自己本位

 1896年。三陸で地震と日本史に残る大津波、信濃川周辺で大洪水、陸羽でも地震が起きた天災続きのこの年。壱心は東京で執務を行っている最中に微かな違和感に襲われた。


「……咲、周囲に妙な気配がないか?」

「妙な気配、ですか……」

「……いやいい。気のせいだったみたいだ」


 自分よりも周囲に気を配って警戒している咲が何も気にしていないのであれば問題ないだろう。そう判断して執務に戻る壱心。今は来年から始まる金本位制の貨幣法や労働組合期成法などについての追い込みで忙しいのだ。


(それにしても戦勝景気が凄いな……紡績業はリング紡績機が無事に広がってるし、航海奨励法や造船奨励法も順調な滑り出しだ……後は数年後に来る資本主義恐慌に対処するだけか……その頃には俺も退陣してるから問題あるまい)


 色々と対処はしているがそのすべてにまで対処する気はない壱心。景気の波というものがあるのだから好景気の反動は必ず来る。その恐慌の時にどう対処するかまでは決めていないが史実で何とかなったのだから何とかなるだろうという見通しで流しておく。

 そう判断して書類を置いた次の瞬間、壱心は強烈な寒気に襲われた。今度は咲も何か感じ取ったようだ。


「何ですか今の……」

「分からん。が、応戦の準備を」

「はい」

「応戦? 戦いに来たつもりはねぇが……まぁ殺り合いてぇなら自由だな」


 声がした。どこかで聞いた覚えのある男の声だ。しかし、この国で壱心のことを知っている者が壱心に対してそんな乱雑な口調で雑に直接敵意を示すはずがない。彼に直接会って敬語を使わない人となるとそれはもう立場ある人間になり、その者が背負う人々を代表した言葉になるからだ。


 つまり、目の前にいるのは人ならざる者。


「……ら、雷雲仙人様」

「おー、覚えられてたか。契約書見せねぇと忘れてると思ってた」


 現れたのはもう二十年も昔となる秋月の乱に初めて出会った超常的な存在。壱心にとっては命の恩人とも言える存在、悪坊主だった。

 彼はその時と全く変わらぬ姿で契約書をひらひらとさせている。


「お疲れ様。契約はもういいよ。戻って来たから」

「! 戻って来たということは、つまり……」

「ん? 何か勘違いしてるみたいだけどここを拠点にする気はない。歴史に積極的な介入もしないしね……帰るのが目的だと前から言ってた通りだ」


 悪坊主は悪びれもせずにそう告げる。唐突に現れ、軽い感じでこの国のトップに語り掛ける彼に対して口を開いたのは壱心ではなく咲だった。


「……ノックもせず、いきなり不躾ではないでしょうか。雷雲仙人様。あなたがそういう超常的な存在であるのは理解していますが、壱心様にも立場というものがあるので、協力している関係であるのを理解しているのでしたら……」

「協力関係? いつからそんな関係になったのか知らないけど……まぁいいや。そんなことより随分とこの国の歴史を変えてくれたみたいだねェ……」


 マズい。壱心は直感的にそう考えた。悪坊主の目的は元の世界線に戻る事。それがどのような世界かは知らないが、歴史が変わるほど元の世界線に戻るのが難しくなると言っていたことから、今、この国の歴史を変えているという発言はどう考えても褒め言葉ではない。


 悪坊主は首を回して剣呑な目で告げる。


「増えたな……五千万ってところか? 七奈が知ってるこの時期の人口は四千万ってところだったから十年単位でこの国の歴史を進めてるな。凄いね。ちょっと間引いてもいいかな?」

