第139話 暁に染まる千年都市
紺碧に包まれていた東の空の色が、徐々に褐色に変わり始めている。
もう間もなく、第二の太陽ウルグが、レンスターの東にそびえるキルシュティ山の峰から顔を覗かせる時間だ。セレンの光を浴びてマナを蓄えた私は、レンスター城の監視塔の頂上からレンスターの街並みを見つめた。人と街が寝静まる夜明け前のレンスターは、西の空に輝く惑星アールヴの幻想的な光に照らし出されている。
ウルグの光に染まる空と星の光に浮かび上がる美しい千年都市。この場所から見られる、この瞬間のレンスターの光景が、私の一番のお気に入り。それもこれが最後になるかと思うと胸が痛む。ハルたちと厄災に挑み、彼らの故郷テルースへ向かうと、あれだけ息巻いていたくせに……。
カルテノス湾から吹く爽やかな海風が、私の耳元を吹き抜けて髪をそっと揺らす。二月の朝は、レンスターが温暖な気候とはいえ、重ね着をしないと肌寒い。私は、椅子の上に折り畳んだケープを手に取り、体が冷えないようにそれを羽織った。
ふわぁ……。
私は、口元を手で覆い、突然襲ってきた生あくびを必死に抑た。さすがに、徹夜明けなので少し眠い。つい先ほどまで、ナターシャとワインを飲みながら、昔の思い出話に花を咲かせていたから。
大切な出発前だということは、十分理解している。けれども、ナターシャとゆっくり話ができる最後の時間になると思うと、眠る時間さえも惜しくなって。
カツン、カツン……。
私がレンスターの街を眺めていると、監視塔の階段を誰かが上ってくる音が聞こえた。今は、有事ではないため、城内の監視塔に見張りの衛兵がここへ来ることはない。
この歩調と歩幅。この足音の正体は、堅牢のロレンスで間違いない。伊達にロレンスとの付き合いが長いわけではない。私は、レンスターの街から階段に向き直り、こちらへ向かってくるロレンスの到着を待つことにした。
「やっぱり、ここにいたのか、風のアトカ。……いや、アスリン……」
堅牢のロレンスは、出迎えた私と目が合うなり、いつになく真剣な眼差しで私を見つめて声を掛けてきた。
「おはよう、ロレンス。ここから眺めるレンスターも、これが最後かと思うと、ね……」
私は、ロレンスに質問に答えた。
「本当に、行ってしまうんだな……」
ロレンスは、寂しそうにそう言った。
公王陛下と堅牢のロレンスには、私がハルたちと共に厄災に挑み、彼らをテルースまで送り届けることを伝えてある。テルースは、古い伝承の星。アルザルからテルースへ行った者の話など聞いたことがない。だから、ロレンスは、私がレンスターへ帰るつもりがないことを知っている。
「えぇ。私は、元々旅の傭兵。前エスタリア戦役から十年以上、レンスター公王陛下の従士として仕えさせて頂けたことに感謝しているわ。公王陛下から授与されたこの記章とケープがあれば、どこへ行っても生きてゆける。それにしても、こうして長い間レンスターに留まっていると、自分が流れ者であることを忘れてしまう時があるわね」
「それでいいじゃないか。君のような傭兵から正規の武官に登用され、地位を得ることを誉とする者は多い。君にとって命の恩人であるハロルドたちを、テルースへ送り届けたいという君の気持はわかる。しかし、君までテルースへ行くことはないだろう? この国には、君が必要だ。彼らを送り届けたら、戻って来てくれ、アスリン」
ロレンスは、私が再びレンスターへ戻ることを要求してきた。たしかに、大抵の傭兵たちは、地位と名誉を得るために功績を挙げて国に士官を求める。しかし、それは、あくまで人間同士の話。
エルフ族は、一つの人間社会に長く居続けると、加齢と共に肉体が衰える人間から妬まれるようになる。私は、人間の嫉妬や侮蔑が原因で、命を狙われたエルフ族の話を何度も耳にしてきた。だから、人間社会で生きるエルフ族は、基本的に所定の場所に居座らず、人間と深くかかわらずに旅を続ける者が多い。
それは、レンスターにおいても例外なことではなかった。既に、私を
「ありがとう、ロレンス。そう言ってもらえると嬉しいわ。でもね、全てのレンスター臣民が、あなたと同じ気持ちでいてくれるわけじゃないの。エルフ族である私のことを良く思わないレンスターの臣下は、確実に増えてきている。あなたもマグアート親子の一件で感じたはずよ? マグアート家の尻尾を掴むまで、マグアート家に与してて、私の失脚を期待していた貴族たちも随分いたわ」
私は、ロレンスに謝礼をしつつ、現実的な状況を伝えた。
「それは、わかっている。だからこそ、僕は君を守りたいのだ、アスリン! 僕が騎士見習いから、公王陛下の従士として登用されてから十二年。僕は、幾度となく君に助けられ、そして様々なことを君から教わった。今度は、僕が君を助ける番だ。今の僕は、旅の導師から伝授された『最善の知恵』を習得し、レンスターの宰相にまで上り詰めた。だから、もう……」
「懐かしいわね。上がり症のあどけない少年だったあなたが、本当に変わったわね、ロレンス。いいえ、心身ともに逞しく成長したと言うべきかしら」
私は、ロレンスの言葉を遮り、彼の成長を讃えた。このまま、彼のペースで話をされると、私の心に迷いが生じてしまいそうだったから。
