◇5.愛しい日常
一瞬の出来事だった。
青白い炎が、咲綺の眼前に瞬いた。そう思った瞬間、咲綺の身体は宙を舞っていた。
五メートルほどの高さから真っ逆さまに、咲綺は地面に落ちていく。
このままでは、咲綺は地面に打ちつけられて死んでしまうかもしれない。がしゃどくろに喰われる際の恐怖とはまた違った恐怖に、咲綺は悲鳴を上げる。
「……うん。声を出す気力は取り戻したようだね」
抱擁するように、温かい腕が咲綺のお腹に回った。
九十九だ。彼は、刀を持っていない方の手で、背後から咲綺を抱きしめると、重力に逆らうことなく落ちていく。
このままでは道連れだ。
そう思った咲綺だが、九十九はすぐに行動に移した。
青白い炎が、刃を包む。それと同時に、彼は近くにあった壁――否、がしゃどくろの腰骨に刀を突き立てた。
この世のものとは思えない、
迫りくるがしゃどくろの腕を飛び上がることにより除け、ついでに足場にすると、九十九はぴょんっと、そのまま地面に飛び降りた。
それでも結構な高さがあった。それにもかかわらず、九十九は足を踏みしめると、次なる攻撃を避けるべく、後退するように飛びすさる。
「さて、そろそろこいつとのお遊びは終わりにしなきゃね。今日は珍しく生の人間がきたものだから、釣られた妖怪がたくさん寄ってきている」
戦いをどこか楽しむような口ぶりだった。
九十九は、トイレの壁に咲綺をもたれかからせると、日本刀に似た歪曲した刃を構える。そのまま一直線にがしゃどくろに肉薄した。
がしゃどくろの全身に、青白い炎が上がる。次第に骨の形は無くなっていき、あの巨大ながしゃどくろは見る影もなく、灰に散り果てた。
その間に、青白い炎を上げる刃は、飛びかかってきた妖怪を数体薙ぎ払っていた。
何分間、続いただろうか。
茫然と彼の活躍を見ていることしかできなかった咲綺には、わからなかった。
九十九が軽やかな動きで、公園に入ってくる妖怪を蹴散らしていく。ある者は腕を、ある者は頭に、刃を突き立てて、切り捨てる。
その光景を、咲綺はただトイレの壁にもたれかかって眺めていることしかできなかった。
公園内にいくつもの青白い炎が上がり、燃え尽き消えて、やっと九十九は肩の力を抜いた。軽く息が乱れている。それでも、仮面の裏に隠れている口は、勇ましいほどの笑みを湛えていた。もし咲綺がそれを直に見ていたら、怖気がふるっていただろう。それほどの満面の笑みだった。
落ち着いた九十九が、周囲に妖怪がいないことを確認してから、咲綺に近寄ってくる。
狐面で覆われた顔からは感情を読み取ることはできないが、咲綺は少し不気味に思った。
「やあ、
まったく白々しい挨拶だ。
いくらか冷静さを取り戻していた咲綺は、下から九十九をにらみ上げる。
「どうして、すぐに、助けてくれなかったの?」
彼の力なら、咲綺ががしゃどくろに喰われる前に、救い出せていたはずだ。
だというのに、化野九十九は、一度咲綺を見捨てた。わざとらしく、咲綺ががしゃどくろに喰われるのを良しとしていた。
そこにどんな思惑があったのか、咲綺はわからない。わからないけれど、冷静になったいま思い返してみると、真っ先に怒りが湧いてくる。
怒りをぶつけられた九十九は、それでも態度を改めない。
仮面をとると、咲綺を見る。見下すような瞳で。
目を細めて、九十九は咲綺の問いに答えることなく、逆に問いかけてきた。
「どうだ、咲綺。またここ――裏側の世界にきたいと思った?」
「ッ。……そんなの」
先程、九十九の忠告をことごとく撥ね退けて自分の意見を押し通そうとしていた気迫は、いまの咲綺にはなかった。
それは、がしゃどくろに喰われる経験を一度してしまったからだろうか。それとも、たくさんの妖怪を見てしまったからか。
いや、どちらにしても、こちらの世界で頼みの綱だった九十九にされた仕打ちに比べれば、それらはまだやさしいものだったのかもしれない。
咲綺はすっかり目の前にいる少年が、信じられなくなっていた。
この裏の世界は、妖怪が跋扈する場所だ。
戦う術もなく、この世界をひとりで歩き回るのは、人間である咲綺には到底考えられない。もう、抗う気力もない。好奇心は、簡単に打ち破られてしまった。
「……あんた、何者なのよ……ッ」
「うーん、そう、だね。咲綺に酷いことをしてしまったから、答えてあげてもいいよ」
目を細めて、口を笑みで歪めた化野九十九は、刃を鞘に戻しながら、言う。
「オレは、妖怪と人間のハーフだ。故あって、妖怪の父親を捜すために、妖怪を狩っている」
トイレの鏡に手を振れると、光が溢れて、咲綺は現実の世界に戻ってきていた。
周囲が暗いのは変わっていないが、こちらの暗さは裏側の世界とはまた違う。
夜道には、きちんと街灯が灯っている。
明るい光で照らされた道を、咲綺はひとりで帰路につく。
九十九とは、裏の世界に戻る前に別れた。彼は、まだあちらの世界で妖怪を狩ると言っていた。
咲綺は、もう裏側の世界には――非日常には近寄らないと、九十九と約束をした。それを守っている限り、咲綺の身が危険にさらされることはないだろう。
いま思えば、馬鹿なのは咲綺のほうだった。
咲綺は今日まで、不変ない日々を億劫に思っていた。こんな世界よりも、刺激のある非日常を求めていた。
けれど――非日常は、咲綺が妄想していたほど、生易しいものではなかった。
あの世界は、残酷で、醜悪なる妖怪の跋扈する世界は、人間である咲綺を嫌っている。
もう、あの世界を冒険したいという好奇心は咲綺の中からは消えていた。
家の鍵を開けて中に入ると、咲綺の母親が飛び出してきた。
「咲綺ッ! こんな遅くまで、どこに行っていたの!」
「……ごめんなさい」
素直に謝ると、母親は咲綺の体を抱きしめて、安堵のため息を吐いた。
「良かったぁ……。心配したのよ」
「……ごめんなさい」
咲綺は、じんわりと浮かぶ涙を拭うことなく、母親の体に抱きつく。
「ただいま、お母さん」
非日常に憧れなくても、日常はこんなにも愛しさで満ち溢れていることを、咲綺はやっと思い出した。
私はアヤカシに嫌われている。 槙村まき @maki-shimotuki
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