文章(文体)について

 昔(本当にかなりの昔に)、ある隔週刊の小説誌の賞に佳作で入選したことがある。本当に小さな専門誌の賞で、大賞1点、佳作5点が選ばれ、その時の投稿総数は300件に満たなかった。賞金は大賞のみ5万、雑誌掲載される。その専門誌はそれから直ぐに隔週刊から月刊、季刊となり2年くらい後に廃刊になった。

 入選作品には選者代表の作家先生(名前は上げないがけっこうな大家)から選評がいただけるのだが、六畳ひとまの作品はもうボロボロ、ケチョンケチョンにけなされた。

 それはもうハンパないほどで、基本的にそこの選評は「ここは良いけともう少しこうすれば……」みたいな感じなのに、ほんとうにクソミソに最初から最後まで、そこが悪い、あれが悪い、プリントアウトの仕方までダメだしされた(他の入選作のレベルが高かったのかも知れないがそれなら六畳ひとまが選ばれる理由もない。むしろ反面教師として当て馬にされた感すらある)。

 まあ、それは六畳ひとまの未熟さゆえ、色々と考えてみると確かにその通りで(その時は自前の創作論的なものも余り持っていなかった)、凄まじくへこんだものの、これからも創作活動をやっていこうと決意を新たにすることが出来た。

 因みにその時はワープロ・ソフトで横書き、プリンターでもそのまま印刷していたが、それを受けてそれからは30字×40行の縦書きで書き、それを賞の印刷条件ごとに組み直して印刷するようになった。


 その時に強く言われたのが文章(文体)のこと。

 「月並みな表現と言い回しばかりで、くどくて読みにくい。文章が読者のほうに向いていない」

  その頃は六畳ひとまにしか出来ないような表現なんてなく、借りてきたような文章をコネ繰り回して、凝った言い回しや難しい漢字や言葉を探してきては放り込むのが小説的でカッコイイと思っていた。辞書好きだったこともあり、そこでみつけた言葉や言い方をこれでもかと使っていた。

 確かに全く読者に向けたものではなかった。要するに自分が満足するためだけの書き方で、そんなもので出来上がった小説が面白く読めるはずがない。内容以前の問題であった。


 例えば、コップの水を飲む、という描写。

 これをコップがどんな形状で水がどれだけ入っていて、それがどんな風に置かれていて、主人公がそれをどう持ってどうやって口に運ぶか、喉元を過ぎる感覚や満足感、それを過飾し、比喩を多用し、やたら複雑な文章にしていた。個人的には“小説を書いている”という実感があって満足していた。小説の文章ってこんな感じでしょ?

 全く違う。何度も読み直しているうちに、なんか強烈な違和感を覚えるようになった。この違和感はなんなのか。


 それである時からこういう文章を一切封印した。それこそ徹底的に使うのをやめ、とにかくシンプルに、コップの水を飲むなら、本当にその通りに書いてみる。余計なことは書かない、というのを自分に課した。

 最初は行動や思想の羅列にしかならなかった。シンプル過ぎて小説とは到底呼べないようなものが出来上がった。

 誰は何をした。それでこうなった。○○は○○を見てこう思った。そんなのばかり。

 もちろん何一つ満足できるようなことはなかった。別に選評はそういうのを一切やめろと言っているわけではない。それはわかっていたが、一度、自分の文章から余計なものをひっぺがしてみないと何が何だかさっぱりわからない。

 長らくそうやってシンプル過ぎる文章を書き続けたおかげで、それがクセになってしまって今でも元に戻せないでいる。六畳ひとまの文章で凝った表現がほとんどないのは、その影響が大きい。


 読者にほうに向いた文章にするというのはどういうことなのか。読者にどうやって印象深く、作者の意図を出来るだけ正確に伝えられるのか。色々と考えて、今でも考え続けている。

 さっきの例でいうコップの水を飲むという、その描写には作中ではどんな意味があって、それは読者にどんな印象を与えるのか。

 暑い最中、汗だくで仕事から帰って来て飲む一杯の水と、夜遅く、灯のない部屋に帰って来て水道の水を汲んで飲むのとは、同じ一杯の水でも状況が違えば意味はまるで違う。

 コップの中に水がどれくらい入っているかなんて、8分目だろうが半分だろうが読者には興味がない。それ自体に意味がある場合でなければ、水の量をことさら強調する必要はない。

 そして全体の流れやテーマの中で、そのシーン、描写にはどんな意味があるのか、全体に与える影響はあるのか。

 書きながら、或いはポスト・プロダクションの段階で、ひとつひとつ精査していかなければならない。

 もちろん、全ての文章に意味がある必要はない。むしろ窮屈になってしまって読むのが重くなる。

 少し軽い、意味のない(或いは薄い)文章で一瞬、一時的に雰囲気を緩めることも必要だと思う。

 強弱、メリハリをつけて文章にリズムをつける。読者に伝えたいことを過不足なく、程よい文章で、それでいて印象強く伝える。

 読者のほうを向いた文章というのはそういうのだと思うんだが……。


  六畳ひとまらしい、自分にしか出来ない表現が何かなんて今でもわからない。今も試行錯誤は続いているしこれからもずっと続く。終わることはないだろう。ひたすら研鑽と経験を積み重ねて作り上げていくしかない。

 恐らくこれは全ての物書きの永遠の課題なんだと思う。


※映画監督の押井守は独自の“ダレ場理論”というのを持っている。映画の中で敢えて意味のないダレる場面を作ることによって全体にメリハリをつけるということらしい。もっとも最近の押井作品は全編ダレ場という印象が強く上手くいかない。

 タランティーノがよく使う、意味のない長いおしゃべり(台詞)も、同じような意図で演出されたものだと思う。若干長すぎると感じる時もあるが、パルプ・フィクションやレザボア・ドッグスを観る限り、それが邪魔でダレたような感じばそんなにしなかった。むしろキャラクター性や世界観を感じさせて面白い(しかし下手なタランティーノ・フォロワーがそれをやろうとして悉く失敗している)。

 ダレるところがない=良い映画とされる中で、ダレないような強弱のつけ方は、やはり面白さに直結するのだろう。小説と映画は違うとしても、強弱の強調する部分以外で如何にダレずに読者の関心を広げていくか、それが技術やセンスなのかも知れない。

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