「当然だ……。あれから十二年経っているんだぞ? 大体、僕のことを変わったと言うが、君が変わらな過ぎるんだ、アスリン……」
「そうね……、それは、私がエルフ族だから。だからこそなのよ、ロレンス……。人間とエルフ族は、生きる世界が同じでも、生きる時間が異なる。だから、偏見や妬みが生じ、互いに歪みを作り出してしまう。そして、その歪みは、将来を誓った者同士ですら引き裂いてしまうの」
ロレンスは、かつて私が人間の男性と恋人関係にあったことを知っている。八年前、私が成人を迎えたロレンスからの求婚を断る口実に、ギルとの関係を伝えたことがあるから。
しばらく沈黙が続いた。
ただ、私たちの間を吹き抜ける風の音だけが辺りを包み込む。やがて、キルシュティ山の裾野からウルグの褐色の光が射し込み、レンスター城の監視塔を照らし出した。この時間は、まだリギルの陽射しがないため、私とロレンスの長い影が監視塔の壁に浮かび上がる。
「とうとう夜が、明けてしまったな……。ここで僕が引き留めても、君の答えが変わらないだろうと思っていたさ。しかし、万に一つでも君の心が変わる可能性があるならばと……。君がいるであろう、この場所を尋ねずにいられなくてね。以前、君が言っていた、レンスターで一番好きな場所に君がいるかどうか。それは、賭けだったがね……」
私には、ロレンスが『最善の知恵』を使ってここへ来たのかわからない。けれども、こうして私がいるであろう場所を探し、尋ねてくれたことが少し嬉しかった。
「何を賭けたのか知らないけれど、あなたの勝ちみたいね」
「賭けたものは、もう一度、君に思いを伝える決意だよ。先ほど、僕は、この国に君が必要だと言った。だが、本当に君が必要なのは僕自身だ。僕の気持ちは、八年前のあの時から変わっていない。僕にとって、君は姉のような存在であり、ずっと憧れの存在だった。種族の壁は、わかっている。すぐにとは言わない。君が君の目的を果たしたその後で構わない」
ほんのりと頬を染め、私を真っ直ぐ見つめて語るロレンスを見ると胸が痛む。それと同時に、未だに私に好意を抱き続けてくれたことが嬉しかった。けれども、私の答えは八年前と変わらない。
「ありがとう、ロレンス。本当に嬉しいのだけど、あなたの思いを受け取ることはできないわ……。理由は、あの時と同じ。私はね、我がままで寂しがり屋なのよ。だから、愛する人が年を重ねる度に衰弱し、やがていつか私を置いて死んでしまう。私には、それが耐えられそうにないの……。本当にごめんなさい……」
私は、深く頭を下げ、ロレンスの真剣な気持ちに答えられなかったことを詫びた。
「いや、君が謝らないでくれ。僕の方こそ、自己満足な賭けに付き合わせてしまって済まなかった。頭を上げてくれ、アスリン。君の答えは、最初からわかっていたさ。万に一つ、と言っただろう?」
ロレンスは、彼にしては珍しく動揺しながら私に謝罪した。
「ねぇ、ロレンス。あなた、最善の知恵を使ってそれを言ったの?」
「あぁ、呪法の答えは否。それが勘違いであることに期待していたのだが……」
ロレンスは、照れ臭そうに笑みを浮かべて私の質問に答えた。
「あなたは、別のところで勘違いしていたらしいわよ? あなたは、私が変わらないと言ったけれど、あなたと初めて会った時よりも人差し指の長さくらい背が伸びているの」
私は、ロレンスの顔を下から覗き込んでからかってみた。
「フフッ……。ハハハハハ……。そう言われてみると、たしかに背が伸びたな、アスリン」
「でしょう? あと十年くらい経てば、私も成人の体になると思うのだけれど……」
私は、東の空に姿を現したウルグを見つめながら、声高らかに笑うロレンスに言った。
陽が昇ると風向きが変わり、海風よりも冷たい陸風が私の首筋を背後から撫でる。
「アスリン、外は冷える。実は、希少なアルカンド産のセレン茶が手に入ったのだが、冷えた体を温めるためにも一服いかがだろう?」
ロレンスは、懐から取り出した茶葉の入った高価な巾着を私に見せながら、私に朝の茶を勧めてきた。まだ、私たちの出発の時刻になるまで四時間ほど残されている。荷造りは済ませてあるので、ロレンスの好意を断る理由なんてなかった。
「ありがたく頂くわ、ロレンス」
「それでは、早速従士控室に行こう」
「そうね、行きましょう」
ロレンスは、私に頷くと城内へ通じる階段へ向かい階段を下り始めた。私もすぐに、先を進むロレンスの後を追い掛けた。そして、階段を下りる前に、もう一度背後を振り返りレンスターの街を見つめた。
暁に染まる千年都市。
レンスターの街並みに交錯する光と影が、とても幻想的で美しい。その遥か高い上空には、渡り鳥の群れが一列になって飛んでいる。今日の夕刻、私もあの鳥のように、国防軍の鋼鉄の翼に乗ってレンスターを飛び立つ。
私は、目を閉じて左手を胸に当て、舞い躍る風の精霊に心から祈りを捧げた。
大好きなレンスターとレンスターに住む大切な家族たちが、いつまでも風の加護を受け続けられますように……。
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