第14話
「夜は、こいつは役立たずだな……」
寝台から物憂くレインボーメーカーを見上げて
「そうよ。これは、外からの光――お日様の光がないと煌かない」
部屋中に光をばら撒けない…… 虹は作れない……
「なあに? また水の反射が見たくなったの?」
そんなに水を恋しがるなんて、と胸にしだれかかって娘はからかった。
「以前、『自分は蛇の化身だ』なんて言ってたけど ひょっとして、脩さんは水蛇さんなのかしら?」
「〈D家人〉というのを知っているかい?」
唐突な脩の言葉。飾ってある古地図を眺めながら、真摯な口調だった。
「何しろこの国は広いからな。色々な民族がいて、その数だけ――生き方や暮らし方があるだろ?」
ハッと息を飲む音。
「え?」
「〈D家人〉族は水上で一生を過ごす」
起き上がろうとする娘の細い肩に腕を回して再び胸に抱き寄せた。
「現在は、ほとんどの〈D家人〉族は一部の川に家舟を繋いで暮らしているが、もっと昔は、陸に上がらず川を上り下って生涯を送った。人間の命は短いな? せいぜい、4度か5度、川を行き来すれば寿命は尽きるのさ」
舟はゆっくりと川を下り、海に至る。そしてまた昇る。そんな旅を4、5回繰り返して、ある日、船の上で寿命が尽きて死んで行く。
蓄音機から流れている曲は何だろう? G・ガーシュウィン。誰かが私を見つめている。someONE TO watch over ME 誰かが、誰かが私を……いつも誰かが私を……
「静かで美しい暮らしだよ」
脩はそっと目を瞑った。
「俺がするはずだった生活……」
「脩さん――」
「俺は混血なんだ。母は踊り子だか歌手だか酌婦だか。マア、確かなのはD家人出身の娘だったということ。陸に上がって、日本人と懇ろになって――
だが、身籠ったのがわかると母は実家に戻った。この場合、舟に戻ったわけだ。その時は両親は既に亡くなっていて兄が当主だったらしい。
こうして、だから、俺は舟の上で生まれた」
一回だけ、と脩は微笑んだ。
「川上から川の途中までの景色を見たよ。
生まれてから俺は
春はスモモの花が霞のように流れ、秋は黄や橙や朱色の葉が錦の帯を広げたよう。
冬は銀粉みたいな雪が降る。
夏は……」
くぐもった笑い声。
「夏は、そら! この前、一緒に見たよな? あんな風に蛍が……今度は、蛍が、冬の雪のごとく飛び交う……」
「カワイルカを知ってる?」
目まぐるしく変わる話題。こうなると
「長江のちょうど真ん中ぐらいまで下ると出会える。その辺り、中流から河口まで棲息してる。
伯父貴はイルカを見ると、旅が半分終わったって、言ったもんだ。ありゃあ、大昔に海から川に閉じ込められたらしいな」
「な、何が?」
「カワイルカだよ」
娘の黒髪に口づけをひとつ。。
「それで、連中、泥の濃い長江の流れに体が馴染んで、視力が退化して、盲目なんだと。
でも、それでいて――いや、だからこそ、か? 風のように水中を泳ぎ廻れるんだ。
見るのをやめたことで、もっとよく見えるようになった、視野を広げた賢い生き物だよ」
ここで脩は言葉を切った。自分の胸に訊いてみる。ちょうど心臓の上に乗っている娘の重み。その熱。
(俺はどうだ? 目を瞑って何が見える? 何か見ているのか?)