「冗談でしょう?」


 悪坊主の言葉に咲が引きつった笑みを浮かべる。目の前の存在は到底出来そうにないことを簡単そうに言ってのけたのだ。しかもそれを出来ないと微塵も思ってない態度で。


「……ま、冗談にしておくか。そういう方向で歴史を変えると変な歴史が一ページ増えることになるからな」


 数の概念がよく分からない子どものような発言に咲は言いたいことを呑み込むが相手はそうでもない様だ。彼は不思議そうな顔をして壱心のことを見ていた。


「にしても、前から思ってたけど勤勉にこの国のことを変えてるねぇ……何で?」

「……この国によりよい未来を準備するためです」


 咲の方を少しだけ見て言葉を選びながら壱心はそう答えた。その様子を見て悪坊主は咲の方を見て一言告げる。


「あぁ、そういえば言ってない訳ね。他人を信用しないのはいい事だ」


 言葉が通じているのにコミュニケーションが非常に取り辛い。相手は話しかけているようで自分で勝手に納得して話を進めているのだ。話題の方向性が一定せずにころころ変わっている。だが、今の発言で咲は壱心が自分に何か重大なことを隠しているという事だけは理解した。

 そして壱心の方も相手がそれを理解したということに勘付いていた。壱心は嘆息しながら悪坊主に告げる。


「……分かっているのでしたら、黙っていていただけるとありがたいのですが?」

「何言っても記憶を消せば問題ない」

「そんな乱暴な……」

「つーか俺はそんなどうでもいい話をしに来たんじゃないんだけどな……まぁいいか。あいつが来る前にちょっと穏便に事を進めたいし、軽く記憶でも読ませてもらおう」


 そう言って悪坊主は一歩前に出た。咲が悪坊主の一挙一動に警戒して壱心と悪坊主の間に一歩進み出る。だが、その時には既に悪坊主は壱心の後ろから彼の頭に手を置いていた。


「なっ……」

「……?」


 壱心は背筋に怖気が走り思わずその剛腕を背後に向けて振り払った。しかしそれは空を切る。代わりに悪坊主が壱心から離れたが、彼は不思議そうな顔をして自身の手を見ていた。


「ここに来るまでの記憶が読めない……? いや、読もうと思えば読めるが……無駄に魔力を食うな……そんな無駄遣いをするほど記憶の中身に興味はないが……何でそうなってるのかは気になるな……」

「お、お戯れを……」

「まぁいいか」


 傍若無人を絵に描いたように自分勝手に話を進める悪坊主。正に自分論理で話を進める悪坊主ガキそのものだ。だが、厄介なことに実力がある。そんな彼は不思議なものを見る目で壱心を見ながら尋ねた。


「取り敢えず、今見た分の記憶の感想だが毎日毎日この国のためにご苦労なことで。何がそんなに君を駆り立てるのか知らんが……取り敢えずアレだな。戻って来るのに割と時間かかったし契約のお釣りにパソコンでも貸してやろうか? 後、複合機も。最初に自分の手書きの書類を適当に複合機でスキャンかけると文字も手書き風になるからそれ使えば色々捗るでしょ。それ使ってもう少し自分の時間を持てば?「悪坊主が言っても説得力ないよ!」ぐぁ……ば、馬鹿七奈……!」


 悪坊主の語りの最中に絶世の美少女が飛び込んできた。その姿を見るなり壱心の意識は沸騰して使い物にならなくなる。それは咲も同じだった。それを素早く感知した悪坊主はその美少女の顔を無理矢理捻じ曲げて自らの身体に押し付けた。


「ちょっと黙って顔を隠してろ」

「ふぁい」

「あーもう面倒臭い……一旦出直すか」


 七奈の出現によって色々と予定が狂ったらしい悪坊主が苦い顔をしてそう告げる。そんな彼らを前に何とか理性を保っている壱心が告げた。


「だ、大丈夫です。このくらい……」

「ん? いや、もう特に聞きたいこともやりたいこともないし……そっちはこっちに用があるかもしれないが、こっちはこの国の未来より自分の未来の方が大事だからもう行く。邪魔するなら……」


 一瞬だけ悪坊主が剣呑な目をしたかと思うと壱心の沸騰した頭が一瞬でマイナスに到達したかと思う程冷やされる。気圧された壱心を尻目に悪坊主は告げた。


「ま、賢い君ならわかるだろ。それじゃ……馬鹿七奈。お前の置き土産が大変なことをしてくれてるみたいだから見に行こうか」

「……でもあれは悪坊主が」

「あ?」

「うぅ……」


 会話をしながら窓を開ける悪坊主と七奈。そんな彼らは壱心が瞬きした間にどこかへと消えて行ったのだった。



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