 薬学に携わるものとしては好奇心を押さえられません!」




「なるほど! 好奇心はともかく、危険に対処するおまえの心構えは充分にわかったよ!」


 翌日、自室から出て来た後輩を見た脩の第一声である。

「おまえは本当に――ユダヤの血とゲルマンの血、その両方の良き資質を受け継いでいるんだなあ!」

 心から感嘆して脩は言ったのだ。

 これ以上ない頑丈な登山用長靴ブーツに膨らんだリュックサック。

 尤も、服装の方は脩自身も同様で、馬掛児マアクワル大掛児タアクワル、漢服を着込んでいる。

 中国最奥地に侵入するのだ。不必要に目立たないよう中国風の装束を選んだ二人だった。

 やって来た案内役の霓裳も、今日は厚地の裤子クウズをしっかり履いている。けっして、ヴォルツォフの重装備を笑わなかった。

 こうして――

 〈虹〉一族のむらを目指す旅は始まった。





 3人がまず目指したのは成都市である。

 ここは1929年、国民党政府が四川省の省会(政府所在地)と成したばかり。

 古くは三国時代の蜀の都と言った方がわかりやすいかも知れない。

 4世紀初頭、李特が占領して成都王を称し、五代十国時代には前蜀、後蜀の都となり、宋代に養蚕、絹、紙を特産物として商業が発展。以後、四川の中心地として栄えるも、明代末から清代に至って殺戮や反乱が繰り返され見る影もなく荒廃した――

 が、実に成都はこの旅の入り口に過ぎなかった。

 ここより更に450km。遥か岷山びんざん山脈に分け入る道程である。

 この時代、この時節、最奥の異郷へ足を踏み入れる酔狂な外国人などいなかった。

 余談だが1869年春、仏人宣教師が〈猫熊〉ことジャイアントパンダを発見したのがこの地域であることを思えば、いかに深山幽谷の秘境か想像できよう。

 一向は口を引き結んで旅を続けた。

 冬に降った雪の、雪解け水が奔る岷江びんこう沿い、まさに九天から銀河が零れ落ちたかと疑う凄まじい滝――この清冽な水はやがて長江へ流れ着くのである――を迂回すること数回、また、本物の、煌く銀河の下に寝ること数回…… 

 過酷ではあるが凄絶に美しい旅ではあった。

 

 そうして、辿り着いた地こそ……





「――信じられない……!」




  ※詩は〈水上のジプシー〉から引用させていただきました。

   http://www.geocities.jp/kjbmh507/minzoku/gypsy/gypsy1.pdf#search='%E7%96%8D%E5%AE%B6+%E4%B8%AD%E5%9B%BD%E6%B0%B4%E4%B8%8A%E7%94%9F%E6%B4%BB%E8%80%85'

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