第105話 忘却

 川は飛び石があれば向こう側に渡れそうなほどの幅しかないのに、足がつかないどころか、身長の二倍はあろうかという深さだった。


 同様に飛び込んできたちびが、その不釣り合いな重さで沈んでしまい、息ができなくなって気絶、ドラゴンの姿でぷかりと浮かんでくるというトラブルはあったものの、俺たちは水浴びを満喫した。


 服を洗い終え、水から上がったころにはソフィの服も乾いており、あまり長く水辺にいると獣と遭遇する可能性が高まることから、早々にその場を後にした。


 十分に離れたところで再度火を起こし、服を脱いで枝にひっかけて乾かしていく。


「なんか忘れてるような気がするんだよなあ」


 果物をかじりながら、呟く。


「ひっひょー!」

「!?」


 横で果物を頬張りながら、ちびが言った言葉に、思わず立ち上がってしまった。


 やばいやばいやばい。

 師匠に連絡を取っていない。燃やされたこともしばらく描けないことも伝えなきゃいけなかったのに。


「先生、ひっひょーってなんですの?」

「師匠だ、師匠。俺の依頼人! 今すぐに連絡をとらないと、殺される……!」

「すぐにとおっしゃいましても、ここでは無理ですわ」

「だよ、なあ」


 力が抜けてすとんと座る。

 頭を抱えてうめき声を上げてみても、現実は変わらない。


 ちびに、ぽんっと肩を叩かれた。

 もっしゃもっしゃと果物を咀嚼そしゃくするちびの目が、諦めろと言っていた。


 それに、なんだか、他にも大事なことがあったような……。


「ちび、俺、なんか忘れてないか?」

「しっしょー」

「いや、師匠じゃなくて」

「しっしょー!」


 なんだか妙に引っかかるこの言葉。

 ちびが最初に発した言葉が「師匠」だった。そのときは――


「ああっ!?」

「ちょ、先生、急に大きな声を出さないでくださいまし! びっくりしましたわ!」


 ソフィが胸に手を当てて抗議の声を上げる。

 ちびは驚きすぎたのか、ころりと後ろに転がって、そのまま動かない。一瞬、ドラゴンに戻りかける気配がした。


 しかし今の俺にとって、それはほんの些細なことでしかない。


「まずいまずいまずいまずい!」

「何がです?」

「ああっどうしたらいいんだ。どうしたらっ!」

「だから、何がですの?」

「あれから何日たった? あと何日だ? あとどのくらいで抜けられる?」

「先生?」

「そうだあの手紙! くそっ! あれを出しときゃ事は簡単に運んだのに。いやあれを見た上での反逆罪扱いだったのか?」

「……」

「いやいや今はそんなことはどうでもいいっ! それよりこれからどうするかだ。国家反逆罪のことはもう確実に伝わっているはずだから、向こうも事情はわかっているはず。だからって許されるのか? あいつらならわかってくれるか? いやでもだからって……」


 とにかく、こんなところで油を売っている場合じゃない!!

 なんで俺はこんな大事なことを――!


「ソフィ」


 がしっとソフィの両肩を掴み、顔を近づける。


「な、なんですのっ!?」

「いいかよく聞け。俺は今すぐに出発しなきゃいけない。だ。これはだ。食事よりも、睡眠よりも、だ。わかるな?」

「全然わかりませんわ」

「王都に行かなきゃいけないんだ。わかるな? 

「わかっていましてよ。そのためにゴラッドに行くと――」

「今ゴラッドにいたとしても、間に合わないくらいに、事態は逼迫ひっぱくしている。それなのに、まだゴラッドにすら着いていない。わかるな?」

「ええ、わかりましてよ。でもこんな非常事態なのですから、仕方がな――」

「これは陛下からの召喚なんだ」

「はぁ?」


 ソフィが間抜けな声を上げる。


「もう一度言うぞ。王都行きはなんだ。わかるな?」

「わ、わかりませんわ。何をおっしゃって――」

「わからないならわからないままでいい。とにかく俺たちは――王都に行かなきゃならない」

「俺は……って、つまり、わたくしたちをここに置いていくと?」


 ソフィの瞳が不安に揺れる。


「それはない」


 ほっとソフィが息をつく。


「魔法陣もないし、武器もない。道具もない。はっきり言って今の俺よりお前やちびの方が役に立つ」

「そんなこと――」

「事実だ。できそこないの俺は、魔法陣がなければ何もできない。火を起こすことも、索敵することも。お前たちがいないと、この森は抜けられない」

「……」

「だから、お前たちを連れて行く。睡眠時間も食事の時間も削って、最速でこの森を抜ける」

「で、でも、抜けた後はどうするのです? ゴラッドに着いたって、わたくしたちは追われていますわ」

「それは移動しながら考える。前にも言ったように、ツテがあるからなんとかなると思う。――つべこべ言わずについてこい。来ないなら、仕方ないが置いていく」


 最長時間の推進と感覚強化を描いて、獣とやり合わずに不眠不休で走れば恐らく抜けられる。

 だが、リスクが大きいからできればやりたくはない。死んでしまったら本末転倒だ。


「わたくしたちだけで置いていかれたらそれこそ死んでしまいますわ! そうじゃなくても、先生の行くところならば、全力でついて行きます!」

「ちびもいいな?」


 ちびを見ると、まだもしゃもしゃと食べていて、こくりとうなずいた。

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