第180話 殴打

 先生は無言で私を押しのけようとしたけど、両手を広げて断固として譲らなかった。


「どけ」

「嫌です」


 肩をつかまれ、ぐっと横に押されるが、足を踏ん張って耐える。


 何日かぶりに聞いた先生の声はとても冷たくて、泣きそうになった。


 涙をこらえて、先生をにらみつける。


「どけよ」

「嫌です」


 今度はつかんだ肩を強く後ろに押された。

 少しよろめいてしまったが、それでも譲らない。

 ふらふらの先生になんて負けない。


「邪魔だ! どけ!」

「どきません!」


 先生が舌打ちをした。

 

 眉間みけんにしわを寄せて、目を細め、イライラした表情で見下ろしてくる。

 向けられたことのない顔。


 思わず涙がこぼれた。

 だけどここで屈するわけにはいかない。


「そうか」


 先生は私の涙を見ても全く動じた様子もなく、肩をつかんでいた手を離し――


「かふっ」


 突如、私のお腹に衝撃が来た。


 息ができない。

 吸おうとしても空気が入ってこない。


 おなかを殴られたんだと理解したとき、ひゅぅっと小さく喉が鳴って、空気が細く入ってきた。

 それに取りすがるようにして夢中で息を吸う。


……っ」


 ドアの前に崩れ落ち、下を向いて床に手をついていた私は、髪をつかまれて上を向かされた。


「邪魔だっつってんだろ」


 私を見下ろす先生は無表情だった。

 トルタレナ石のように真っ黒できらきらとしていた目は光を失い、何も映していない。


 間近で見た先生は、ほほがこけ、目が落ちくぼみ、すこし無精ひげがはえていて、肌もくちびるも乾いてかさかさしていた。


 先生が固めた右のこぶしを後ろに引いたのが見えた。


 殴られるっ。


 そう思って、ぎゅっと目を閉じた。


「きゃっ」


 襲ったのは、覚悟していた顔の痛みではなく、髪を引っ張られる痛みだった。

 ぶちぶちと髪が抜ける音がした。


 先生の手が離れ、前を見ると、トビさんが襟首えりくびをつかんで先生を引き倒していた。

 

 そのまま馬乗りになり――


 ゴッ


 ――先生を殴りつけた。


 続けてもう一発。


 私からは背中を向けているトビさんの表情も、仰向あおむけになっている先生の様子も見えない。


 先生が何かを言っているけど、殴られると思ったときの恐怖と、目の前の光景が信じられなくて、言葉が頭に入ってこなかった。


 トビさんが勢いよく振り上げたこぶしから、ピッと血が飛んだ。 


 やめてと叫びたくても、喉が張りついたように締まっていて、声が出ない。


 トビさんはさらに二発殴り、今度は胸ぐらをつかんで引き起こした。


 先生の顔は真っ赤になっていて、服に血がぱたぱたっと落ちた。


 抵抗するのも構わず、トビさんは先生を寝室のドアへと突き飛ばした。


 背中からドアにぶつかった先生は、うめき声を上げた。

 手で鼻を押さえるも、隙間からぽたぽたと落ちていく。


 トビさんは、背をドアに預けてずるっと滑り落ちた先生の胸ぐらを、再度つかんで斜め横に引っ張り、反対の手でドアを開けると、先生を部屋の中へと放り込んだ。


 ドアの陰でトビさんは蹴るような仕草をしたあと、頭を冷やせっ、とバァンと大きな音をたててドアを乱暴に閉めた。

 

「そふぃ」


 トビさんはずんずんと近づいてきてしゃがみ込み、ぺたりと座り込んでいる私の顔に手を添えた。


 大丈夫? と眉根を寄せ眉尻を下げた。


「トビさ――」


 トビさんは、はっと勢いよく後ろを振り向き、ドアへダッシュして、開きそうになったドアをバンッと押さえた。

 中から先生が開けようとしているのを全力で阻止している。


「そふぃ!」

「えっ? ええ?」


 手伝って! と訴えられるも、頭の中を色んな思考がぐるぐるしていて、咄嗟とっさに動けなかった。


 その逡巡しゅんじゅんの間に、ドアを押さえつけていたトビさんが、逆にバッと開いた。


「のと!」 


 直後、何かが壊れる音がして、「んあああぁぁぁっ!」と、トビさんの悔しがる声と、ドンドンッと地団駄を踏む音が聞こえた。


 そして、がっくりと頭をれた姿勢で出てくると、窓から逃げられた、としょんぼりした。


「怪我はなさらかったかしら……」


 ぽつりとこぼした私の言葉に、トビさんは、信じられない、と目を丸くした。怒っていいんだよ、とあきれ顔だ。


 再びしゃがんだトビさんは手を伸ばし、親指で私の目の下を優しくぬぐった。

 反対側の涙もいてくれて、おなかは大丈夫? と、顔をのぞき込んできた。


あざになるかもしれませんが、痛みはそれほどありません」


 それから、綺麗な髪なのにね、とぐしゃぐしゃになった髪をなでつけてくれた。


「先生は、疲れていらっしゃるの。だから……」


 わかってるよ、とトビさんは肩をすくめた。

 大丈夫そうだから出てくるね、と立ち上がる。


「わたくしもお買い物に……」


 何か持って帰るから休んでな、と頭をなでて、トビさんは玄関に向かった。


 ドアを開けてから、ああそうだ、と振り返り、口調戻ってるよ、と笑った。




 その夜、遅く帰ってきた先生を、私は迎える事ができなかった。

 トビさんが、危ないからと寝室から出してくれなかったからだ。


 とおせんぼうをしているトビさんの後ろ、扉の向こうで、用意した食事を食べてくれている音が聞こえてきて、私はほっと胸をなでおろした。

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