第181話 復活

 玄関を開けると、そこには誰もいなかった。

 寝室のドアの下から明かりが漏れていて、ソフィとトビは部屋にいるようだ。


 はずした剣をその場に落とし、のそのそとテーブルに向かう。

 緩慢な動きで椅子に座ると、肩がずしりと重くなり、もう二度と立ち上がれないような気がした。


 頭にかすみがかかっているように、はっきりと物が考えられない。


 このところずっとそうだ。

 だから小さなミスもする。


 右腕の乱暴に巻いた包帯を見る。

 爪をけ損ねてざっくりと切られ、血さえ止まればいいとただ縛った。


 テーブルの上には食事が用意されていた。

 いつもは食べる気がしないが、今日はなぜだか腹が減っている。


 震える手をカップに伸ばし、こぼしそうになりながら中のスープをすすった。


 冷たい。


 肉と野菜の包み焼きは、外側の皮がべちゃべちゃしていて、中の具には冷えて固まった油が白く付着していた。


 目の前の食べ物を、機械的に口に入れ、咀嚼そしゃくし、嚥下えんかする。


 無理矢理全てを腹に収めると、口の中と喉がべたべたと油で覆われているような不快感が残った。


 湯を沸かそうにも、火を起こせないことに気がつく。

 お茶もれられないし、湯みもできない。


 そういえば、明かりもついていない。


 青白い月の光がカーテンの開けられた窓から射し込んで、部屋をうっすらと照らしていた。


 いつもと勝手が違う。


 ぼんやりとそう思ったが、すぐにどうでもよくなった。


 汗と汚れでどろどろだったが、ずぶずぶと沼にはまりこんでいくかのように、ひどく眠い。


 もう寝よう。


 寝室に入り、ふと目を床に向けると、月明かりの中、何かがきらきらと光っていた。


 自分の影が落ちないようにひざまずき、目をらす。


 糸……?


 散らばっているうちの一本を拾い上げ、目の高さに持ち上げて、よく見た。


 青白い光の中でさえ、明るく太陽のような金色を放つ。

 俺は今朝、手に絡まっていたそれを、ここで払い落とした。


 そして、はっと思い出した。


 ソフィの泣き顔を。

 トビの怒った顔を。

 殴られた痛みを。

 自分の鋭利な声を。


 俺が、やったことを。


 髪の毛を握った右手を左手で包み込み、それをひたいに当ててしゃがみ込む。


 俺は、なんてことを。

 弟子に、女の子に、手を上げるなんて――。


 トビが止めてくれなかったら、腹だけじゃない、ソフィの顔も殴りつけていただろう。

 今更、殴られたほほが痛み出した。


 両手で両目を覆い、膝を床につけて、こうべを垂れる。


 王都に来てからずっと、食事を作り、家を整え、俺の傷を治し、夜遅くまで帰りを待ってくれていたソフィ。

 朝、必ず温かな朝食が用意されていたのは、俺より早く起きていたからだろう。

 夜も、必ず湯気を上げる夕食が用意されていた。俺はそれを無視して、一口も食べなかった。


 毎日、俺を心配し、いたわる言葉をかけてくれていた。


 今朝も、俺の体を心配する余りの行動だったというのに。


 俺は、それを鬱陶うっとうしく思い、障害と見なして無理やり排除しようとした。

 腹を殴り、髪をつかみ上げ、顔を殴ろうとまでして。


 ――俺は馬鹿だ。


 自分のことばかりを考えて、なんで俺がと境遇を恨んで、自分は独りなんだと思い込んで、自棄やけになって無茶をして、挙句に、こんな俺を見限らずに尽くしてくれている、大切な大切な弟子を傷つけた。


 弟子ソフィを守るのは師匠の役目だ。

 なのに師匠が弟子を傷つけるなんて、あってはならないことだったのに。

 情けなくて涙が出る。


 ソフィに見捨てられていたら、俺なんて、早々に野垂れ死にしていたに違いない。

 この家に帰ってさえこなくなっただろう。


 なんてびればいいだろうか。

 謝れば許してくれるだろうか。

 まだ、先生と呼んでくれるだろうか。

  

 


 次の朝、ソフィの笑い声で目が覚めた。

 いい匂いがする。


 床で眠ってしまったらしく、体が痛い。


 いや、体の痛みは、このところずっと感じている。

 今日に限ったことではない。


 驚かさないように、わざと音をたててドアを開けた。

 細い隙間の向こうで、ソフィの声が、ピタリと止まる。


 当然の反応だな。


 目を軽く閉じ、意を決してドアを大きく開けた。


 胸に右手を当て、強張こわばった表情のソフィと、その前に守るように立ち塞がり、俺を睨みつけるトビ。


「あ……」


 かすれた俺の声に、場の空気がピンと張り詰める。


 なんて言えばいいんだ。


 何も考えずに出てしまったことを後悔したが、もう遅い。


「そ、ソフィ、今日はお前もつれていく。準備してこい」


 出てきたのは、上から目線の、謝罪とは程遠い言葉だった。


 それを聞いたソフィは目を丸くして固まった。

 その目に、みるみる涙が溜まっていく。


 間違えたと思ったときにはもう遅い。


「あ……」


 手を伸ばし、違うんだと声を出そうとしたら、ソフィが大きく息を吸った。


「はいっ! 急いで準備します!」


 首をわずかに傾け、にこりと笑ったソフィの両目から、涙がこぼれた。



 長いスカートをひるがえしてソフィが寝室に駆け込んだあと。

 俺をにらんだままのトビを見る。


「その……悪かった。自分しか見えてなかった」


 頭の後ろに手を当てて、少し視線をはずして謝った。


 ちらりとトビを見ると、ふぅん、と目をすがめていたが、やがて、険しい顔のままこちらへ向かって来た。

 身構えた俺の横を通り過ぎながら、


「こんどぼくのだいじないもうとをきずつけたらただじゃすまさない」

「え? お前、しゃべれて……」


 ぽかんと口を開けた俺を置いて、トビはそのまま玄関から出て行った。

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