第190話 最後

「よく来てくれたね」


 突然の師匠の声に驚いて、子どもたちの肩がびくりと跳ねた。


 俺は毎回この不自然なまでに優しい声に、背骨をやすりでごりごりとこすられているような気分になる。


「何度も説明したように、これからとても苦しい思いをする。たぶん一生残る怪我をするし、もしかしたら死ぬかもしれない」


 スカートの少女の震えが大きくなる。


「やめたいという人は手を上げて。帰してあげる。協力の気持ちがないとうまくいかないんだよ」


 誰も手を上げない。


「一度始まったら中断はできない。やめたくなったら、始まる前に言うこと」


 誰も何も言わない。


「わかった人は手を上げて」


 全員の手がさっと上がった。

 少女の手も、ピンっと天井を指していた。膝と同じくらい震えながら。


 吐き気がひどい。

 今は何時なんだろう。

 早く帰りたい。


「じゃあ、誰が最初にやるか決めるよ」


 師匠が、レイルバードに目くばせをした。


「これから、女の人が、頭に手を乗せていく。そのあと、手のひらを見せてもらう。痛いことは何もないから、力を抜いて、じっとしていて」


 レイはわざと音を立てて子どもたちに近づき、一番前を歩いていた子どもの頭に手を置いた。

 服装からは性別が推し量れないその子は、びくっと小さく跳ねたが、触られているだけだとわかって安心したのか、すぐに肩の力を抜いた。


 スカートの少女が小さく悲鳴を上げたのを除いて、みな似たような反応だった。


 手を見たときも同じだ。

 ぷにぷにと押して弾力を確かめたり、手の甲を触って滑らかさを確認したりもしたが、誰からも不平の声は出なかった。


「誰がいい?」


 全員分をやり終えたレイに、師匠が聞いた。


「この子」

「えっ?」


 レイが頭に手を置いたのは、少女の次の子だった。

 声からすると少年らしい。


 最後尾の近衛兵が、少年の腰についたベルトから両隣の子と繋がっている縄を外し、両隣の子同士を縄でつなぎなおした。


 手を引かれて数歩前に出た少年はそわそわしていたが、その手をレイがそっと握ると、体を動かすのをやめた。


「やめるかい?」


 師匠に問われてうつむき加減になった少年は、意を決したように、すっと顔を上げた。

「や――」

「やめますっ!」


 言い切ったのは、少年ではなく、さっきまで隣にいた少女の方だった。


 少年は驚いたようにそちらを振り返っている。


「そ、そうかい。じゃあ、まず、そこの女の子はなしだ。帰してあげて」


 近衛兵が近づき、今度は少女の縄を外し、両隣を繋ぎなおした。

 そのまま少女は、近衛兵に手を引かれて部屋を出ていく。


「他に帰りたい子はいるかい?」

「お、おれも……」


 ゆるゆると手を上げたのは、前にいる少年の隣にいて、さっき少女の隣になって、今は別の子の隣になっている子どもだった。


「わかった」


 近衛兵が戻ってきて、その少年を連れてまた出て行った。


「他には?」


 誰も答えない。


「で、あんたもいいのかい? やめるならいまだよ」

「やる」


 選ばれた少年は、真っ直ぐ顔を上げて、はっきりと答えた。


 たまたま正面にいた俺は、単に前を向いていただけだとわかっていても、自分に言われたように感じて、呼吸が苦しくなった。



 二人抜け、選ばれなかった三人も部屋を出された。


 残った少年は、近衛兵によって、魔法陣の中央――ぽっかりと円状に何も描かれていない床に、ドアに背を向けるように座らされた。


 俺はその後ろに回り込む。

 顔は見たくない。見たら苦しくなるだけだ。


 近衛兵がドアの向こうに消えたのを見届けてから、レイルバードが少年の前にひざをついた。

 レイが袋を取ると、少年はふるふるとこげ茶色の頭を振った。


 パースジェラルドが、長テーブルの上にあったナイフと小ビンをレイに渡す。


 レイは説明してから、ナイフで少年の指を切った。

 すぐさまパースが回復魔術を使い、その傷はたちどころに治る。


 ビンに受けた少年の血は、用意されていたインクに混ぜられていく。

 その間に、少年は上半身の服を脱いだ。


 少年の両の手のひらを上にして地面に置かせ、パースとレイは、混ざったインクを少年の肌に塗っていった。


 首を一周するように円を描き、そこから線を下へと伸ばしていく。

 いくつか文様と文字を入れたあと、最後は両腕を通って、魔法陣へと線を繋いだ。


 最初こそくすぐったそうに体を揺らしていた少年だが、二人の真剣な表情を見てか、だんだん大人しくなっていった。


 全ての準備が終わり、師匠が少年に念押しをする。


「これが本当の最後だ。ここから先は中断できない。――やめるかい?」

「やる」


 少年は、先程と同様、はっきりと意思を示した。


 師匠はそれを見て、満足そうにうなずいた。


「ノト、始めておくれ」

「え!?」


 師匠が何気なく出した指示に、少年は激しく反応した。


 両手は決して床から離してはいけないと言われていて動きは小さくなっているが、それでも、顔をこちらに向けることはできた。


「ノトぃ!?」


 ああ。

 ずっと、その可能性を否定し続けていたのに。


 少年は、貧民街の子どもたちのリーダー、タンクだった。

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