娘を放して寝返りを打った。
腹ばいになって、話し始めた時同様、また唐突に喋り出した。
「初めてカワイルカを見た頃だ。つまり、川を下って……中程の地点で……ボートに乗ったスーツ姿の日本人の男たちがやって来た。そのまま俺は父親の元に連れて行かれた。父が言うには、俺の母が身篭ったと聞いてずっと探していたんだとさ。本妻との間に子供ができなかったから跡継ぎが出来て嬉しい――」
この部分を
「この後の話は面白くも何ともない、平凡な話だ。
今日も脱がなかった、着たままのシャツを引っ張って皺を伸ばしながら、
「一時ぐれたことがあるけど。養母が天使みたいに善良で優しくて、本気で俺を愛してくれてさ。死ぬ間際まで俺のこと心配して、とうとう俺は『全うな人間になる』って臨終の場で手を握って約束しちまった。鬼婆みたいな継母なら良かったのに。ホント、人生は上手くいかないや。ついでに言っとくと、父親がそれなりの軍閥一族の家系なのは事実。義母は華族出身の永遠のお姫様だった」
ここで漸く霓裳は訊くことができた。
「本当のお母様と伯父様はご健在なの? 今回、
「いや」
あっさりと首を振る脩。
「でも、生きているなら、今日も川の何処かを下るか昇るかしてるだろうな」
「会いたいでしょう?」
「どうかな」
本心からの言葉だった。
「あそこ、川の上は時間感覚が違う。周りの風景が大きすぎて、舟の動きなんぞ止まってるようだ。いや、全てが止まっているんだよ」
「?」
「だから、いいんだ。むこうは何も変わってない。外へ出てしまった俺だけが、こっち側の世界にいる俺だけが変化している」
こうしている、こちら側の俺の日々が夢のように思える。ああ? この本音、アイツにも漏らしちまったな。
いきなり、むくりと起き上がると姿勢を正して脩は言った。
「頼みがある。霓裳。薬を分けてくれ」
「だめよ。持ち出し禁止のルールはご存知でしょ」
「時間がない。どうしても必要なんだ。本当は謎を解いて、見事に君の故郷を当てて、その見返りにねだるつもりだったが、そんな悠長なこと言っていられなくなった」
声を一段低くした。
「殺人事件があったろ? この店の娘が関わっていようといまいと工部局が介入して来るのは、もはや時間の問題だ。何故なら、殺された男、あれは工作員だから」
流石に霓裳は蒼白になった。
「セルゲイ・アクシャーノクさんは白系ロシア人だったわ。じゃ、ソビエト連邦のスパイだったの?」
「違う。もっと始末に悪いことには、単独の国じゃなく……ご当地、ここ租界の、工部局の工作員だ」
「嘘! 何故、貴方がそんなこと知ってる――」
掠れて震える声。
「まさか、脩さん、貴方も工作員なの?」
脩は言葉に出して答えなかった。唯、目で肯定する。
間髪入れず、続けた。
「なあ、霓裳? 全てを取り仕切っているのは、責任者は、あのフーディ・Gなのか? 俺は、それ以外の人物の気配を全く感じないのだが。いずれにせよ、よほど巧妙に立ち回っているみたいだな」
「――」
「兎に角、その元締めの目的は何なんだ? 得体の知れない薬――未知の麻薬を使っての金儲けか?」
「私――」
「君たちが何処まで知ってるのかは、この際、どうでもいい。むしろ、『何も知らない』で通してくれる方が俺には好都合だ。唯、コレだけは言える。この《虹》の店内で行なわれていることは非常に危険な行為だと。
はっきり言って、国や軍以外の個人……〝一般人〟が、今、
真直ぐに瞳を見つめて、蹶然と言い切った。
「俺達日本人の庇護の下に入る。これだ。これこそ正しい選択だ。そう遠からぬ未来に、上海租界全域は日本の統治下になる。この流れは押し止められない」
「それは、つまり――」
虹の娘の美しい顔が引き攣った。
「本格的な全面戦争が近いという意味?」
「俺は喋り過ぎたな。でも、信じて欲しい。最初の日に言っただろ? 俺は、面白くて――正直な男なんだよ」
「嘘よ。貴方はちっとも面白い人なんかじゃない。いつも私を悲しくさせるわ。でも――待ってて」
霓裳は浴槽へ姿を消した。
暫くして戻って来た娘の手には香水の小瓶が握られていた。中には透明な液体。
「これを……持って行って……」
「ありがとう!」
脩は暁闇の
夜明け前が一番闇が深い。一目散に駆け続ける。
が、とある通りで足を止めた。
そこから伸びる裏通り。細い路地奥には油壺のようにドロリと闇が蟠っている。
漏れ聞こえる不快な音。マガダムの砂利を軋ませ、殴り、蹴り、砕く、暴行の響き。
とはいえ、ここ魔都ではよくある光景だ。
関わるな。何事もなく通り過ぎようとして、ハッとした。
「あれは……」
目の端を掠めた見覚えのある姿――
「
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