第19話 風のアトカ(下)

 トロルと目が合ってしまった私は、再び小川を下って走り出した。けれど、巨体のくせに身体能力が高いトロルは、どんどん私との差を詰めて追って来る。私はトロルが苦手な小川の中へ入って対岸へ渡り、トロルたちが一瞬躊躇して立ち止まった時に、背負っていた食糧やオーブが入っている革製のリュックを先頭のトロルに向かって投げつけた。


 リュックはトロルに当たって川の中へ落ちた。人間社会のオーブの存在を知っているトロルたちは、我先にと投げつけられたリュックを川から拾い上げて一斉に群がって漁りだした。その隙に、私は少しだけトロルたちとの距離を稼ぐことができた。オーブは性質上、水に浸かると効果がなくなってしまう。仮に後から回収したとしても、残念ながらもうオーブの効果は期待できない。


 あー、荷物も全部台なしかぁ……。トロルが触ったリュックなんてもう無理……。


 水や食糧を失ってしまったのは痛いけれど命あってことだ。このまま小川を下って川の本流まで出て、さらに対岸まで渡ることができれば何とか逃げ切れると思う。最悪、精霊術を使って救助を求めよう。


 先ほど私が身を隠していた滝の上の岩陰まで来た時、今度はその岩陰で座り込むドラゴニュートの女剣士と目が合うってしまう。


 ちょっと……、どうしてこんなところに!


 彼女もびっくりしていたように見えたけれど、今はゆっくりと観察できる状況ではない。背後からはトロルたちが、再び私を目掛けて走って来ている。私は咄嗟に左右を確認すると右側の茂みから滝の下まで飛び降りることができそうだった。ドラゴニュートの女剣士が私に向かって何か叫んだけれど、彼女の言葉はわからない。


 そもそもドラゴニュートが若い女性というのも珍しい。それに、すぐに襲って来なかったし、彼女から敵意は感じられなかった。けれど……、捕まったらきっと八つ裂きにされてしまうに違いない。


 私は茂みに向かって突き進み、少し高さがあるけど迷わずに段差を飛び降りた。しかし、思っていたよりも段差の高さがあった。そして地盤面も岩場で固かったため、着地に失敗した私は、思いきり足を捻って転倒してしまった。風の精霊術を使えば、落下による衝撃を防ぐこともできたけど、二つの敵に追われている状況で精霊術を詠唱する時間はなかった。


 痛い……。あぁ、どうしよう……、本当にツイてないな……。


 私は痛みをこらえて何とか立ち上がったけれど、それだけで捻った足に激痛が走る。骨折はしていないと思うけど、今は癒しの精霊術で治療なんてできる時間はない。振り返るとトロルたちも段差を飛び降りて来ているのが見えた。一頭は滝壺の近くから飛び降りて先回りをしようとしている。挟み撃ちされたことで逃げ場がない。私は覚悟を決めて短剣を抜いた。


 恐怖で手がカタカタと震えて剣先が揺れて動く。短い詠唱で使える精霊術は、幻影を作りだす術くらいだ。


 トロルを少しの時間だけなら惑わすことならできそうだ。けれど、もうどうしたらこの場から逃げ切れるかわからない。それでも、諦めるわけにいかない。私は風の精霊に呼び掛けて自分の幻影を二体作製し、背後から追ってくる二頭のトロルの前に立たせる。幻影たちに剣を抜いて戦うように見せかけることで、トロルたちもその場で立ち止まり大きな棍棒を構える。


 もう一頭、滝壺側から私を回り込んだトロルも棍棒を振りまわしながら、少しずつ私に近づいてきた。


 絶体絶命だ。足もガクガクと震えて来て満足に動くことすらできない。


 その時、黒い影が二頭のトロルの頭上から飛び降りてきた。


 黒い影の着地に合わせて、一頭のトロルがバタンと大きな音を立てて倒れた。


 えっ?!


 一瞬何が起こったのかわからなかったけれど、倒れたトロルの頭頂部には剣が突き刺さっていた。そして、倒れたトロルの脇にドラゴニュートの女剣士が立っている。


 まさか、このドラゴニュートが助けてくれたの……?


 すると女剣士が何か語りかけてくる。言葉はわからないけれど、頭の中にその言葉の意味が直接伝わってくる。


『大丈夫、私たちはあなたの敵じゃない』


 これは念話?!『たち』ということは、この人に仲間がいるってことかな……。


 ドラゴニュートの女剣士から意思が伝えられた方法は、風の精霊術によるものではなさそうだ。これは彼女自身が私に送ってきた、何らかの念話で間違いない。私は、紅色の瞳で私を見つめる意思を持つドラゴニュートの存在に驚いた。驚きと足の痛みから、私は全身の力が抜けてその場に座り込んでしまった。


 その後、女剣士は大きな声で鋼鉄竜の方に向って何かを叫びながら、もう一頭のトロルが振りかざす棍棒を避ける。剣は倒れているトロルの頭に刺さったままなので彼女に武器はない。先程まで見えていた彼女の白い肌は、今は黒い鋼のような鱗で覆われていた。


