第204話 追加

 そう思ったのもつか、左足が血で滑り、思わず右足を踏み出す。


 地面を踏みしめ、転倒するのはまぬれたが、靴の左側、土踏まずの横で、何かが動いた。


 ぱちりと開いた小さな青い目。


 ピイィィーーー――……


 聞こえたのは、草笛のような高い音。


 すぐさま次の根へと飛び移ったがもう遅い。


 視界が、ざわりと揺れた。


 

 くそっ! くそっ! くそっ!


 灰色の波打つ地面が、前後左右からせまって来る。


 その中を、進んでいた方向だけを頼りに走った。


 こうなってしまったら、チューリの寝床を踏まないようになんて注意は要らない。

 揺れて邪魔になる鞘は剣ごと腰から外して手に持ち、チューリによって掘り返された、わずかに靴の沈む柔らかな土の上を、時折根を飛び越えながらとにかく走る。


 一匹のチューリが俺の足によじ登ることに成功した。

 そいつは左の太ももまで進むと、がぶりと鋭い前歯を突き立てた。


「……っ!」


 パシッと手で払うと、血がにじみ、鈍い痛みが残った。


 構うことはない。単にかじられただけだ。

 毒はない。

 大量に出血するわけでもない。


 一匹なら。


 キィィィーという鳴き声は何重にも重なり、増幅され、鼓膜がびりびりと震える。


 魔力で脚を強化できるチューリは非常にすばしっこいが、長距離走は苦手だ。

 だからある程度走れば諦めて止まる。


 しかし、鳴き声が鳴き声を呼び、森全体へと伝播でんぱしていった。

 諦める個体よりも、甲高い声に反応して向かってくるチューリの方が多い。


 すばやく木に駆けあがり、枝からぼとりぼとりと落ちてくる奴までいる。


 進路上のチューリを蹴飛ばし踏み潰し、肩に着地したチューリを払いのけ、とにかく走る。


 森を抜ければ追ってはこないはずだ。

 だがそこまでの距離と自分の体力を考えれば不可能だった。


 さいしょのチューリが鳴き声を上げたときに、戻るべきだったのだ。

 それならすぐに森から出られたし、草原での相手はルンゴール。一息つく余裕もあっただろう。


 判断ミスだ。


 ギリッと奥歯をむ。


 また一匹、足をよじ登ってきた。

 今度は噛まれる前に振り払う。

 さらに反対の足に一匹。


 自力で逃げられないのは明白だった。


 


 ポケットの中で、にぎりこぶし一つ分の木の実をつかみ取る。


 草原にはいる前に一度体に入れている――。


 その事実が頭に浮かび、手の中の数を調整した。

 しかしすぐに思い直し、もう一度こぶし一杯につかみ直した。


 あまり効かなくなってきている。

 躊躇ためらう余裕があるのがその証拠だ。


 なりふり構ってはいられない。 


 多すぎる木の実を、丸ごと口に入れた。

 ポロリと数個が転がり落ちた。


 チューリが食べたら厄介だ。

 そんなこと俺には関係ない。食いたきゃ食えばいいさ。


 ガリガリとかみ砕き、大きな塊ごと嚥下えんげした。


 すぐに訪れる高揚感と浮遊感。

 酸素を欲していた体が軽くなり、力がみなぎ


 二、三匹が足を駆け登ってくる。

 噛まれてもそれほど痛みを感じない。

 そいつらを足にしがみつかせたまま走る。

 

 抜けるまで、あとどのくらいだ?

 

 通常のペースなら、森を抜ける頃には日が傾き、そこで遅めのキャンプを張るのが一般的。

 であれば、いくら飛ばしているとはいえ、森の出口はずいぶん先だ。


 方向はあっているのだろうか。


 幹の印を見る余裕がない。

 走りすぎざまに視線を向けるが、読み取ることなど不可能だった。

 さらに一匹、また一匹と、次々に体を駆け上がってくると、さすがに鬱陶うっとうしくなる。


 腰まで来た奴は、わしづかみにして引きはがし、近くの木に叩きつけた。

 握ったとき、小さな体の中でパキパキと小枝が折れるような音がしていた。

 

 与えたダメージを確認することはできなかったが、息の根を止められたところでたかが一匹だ。

 なんの意味もない。


 こんなことを考える余裕があるなんて。

 マジで効かなくなってるな。


 焦りと呆れで自嘲じちょうする。


 すると、こめかみがずきっと痛んだ。

 それはじわりと広がって、痛みを増していく。


 共に脳に浸透していく強烈な眠気を感じて、頭蓋ずがいに沿って全体に行きわたる感覚に安心する。


 

 頭が痛い。


 チューリが足にまとわりついてきて走りにくい。

 

 だんだん視界が狭くなっていく。

 視界がぎゅうぅっと中心へと圧縮されていくような錯覚におちいる。


 さらに、焦点が合わなくなり、ぼんやりとしてきた。


 なのに足はしっかりと地面を踏みしめ、体は半自動的に前へ前へと進んでいた。

 

 ずきずきとしていた頭痛は、頭蓋骨全体をギリギリと締め上げられているかのような痛みへと変わっていた。


 思考が引き伸ばされていくような感覚と共に、意識が薄くなっていく。


 一方で、強く強く感じるのは、前方からの引力。

 進むべき方向がそちらであるのは明らかだった。


 かかとがぐにゃりとチューリを踏みつけ、その感覚を最後に、俺の意識は脳内に閉じ込められた。

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