第7話 暗闇だけが広がって

「彩葉……おーい、彩葉。もう着くぞ」


 ハルに揺すり起こされて目が覚める。


 油があまり効いていない電車のブレーキの音が響き、車窓から穂高駅の駅名標や見慣れた広告看板が見えてくる。


「ありがとう、よく寝れた」


「あ、涎垂れてるぞ」


「え? ウソ?!」


「ウソだ」


 ハルにからかわれた。ユッキーにも笑われる。


「ムカつく」


「それにしても『寝ちゃうかも』とか言っておきながら秒殺だったぜ?」


「仕方ないじゃない。眠かったんだから」


 私は開き直って答えた。目をこすりながら立ち上がり、スカートを整えてから車内の吊り輪を掴む。電車が止まって車両ドアが開くと私たちはホームへ降り、改札を出て今朝通ってきた道を戻り始める。今朝、学校へ行く時に見た不気味な初老の外国人の男性がいたベンチに目を移すと、さすがにもう彼の姿はなかった。


「彩葉、ホント気持ちよさそうによく寝てたなぁ。彩葉の寝顔を写真撮ろうか悩んじまったよ」


「撮ろうとするな!」


 ユッキーの言葉に思わず突っ込みを入れる。本当にこの男はデリカシーがない。


「幸村、まだ時間あるか? 彩葉の優勝報告しておいたから、父さんがケーキ焼いてるはずなんだ。せっかくだし寄って食って行けよ」


「わかった。八時までに家に戻れば練習も間に合うし、遠慮なく寄らせてもらうよ。ハルの家は夜お邪魔させてもらうと、英会話の勉強にもなるからありがたいんだよね」


 今後は国際的なコンクールも視野に入れているユッキーは、中学生の頃から英会話を勉強しており、よくハルの家に寄ってから帰ることが多い。ユッキーも日常的な英会話なら問題なく話せるレベルだ。


「マスターの焼くケーキ美味しいからなぁ。今日は何のケーキだろう」


 私が優勝したり好成績を収めると必ず伊吹家で祝勝会を開いてくれる。参加できる日は、私の父さんも来てくれるのだけど、今日は仕事でそのまま夜勤だと言っていたので帰りは恐らく明日の朝だ。


 父さんには試合会場から学校へ向かうバスの中で、結果をメールで報告をしておいた。休み時間だったのかもしれないけれど、本当に仕事をしているのかと疑いたくなる速度で返信がきて驚いた。


 来週の県大会は、父さんも応援に来てくれる予定だ。休みが取れる時は、必ず私の試合の応援にきて、研究用に私の試合やライバルの試合を動画で録画してくれたり、師としてアドバイスをしてくれることもある。時々鬱陶しさを感じることもあるけど、私にとって頼りになるありがたい父だ。


 雨は先ほどより小降りになったけど、この降り方だとまだ止みそうにない。傘の先端からは雨水が滴り落ちている。傘がなければ間違いなくずぶ濡れだった。


「ハル、傘貸してくれてありがとね。もし傘がなければ本当に風邪引いてたかも」


 私はイヤホンを外し、リュックのポケットにそれをしまいながらハルに感謝を伝える。


「あれ? 彩葉が差してる傘ってハルのだったの? なんだよ、抜け目がないのはハルの方じゃないか」


「あーあ、彩葉。黙ってれば幸村に傘忘れたのバレずに済んだのに」


「私が傘を忘れたのは事実だし、別に隠すことないよ。おかげでこうして濡れずにいるのは本当にハルのおかげだもの。あ、それより二人とも、このまま戦勝報告のお参り付き合ってくれない?」


 夜の神社は暗くて少し怖いけれど、拝殿は明かりも点いているし、今は二人も一緒にいる。私はいつものように竜神様に戦勝報告をしようと思い二人に声を掛けた。


「オッケーだぜ」


 二人が快く承諾してくれて少しホッとした。神社の東側から道祖神群の前を通ってから境内へ入る。それから私たちは、拝殿を目指して歩みを進める。辺りはすっかり暗くなっているけど、神社の境内はところどころに灯篭が設置されているため、オレンジ色の光が辺りを幻想的に照らしていた。