 女剣士は、トロルの股下を潜り抜けるとそのまま垂直に華麗に飛び、背後から左手でトロルの頭にしがみつく。そして、彼女は右手を振り上げると、その手先は黒い刃のようなものに変わっていた。彼女はそのまましがみついた状態で、鋭利な手先の刃を使ってトロルの首を斬り裂いた。彼女は返り血を浴びないようにトロルの背中を蹴り飛ばして回転しながら地面に着地した。


 私はこの一瞬のできごとを、ただ呆然と眺めることしかできなかった。


 残りの一頭のトロルが、私を目掛けて徐々に間を詰めてくる。目の前のトロルの背後に、いつの間にか駆けつけていた女剣士の仲間らしい背の高い少年が、私に向って何かを叫んでトロルの注意を引いた。その後、彼は手先から青白い電撃を放った。電撃が直撃したトロルは地面に倒れ、焦げ臭いを漂わせながらビクビクと痙攣して絶命した。


 この少年は呪法を使う魔術師?! しかも一瞬で放った電撃でトロルを一撃?!


 一瞬で電撃を放てるのは、もはや精霊術ではなく呪法だ。しかも、これだけの破壊力を持つ呪法となると相当な腕の魔術師だ。ヴァイマル帝国は鋼鉄竜だけでなく、意思をもったドラゴニュートや高位の魔術師まで前線に送り出しているのだろうか。


 更にもう一人、黒髪の少年が現れて、呪法を使ったブロンドの少年と何かを話しながら私の方へ向かって歩いてくる。ドラゴニュートの女剣士は、小川でブツブツ言いながらトロルの血で汚れた手や剣を洗っている。


 先程のトロルとの戦いで、彼女の肌を一瞬で覆った黒く輝く細かい鱗はなくなっており、首筋など一部を除いてまた白く奇麗な肌が見える状態に戻っていた。どうやら彼らに敵意はないようなので、私は抜いたままだった短剣を静かに鞘に収めた。


「助けていただいてありがとう。あなたたちはヴァイマル帝国の……、兵士なの?」


 この際、私は単刀直入に聞いてみることにした。しかし、私の言葉は二人の少年には通じなかった。レムリア大陸北部の共通語であるシュメル語が通じないとなると、やはりヴァイマル帝国の兵士なのだろう。時間を掛けて彼らの言葉を翻訳する精霊術を使うこともできるけど、今すぐその術を使えばきっと怪しまれる。

 

 少年たちは私の言葉に首をかしげながら、彼らの言語で互いに話をしている。そして座り込んだまま動けずにいる私に目線を合わせて笑顔を送ってきた。珍しい物を見つけた興味しんしんな子供の目つきで見つめられると、何だか恥ずかしくなって彼らから視線を逸らしてしまう。


「あ、あの……。そんなにエルフ族が珍しいかな?」


 たしかにエルフ族の数は少ない。けれど、ヴァイマル帝国があるレムリア大陸南部にだってエルフはいるはずだ。


 そこへ手を洗い終えたドラゴニュートの女剣士がこちらへやって来た。よく見ると彼女は少年たちと同世代くらいに見える。十代半ばか後半といった感じだ。もっとも、見た目は少女だけれど、ドラゴニュートの肉体は、私たちエルフ族のように老化することがないらしいので実際の年齢はわからない。


 彼女はまた念話で私に語りかけて来た。


『驚かせてしまってごめんなさい。私たちはあなたに敵意はありません。私の名前は香取彩葉。こちらの二人は伊吹ハロルドに間宮幸村。私たちは色々な事情があってここにいるのだけれど……。あなたはこの辺りに住んでいる方ですか?』


 カトリイロハと変わった名前を名乗ったドラゴニュートの女剣士は、とても丁寧な口調だった。少なくとも私が知るドラゴニュートの常識から大きく外れている。


 表情も豊かで、整った輪郭とパッチリとした目が可愛らしく、短くカットされている黒髪がとても奇麗だ。私も敵意がないことを彼らに伝えるために名前を名乗る。


「私の名前はアスリン・リル・アトカ。『風のアトカ』という二つ名でレンスター家の従士をしているエルフ族です。言葉が通じないようだけれど、私の精霊術で互いの言葉を理解できるようにする方法を使いますか?」


 私が彼女に伝えると、私の言葉を理解したのか一度頷いて、二人の少年たちに何かを告げる。彼女の言葉に彼らは喜んで頷く。


『風のアトカ、それではその方法を使っていただけますか? よろしくお願いします』


 私は彼女に頷いて目を閉じ、精神を集中させて精霊術の詠唱を始める。辺りは精霊の力によって優しい緑の光に包まれ、そして風の加護を授かる。


 丁度もう一つの太陽、第一の太陽リギルが東の地平を照らし始めた時、私は初秋のキルシュティ半島の小川のほとりで、彼らと運命的な出会いをした。

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