第89話 涙と鼻水

「ちび、お前……」


 呟くように声をかけると、それが聞こえていたのか、ちびが俺を見てへらっと弱々しく笑い、ふらりとよろめいた。


 それを素早く立ち上がったソフィががしりと支え、そっと地面に座らせる。


 かと思えば、こちらに向きなおり、涙と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔でダッシュしてきた。


「ぜ、ぜんぜいぃぃぃぃ」

「ちょ、おま、抱き着くな!」

「ぜんぜいぃぃ、ごわがっだでずぅぅぅ~~」

「鼻水、鼻水つくから! そこで顔拭くな!」

「ぜんぜいぃぃぃ」

「わかったから。わかったから」


 背中に手を当ててなだめてやる。


 どうせ返り血で汚れているんだ。今更鼻水……鼻水なんて……。


べられでじまう、がど、おぼいまじたぁぁぁぁぁ~」

「わかったから。落ち着け」

「でもぢびざんが、ぢびざんが、だずげで……」

「そうだな。そのちびの様子を見たいんだが……放してくれないか」

「わがりまじだ……」


 ソフィを引きはがす。


 涙も鼻水も垂れ流しだ。

 目は真っ赤だし、鼻の頭も真っ赤。

 眉は下がり、口はへの字になって、えぐえぐと泣き続けている。


「お前、ひっどい顔だなぁ」


 親指で涙をぬぐってやる。


 その向こうで、ちびがもやっと揺れて、ドラゴンの姿になったのが見えた。


 あちゃー……。


 左手で顔を覆う。


 ちびもやっちまったという顔をしている――ように見えた。


「……ソフィ、ちびは大丈夫そうだから、もう少し、抱きついていていいぞ」


 俺は一体何を言っているんだ。


「で、でも……」

「いいから! いいからこっち向いてろ! ほら!」


 振り向こうとするソフィの後頭部に手を回し、ぐいっと強引に胸に押し当てた。

 そのまま頭をなでてやる。


「ぜんぜいぃぃ」


 腕の中ですがりついて泣いている令嬢。

 かなり美味しいシチュエーションだと思うのだが、何にも感じないな。


 美人だし、スタイルはいいし、スカートは短くて、腕も丸出しだ。

 背中をなでると、ブラウス越しに中に着ているビキニトップに触れた。


 今朝部屋を訪れたときの露出過多な姿を思い出した。

 あのときだって、何とも思わな――


 真っ白な肌。浮き出る鎖骨。胸のふくらみ。くびれたウェスト。丸い腰。そこから伸びる足と、それを彩るガーターベルト。太ももにわずかに食い込んだ、ニーソックスの上部を縛っている紐。


 細部まで思い出して。

 カッと頭に血が上った。


 汗と血にまみれているはずなのに、なんだかいい匂いがしているような気がしてきた。


 頭の少し下をなでればうなじに触れる。

 まっ白な首を想像してしまう。


 まずい。

 これはまずいぞ。


 さりげなく体を少し離した。 


 見慣れている。

 見慣れているはずだ。


 王都には同じような格好をした流れ者の女剣士がたくさんいた。

 もっと防御力の高い服を着ればいいのにといつも思っていた。


 しかし、鍛えられ、ほどよく筋肉のついた彼女たちの健康的な肌とは違う。

 なまちろい、一度も日にさらしたことのないような柔らかな肌だった。


 そうだ。あの時も、男を誘っているようにしか見えない、と……。


 背中に指をわせていることに気がついて、ぱっと手を離した。


 って何を考えている!

 子ども相手に!


 一人で気まずくなって目をさまよわせれば、いつの間にかちびが人間に戻っていた。


 助かった――!!


「ソフィ、もう大丈夫だろ? ちびが呼んでるから行ってくる」

「あい……大丈夫れず……」


 両肩を掴んで、べりっと引きはがす。


 ソフィをその場に置いて、雑念を振り払うように、ちびに駆け寄った。

 

「ちび、大丈夫か?」


 くったりと横になっているちびは静かに呼吸をしながら、赤い目で俺を見た。

 大して動いてもいないのに全身が汗でびっしょりと濡れていた。


「よく頑張ったな。ソフィを守って偉いぞ」


 ちびがへらっと笑った。


「人間の姿のまま頑張ったのも偉かった」


 こくこくと首を振る。


 そして、眉根を寄せて苦しそうな顔で腹を押さえた。


「どうした? 腹が痛いのか? 怪我をしたのか?」


 手をどけようとして聞こえてきたのは、ぐうぅぅぅという腹の虫の鳴き声。


「はは……そうだよな。腹減ったな」


 緊張の糸がすっかり緩んでしまい、その場に座り込む。

 

「色々考えなきゃいけないことはあるが、いったん落ち着いたことだし、とりあえず飯にするか」


 早く報告しに行かないといけないが、まあ飯の時間くらい遅れてもいいだろう。

 ご加護のど真ん中でだなんて非常識も甚だしいが、この際だ。それもいいだろう。

 

 ああ。今日も空が青いな。


 仰いだ俺の顔に、影が落ちた。

 ソフィがのぞき込んできたのだ。


「ところで……ぐずっ……先生はやっぱり……ぐずっ……魔術を使えたんですのね……呪文を唱えている……ぐずっ……ようには見えません……ぐずっ……でしたけれど」


 ああ。

 そうか。

 これがあったか。

 

 背中を丸めてうつむき、がしがしと頭をかく。


 さて、何て説明したもんかな。

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