「お祭り以外で来る夜の神社っていうのも、割と風情があっていいもんだね」


「神聖な場所でそんなこと言ってると罰が当たるよ、ユッキー」


「まじで? やべぇ、ちゃんと神様に謝らないとだな……」


 毎度ながら、素でオーバーなリアクションをとるところがユッキーは可愛い。


「なぁ、なんか変な霧が出てないか?」


 ハルが突然おかしなことを言い出す。朝の時といい、こういう変なところに最初に気づくのはいつだってハルだ。たしかに雨のせいで霧が出ており、視界はあまり良くない。


「たしかに霧が出てるけど、普通の霧にしか見えなくね?」

「私も違いがわからないなぁ」


「気のせいだったらいいんだけどさ。時々紫色の霧の塊みたいなのが流れてるように見えたんだけど……。あ! ほら、あそこ!」


 ハルが社務所の奥の西門近くに建つ、古い弓道場の方を指差して叫ぶように言った。ハルが言った通り、そこには黒っぽいような紫のような霧が見え隠れしていた。それはだんだん広がっているようにも見える。


「な……なんだろう? 言われるとおかしな霧に見えるわね」


 私たち三人は黙って顔を見合わせた。ここは子供のころから遊び場として何度も来ている場所だ。けれどこんな変な色の霧が出る光景は今までに見たことがない。誰が言い出すわけでもなく、私たちは怪しい霧が見え隠れする方へ、ゆっくりと歩き出した。


 すると、地面が大きく揺れ、ズシーンと何か重たいものが倒れたような音が、振動と共に伝わってきた。


「今の何だ?! 俺、ちょっと先に行って見てくる」


 ハルはそう言って少し早足で前に進む。


「待って、私も行く」

「ボクも行くさ」


「じゃ、ヤバかったらすぐ逃げるぞ」


 ハルは振り返って笑顔で言う。小学生の頃、いつもリーダー格で探検ごっこをしていた頃のハルの顔を思い出す。


「わかった」


 ユッキーがハルに告げ、私もハルに頷く。


 少し先を歩くハルを追いかけるように私とユッキーが彼の後を追う。足元の砂利を踏む音が、閑散とした境内に響きわたる。そして、いつの間にかあれだけ降っていた雨がすっかり止んでいることに気づいた。


「雨、あんなに降っていたのに止んでるね」


 私が言うとハルとユッキーも雨が止んでいることに気づいたようだ。


「本当だ、気がつかなかったな……。走る時、傘が邪魔になるししまっておこう」


 私たちは折りたたみ傘をたたんでしまい、いつでも走れる態勢をとってから改めて歩きだす。社務所の方へと進むに連れて暗紫色の霧はどんどん濃くなって広がってゆく。


 私たちが拝殿前の鳥居を過ぎたところで、突然辺りが眩しく光り、紫色に輝く光の塊が、もの凄い速さで社務所の方から飛んできた。光の塊は、私たちの頭上を通り過ぎ、私たちが歩いて来た東門の方へと駆け抜けた。私はビクっとして身を縮める。


「今のなんだ?!」


 ハルとユッキーも立ち止まって光の塊が過ぎ去った後方の空を見ている。私も二人が振り返った空を見たけれど、紫色に輝く光の塊はすでに消えていた。そして再び正面に向き直ると、つい先程まで目の前に見えていた社務所や弓道場、見慣れた周りの樹木などが半透明になり、まるで別の空間へ来たような感覚になった。


「何……が起きてるんだ?」


 いつもは冷静なハルも動揺しているようで、誰に聞くわけでもなく思っている疑問を口にしていた。


「わからない……」


 私にも何が起きたかさっぱり見当がつかない。恐怖で体がガタガタと震えているのが自分でもはっきりとわかる。私は無意識のうちに目の前にいるハルの右腕の袖を掴んでいた。


 ハルもかなり緊張した様子だったけれど、ハルの右腕の袖を掴んだまま震えている私の右手に、ハルはそっと自分の左手を当てて包んでくれた。その時見上げたハルの横顔は勇敢で頼もしく見えた。


「ちょっと、何だよアレ……」


 濃い霧の塊が通り過ぎ、一旦視界が開けると、ユッキーが本来であれば境内の池がある辺りを指差して怯えた声で言った。ユッキーが指を差す方向を見た私とハルは、信じられない物を目にした。


 どこから来たのだろうか。そこには血まみれになって横たわっている巨大な漆黒の竜の姿があった。大きさは十メートル以上あるように見える。恐竜とか中国や日本の童話に出てくる大蛇のような龍ではなく、西洋のおとぎ話に出てくるドラゴンの姿そのものだった。


 血まみれの竜の頭部には剣が突き刺さっており、見た限り今にも力尽きそうだ。先ほどの大きな音と地響きは、この竜が倒れた時のものかもしれない。


 何で竜が……? それに……誰にやられたというのだろう?


