第209話 向かってきたもの

「――!」


 先へ進もうと背丈ほどの高さの根から地面へと飛び降りた時、すぐ後ろでことわりの言葉が聞こえた。


 やっぱり来てたっ!


 瞬間、現れる気配。


はずしましたっ!」

「――!」


 叫んだのはシュスタ。

 そして同時に、ラルドのことわりの言葉。


「くっ」


 落下の衝撃を殺すためにかがんだ姿勢で、私は動けなくなった。


「や……と、捕……ま……」

「……た……っす」


 二人は糸が切れたように崩れ落ち、荒い息を上げている。

 シュスタが四つんいになってげっほげっほと喉が裏返るような激しいせきをするが、地面に映る影を見るに、ラルドは弱々しく片手を上げることしかできないようだった。


「早い、わね……」


 二人のひざ辺りから無理やり視線を上げて、私は二人には負けないくらい荒い息をしぼり出した。


「隠っ密、死ぬほどかけて……げほっ、推進、と、ちょうや……げほげほっ、ちょ、跳躍かけて、全力で追いかけ、て、きました」


 シュスタが額に前髪を一筋ひとすじ貼りつかせて上目遣いにこちらを見た。

 ラルドは片手で待ての合図をしたまま、空をあおいでいる。


 本当に、思っていたよりもずっと早かった。

 頼りなく見えても特級魔術師だけはある。詠唱の速度と魔術の強さは伊達ではない。


「どうして私を拘束こうそくするのよ。相手が違うでしょう?」


 息を整えていたラルドがこれで仕舞しまいとばかりに、はあぁぁと、深く息を吐いた。長いため息ともいえる。


「それでしらばっくれているつもりっすか? 敵を呼ぶのを黙って見ているわけないじゃないっすか。止められるってわかっているから、ソフィさんも逃げたんっすよね?」

「勝手に死ぬのは勝手ですけど、巻き込まれるのはごめ――」


 突然、シュスタが森の奥を見据えて杖を構えた。

 ほぼ同時にラルドも同じ体勢になった。


 続けて二人が口にしたのは障壁の呪文。

 シュスタが広域障壁、ラルドが狭域障壁だ。


「な、何!?」


 二人ほど感覚が強化されていない私には何の気配も感じられない。


 でも、聞くだけ無駄だった。

 獣に決まっているからだ。

 そしてこの森にいるとすれば、チューリュしかいない。


 私の目論見もくろみは成功したのだ。


 二人は呪文を唱えながら互いにうなずき合うと、すばやく下がってきた。

 私の後ろへ。私を盾にするように。


「ちょっと!?」


 まだ、私は何も感じない。

 どのくらいの距離にいるのか、こちらに向かってきているのかさえわからない。


 先に私を放してよ、と文句を言おうと振り返った私は、二人の硬く強張こわばった表情を見て、すぐに口をつぐんだ。


 この二人が軽口を叩く間もなく障壁を唱え始めた。

 そして、結構な量の魔力を練り上げて、強力な障壁を作ろうとしている。

 膝をついたまま身動きのとれない私をそのままにしているのは、私が動いたところで何の足しにもならないから。

 逃げるという選択肢も、私が応戦するという選択肢も、はなから捨てている。


 それらの事実と、相手の様子がわからないという未知の恐怖が相まって、心臓が早鐘はやがねを打ち始めた。


 チューリュたちを呼べたら、逃げればいいと思っていた。

 全速力で逃げて、三人で片づければいいと。


 馬鹿だ。


 ラルドとシュスタが止めようとしていたのに、先生のことばかり考えて、二人は慎重になりすぎているだけと決めつけて。


 シュスタとラルドからは、臆病なだけとはとても言えない、張りつめたような緊張感が伝わってきた。

 尋常な事態ではないのだ。


 私も何かしなければと、震える唇を開く。


 出てきた詠唱は、守るための障壁でも逃げるための推進でもなく、得意な炎ですらなく、さっき唱えていた土の魔術だった。


 地面を揺らしてどうするのよ!


 そう思ったけど、唱え直す時間はなさそうだった。


 ラルドの詠唱がシュスタよりも遅れていて、その声に焦りがにじみ出ていることが、敵がすぐ近くまで迫っていることを示していたから。


 なのに、まだ気配がしない。


 なんで!?


 チューリュの大群が波のように押し寄せてくる様子を想像するが、視界に収めることも、ざわめきのように伝わってくるであろうその足音を聞くこともできない。


 二人の詠唱の進度に合わせて簡略化した土の魔術を唱え終えたとき、シュスタの術も完成した。

 ことわりの言葉とともに、広域障壁が私たちの――私の前に生まれる。


 その瞬間、突如とつじょとして、眼前に大きな口が現れた。


 ――え?


 私の強化された感覚の外から一瞬で突っ込んできたそれは、パリンと容易にシュスタの障壁を破り、間一髪、ギリギリで発動したラルドの狭域障壁によって押しとどめられた。


 大きく開いた口の中、奥には先が二つに分かれた黒く細い舌が見え、私の顔の横にある黄色い鋭い牙からは青い液体が糸を引いていた。


「――!」


 驚いた私は、思わず用意していた魔術を発動してしまう。


 ただ地面を揺らすだけの術。


 だけどそれは私のすぐ目の前の地面を大きく波打たたせ、ぱっくりと口を開けた獣の頭を跳ね上げた。


 アッパーカットを食らう格好になったそれは、首を大きくらせた。


 首が異様に長かった。


 その隙にラルドが私を抱え、シュスタと共に横へ走り出した。


 振り返った私が見たものは、木の根の起伏を無視して長々とその体を横たえた、緑色の大蛇だった。

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