第213話 できそこないの限界

 巨大なものが高速で向かってきていると感じた時には、体全体に群がっていたチューリュは、一斉にどこかへ行ってしまった。


 まだ地面には地表を覆うほどの毛玉が落ちていたが、俺が斬り捨てたものだ。ほんど動かない。


「う……」


 その中へ、両膝を落とす。


 はぁ、はぁ。


 体の表面が燃えるように熱かった。

 全身にある噛み傷が熱を持ち、息を吐くたびにじくじくと傷みだす。


 剣を置き、右手と左手を握ったり開いたりして具合を確かめる。


 左手は、手の側面、小指の付け根から手首にかけての部分の肉が、革の手袋ごとかじり取られ、握れなくなっていた。

 小指と薬指に力が入らなければ、剣は持てない。


 一方、右手は目に見えて大きな欠損はなかったが、開こうとすると激痛が走った。

 握り直したり持ち替えたりはできないが、握って振るう分には問題ない。


 何が来ているのかわからないが、待っている意味はない。

 チューリュがいなくなった今が好機だ。さっさと移動してしまおう。


 ひたいを腕でぬぐったつもりが、腕はぐっしょりと濡れていて、上手く拭きとれなかったようだ。顔を伝った汗が、あごからぽたりと毛玉の一つに落ちた。

 水をはじくはずの毛が、べちゃりと赤く濡れた。


 ああそうか。

 これは、汗じゃなくて血なのか。


 自覚した途端、急速に寒くなってきた。濡れた所から体温を奪われていくようだ。

 手足が凍えるように冷たい。


 ――もう切れたか。


 役立たずの左手をポケットに突っ込み、木の実をざらっと取り出した。


 赤く濡れたそれらを口へと放り込み、がりがりとかみ砕く。

 血の味は気にならなかった。とっくに鼻がマヒしている。


 剣を支えに立ちあがった。

 膝がみしりときしむ。


「ぐ……っ、がはっ、ごほごほっ」


 不意に吐き気が襲い、嘔吐おうとした。

 吐瀉としゃ物には血が混じっていた。


「ああ、くそっ」


 急がないと、逃げられなくなる。


 左手をもう一度ポケットへ伸ばしたとき、気配のする方向から、爆発音がした。

 

 想定よりずっと近い。

 もう感覚までもがおかしくなっているのか。


 この距離で狙われているのなら、逃げるのは無理だ。

 迎え撃つしかない。


 また嘔吐おうとするとまずい。

 木の実は、初撃をさばいてからだ。


 焦げ臭い熱風が駆け抜ける中、そう判断する。


 気配は動かない。

 が、何かが来る――。


 剣を構えるよりも先に飛来したのは、しかし、敵ではなかった。


「ソフィ!?」

「先生っ!」


 ずいぶんな勢いだが、上下逆さまになったその無邪気な笑顔を前に、まさか避けるわけにもいかない。


「ぐえっ」


 受け止めるというよりは体当たりを食らった形で、俺は地に倒れ込んだ。


「先生!? なぜここに!?」

「それはこっちのセリフだ!」


 俺は上に乗ったソフィの太ももを押しやった。

 白い肌にくっきりと赤い手形がつき、ソフィの汗と混ざってすぐににじんだ。


「血!! 先生、怪我を!?」


 起きあがったソフィの服は、俺の血で塗れていた。


「大したことはない」

「大したことないですって!? ひどい傷ですわ! すぐに手当てをっ」


 ソフィがまくし立てるのを無視して、取り落した剣を拾って立ち上がる。


 そこへ、男女二人組の魔術師が降り立った。

 男はぐったりとしていて意識がなく、その肩をかついでいた女も、着地と同時に崩れ落ちた。


「シュスタ!」


 ソフィが二人に駆け寄った。


 見たところ、血は流れていないし、大きな怪我もない。ひどく疲弊しているだけのようだ。


「ソフィ、何があった?」

「蛇です」

「蛇?」

「はい。大きな、緑色の」


 爆発から動いていなかった気配が、ついにのろのろと動き始めた。

 それに気づいたソフィが、ぱっと立ち上がり、メイスを持って並び立つ。


「先生」

「攻撃はいいから障壁を」

「わかりました」


 蛇だかなんだか知らないが、ソフィと特級魔術師二人がかりで逃げるしかなかった相手だ。

 この状態では、まともな対処はできない。


 俺は木の実を一粒だけ口にした。

 かりっと砕いて飲み下す。


「ぐぅっ、うっ」


 だが、すぐに吐き戻してしまった。

 一度胃の中身は吐ききっていたはずなのに、びしゃっびしゃっと吐血する。


 一粒でもだめか。


「ソフィ、その二人を連れて逃げろ。出来ないなら一人でだけでもここから離れるんだ」


 詠唱を始めていたソフィの声がわずかに揺れた。


「俺もすぐに移動する」


 限界だった。


 全身が冷たい水に浸かっているように寒い。

 体を動かせば、そこからさざ波のように悪寒おかんが広がっていく。


 ソフィを残し、少しでも戦力にするのがにとっての最善だ。


 だからって、それが許されるわけはない。

 そんな判断はできない。


 勝手についてきた魔術師二人はともかく、ソフィだけは逃がさなければ。


「足手まといだ」


 ソフィの詠唱が一層揺れる。


「わかるな?」


 耳鳴りが大きくなってきた。


 これが俺の限界だ。

 魔力のない、できそこないの。


 魔法陣を取ったら、俺には何も残らない。


 もう楽になりたいとすら思う。

 何もかも投げ出してしまいたい。


 しかしソフィの詠唱は、俺の意図に反して、より大きく伸びやかになっていた。

 感情豊かに、訴えるように。


 さっき教えたばかりのことだ。

 まだまだだが、飲み込みは早い。


 勝手に口角が上がった。


 こんな時に弟子の成長を喜ぶ羽目はめになるとはな。


 だが――。


師匠の言うことが聞けないのなら、破門だ」


 ソフィの呪文が、止まった。

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