「嘘……だろ? この神社にある竜伝説って本当の話だったのか?」


 ユッキーが怯えながら呟いた。


 その時、頭の中に直接響くような声が聞こえてくる。


『我を恐れる事はない、人の子らよ。我は黒鋼竜ヴリトラ。テルースのこの地とアルザルを結ぶ転移の門を護りし古の竜なり。我はそなたらの敵にあらず。真の敵は、我を欺き陥れた卑しき者たちだ。まだ奴らは近くに潜んでいる。用心して早々に立ち去るがよい!』


 私たちは頭に直接響く竜からの言葉に驚き、振り返って竜を見た。そして私たち三人は互いを見て頷いた。言葉の意味はよくわからなかったけど、要約すればこの竜は私たちを襲う意思がなくて、他に敵がいるから逃げろって事なんだと思う。よくわからないけれど、こんな竜が目の前にいるのだから何がいたっておかしくない。


「ハル、彩葉! とにかく逃げようぜ!」


「あ、あぁ」


 私たちはユッキーを先頭に神社の表参道の方向へ向かって走りだす。すると、どこから現れたのか銃を構えた軍服を着た、将校と兵士のような二人組が目の前に立ちはだかった。


「手を挙げろ! 荷を捨て抵抗するな!」


 左目に青白く光る片眼鏡をかけた髭面の将校が、訛りのある日本語で私たちに命令する。将校の言葉に合わせて、部下の兵士は重たそうな銃を地面目掛けて発砲し、銃が本物であることを私たちに知らしめる。余りの音と地面から飛び散ってくる砂利の破片に、私は思わず目を瞑って顔を背けた。


 連続する銃声音と弾丸は、連射式な機関銃タイプなのかもしれない。それから、銃を撃った兵士は、私たちに銃を向けたまま、私たちの背後に回り込んで退路を塞いだ。


 ハルとユッキーは抵抗せずに手荷物を地面に置いて将校の言う通りにした。私の足は恐怖でガタガタと震えていた。


「ソコノ少年ト、娘、背中ノ物モ、下ロセ!」


 背後に回った兵士が、私のリュックやユッキーのバイオリンケースを見るなり、片言の日本語で命令する。仕方なく私とユッキーは、リュックとバイオリンケースを下ろして地面に置き、それから両手を挙げる。どうやら兵士の方が将校よりも日本語が堪能ではないらしい。


「我々は太古の竜が守るシンクホールを使いここへ来た。第四帝国所属機関アーネンエルベ本部からの指令で、ラミエルから力を委ねられたハロルド・イブキ、お前を迎えにきた。お前には裁きのいかずち、すなわち雷撃の魔法に心当たりがあるな? 着いて来い、これは命令だ。拒否権はない」


 ハルを指差して将校が言う。私はビックリしてハルを見る。ハルも自分の名前を呼ばれて驚いたようだったけれど、その後は歯を食いしばって手を上げたまま小刻みに震えている。


 魔法って何? ハルには何か心当たりがあるのかな?


「仮にそうだとして、俺に何をしろって言うんだ?! それになぜ俺の名前を知っている?! 俺以外の二人をどうするつもりだ?!」


 ハルが将校を睨みつけながら怒鳴るように将校に質問する。


「ほう、どうやら裁きの雷は、まだ覚醒していないようだな。来ればいずれわかる。時間がない、早くしろ!」


 話は平行線で進展がなさそうだ……。それにしてもまた得体の知れないキーワードが出てきた。サバキノイカズチ……? どういう意味だろう。とにかくこの人たちのペースに乗っては駄目だ。


「ハル、こいつら何言ってるの? ダメよ! 従わないで!」


「何だよ、こいつら……。これって拉致じゃねぇか……」


 私がハルに叫ぶと、ユッキーも勘弁してくれと言うように、目を閉じて泣き出しそうな声で言う。


「黙れ!」


 将校が大声で私たちに怒鳴った。背後から銃を構えていた兵士が、地面に下ろしたユッキーのバイオリンケースを見ると、ケースを開けて中を確認する。兵士は、将校にケースの中身を知らせているようで、彼らの言語で二言三言何かを告げる。英語ではない。アクセントからドイツ語かオランダ語のように聞こえる。よく見ると二人組の軍人は左腕に赤い鉤十字の腕章をしていた。


 あれって……。


 私は軍隊とか戦争とか詳しくないのでよくわからない。でも、どこかで見たことがあるような気がした。オカルトやミリタリー系のドキュメンタリーや映画が好きなユッキーならわかるかもしれない。


「どうやらお前はバイオリンの奏者のようだ。我が国では貴重な演奏家を手厚く歓迎している。お前は命拾いした。さっさと一緒に来い!」


 将校はユッキーの髪の毛を掴むと、引っ張りながら命令するように言う。どう考えても手厚く歓迎されている雰囲気じゃない。お前は命拾い? 何なの、この人たちは?!


「やめろ!」


 ハルがユッキーの髪を掴む将校に向かって叫ぶ。


「あなたたち、何をする気なの?! こんなひどいやり方で人を拉致しようだなんてあり得ないでしょう! 私たちが何をしたって言うの? きっとすぐに助けが来るから、二人とも言うこと聞いちゃダメ!!」


 大声で叫べばもしかしたら周りに聞こえるかもしれないと、私は精一杯の声で大切な二人をどこかへ連れ去ろうとしている将校を睨みつけながら言った。しかし、彼は私を見つめたまま冷徹に微笑んで合図をするように右手を上げた。


 すると、背後からガガガガガっと銃声が連続で響いて私の背中に衝撃が走る。


 え? 何……?


 ハルとユッキーが驚いて私を見る。


 背中からの衝撃で体が勝手に前方に浮きあがり、そのまま前に崩れて倒れかかったところをハルが支えてくれた。私は彼に抱きかかえられて仰向けにされる。


 背中が熱い……。あれ……、体が動かない……?!


 まるで背中から胸の中に熱湯を注ぎこまれるような、そんな感覚が伝わってくる。その感覚はすぐに激しい痛みに変わったけれど、今度は声を出すことが出ない。


「彩葉! しっかりしろ! おい、彩葉!」


 ハルが私の耳元で呼び掛けてくれているのがわかる。私は起き上がろうとしたけれど、体が全く言うことを利かない。


 私……、撃たれたんだ……。


 このとき何が起こったのかやっと理解する。血液が逆流してきて口の中が自分の血の味でいっぱいになる。咳き込んで逆流した血液を吐き出すのがやっとだった。


 私、死ぬの……かな……?


 瞬きをすることもできず、呼吸すらできているのかわからない。こんなところにいたらハルたちまでやられてしまう……。


「彩葉!! 彩葉……」


 目の前に私の名前を呼ぶハルが見える。最近はなかなか触れられずにいたハルのブロンドの髪が私の額に触れる。


 ハル、顔が近すぎるよ……。


 昔はよくハルの綺麗なサラサラの髪を、ふざけてかき混ぜたり撫でたりしたっけ……。ハルの髪に触れたのはいつ以来だろう。ハルの涙が私の頬に当たる。もしかしたら私自身の涙なのかもしれない。


「おい、彩葉!! しっかりしろって、彩葉!」


 ユッキーも駆け寄ってくれているのかな。声は聞こえるけど姿が見えない。だんだん視界もぼやけてきたのがわかる。せめて二人は、この場から何とか逃げ切って欲しい……。


 ……神様、お願いだから……ハルたちを助けて……。


 頭の中に懐かしい思い出が次々と湧いてくる。


 小さい頃にハルの家で祝ってもらった誕生日パーティ。


 剣道の試合で初めて優勝した時に、父さんとハルの家族のみんなで夕食を食べに行った思い出。


 それから、中等部の修学旅行の班別行動や学園祭のライブコンサート。


 楽しかった思い出には、いつだって私の隣で笑うハルの姿があった。


 これが走馬灯っていうのかな……。まだやりたいこと沢山あったのに……。伝えたいことも沢山あったのに……。意味もわからず、こんなところで突然終わっちゃうのかな……まだ死にたくないな……。


 もう、何かに触れている感覚もなくなり、周りの音も聞こえなくなってきた。だんだん視界も狭くなり、ハルの顔も輪郭しか見えなくなる。


 ……嫌だ……まだ死にたくない……。


 そして意識もだんだん遠くなってゆく。


 助けて、ハル……どこにいるの……私、消えちゃう……。


 もう何も見えなくなった。体からは痛みが消えて何も感じなくなった。


 暗闇だけが広がって、自分の意識がどんどん消えてゆく。


 消えたく……ない……。


 ……ハ……。……ル……。

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