第87話 他言無用

 にらみ付けた森の奥。

 何か嫌なものが近づいてくる。


 そう思った瞬間、豆粒のように遠くに見える馬車の横に大きな緑色のものが飛び出した。


 そっちか――!


 馬車よりも二回り大きなそれは、跳躍したその勢いのまま、馬車の横に立っていた御者に、馬車の一角ごとかじりついた。


「きゃ――」


 背後から聞こえてきたのは、ソフィの口から飛び出した悲鳴。


 後半を飲み込んでももう遅い。呪文は壊れてしまった。


 まだソフィには早いか。

 シャルムなら絶対に漏らさなかっただろうな。


 百日以上前に、たった数日だけ一緒に過ごした銀髪の少年――少女だったか――の顔を思い浮かべた。


 ソフィは焦ったように再度呪文を唱え始めたが、それでは間に合わない。

 シャルムなら、あの超絶高速詠唱で間に合わせたのかもしれないなんて、またも馬鹿なことを考える。


 大きな緑色の獣の食欲の矛先はすでにこちらに向いていた。


「ソフィ、今度こそ、他言無用だ」


 間に合おうが合うまいが、どのみち同じだった。

 ソフィの障壁が一度攻撃を防いだところで、あれと魔法陣なしで対峙するほど俺は無謀じゃない。


 俺は破砕器をホルダーから引き抜き、前へと駆け出した。

 複合魔法陣は今からでは時間がかかりすぎて使えない。単発の魔法陣でなんとかするしかない。


 ここは街道だ。

 あれだけでかければ必ず女王陛下のご加護に触れる。

 さっきのは一瞬頭が入りかけただけだ。現に今は外にいる。


 女王陛下のご加護にいる限り安全だ。

 この国はずっとそうやってきた。


 さっきのスラグの群れは、勢いと後ろからの玉突きによるもので、例外中の例外だ。


 そう思うのに、積み重ねてきた経験によるものか、頭の中ではずっと警鐘が鳴り響いている。


 そして予想通りと言うべきか、その馬鹿でかいスラグは、女王陛下のご加護などその内外を問わず真っ直ぐ最短距離で向かって来た。


 その速度のまま突っ込まれたら受けきれずに吹っ飛ぶ。


 そう判断して、広域障壁を二枚張った。


 構えた剣の前で、スラグは障壁にぶち当たった。

 外側の障壁はいとも簡単に壊され、保険のつもりだった二枚目で止まる。しかしそれもすぐに消えてしまった。


 後ろで「ひっ」と悲鳴が聞こえた。


 二度目の詠唱も失敗か。

 障壁魔法陣を渡してやりたいが、自分用のしか持ってきていない。渡したところでソフィには使えない。


 睨み合い、鋭い牙が並ぶ口から生臭い息が顔に当たったかと思うと、スラグはぱっと後ろに跳んで距離をとった。


 見たところ、通常のスラグと変わらない。サイズが違うだけで。


 アルトの洞窟にいたタタナドンのことが頭に浮かぶ。


 いや、考えるのは後だ。

 今はこいつを何とかしないと。


 一瞬胴体を引いたスラグは四肢で地を蹴り、飛びかかってきた。


 再び広域障壁を展開する。


 衝突してひるんだその顔面に炎塊をぶつけると同時に、持ち上がった前脚の裏を横に斬りつけ、障壁が壊れて着地するまでの間にスラグの下をくぐり抜けて左側面に回る。


 肋骨ろっこつの間を狙って剣を刺すが、剣先がごわごわとした硬い毛皮を突き破ったあたりでスラグが身をよじってしまい、深くは刺せなかった。


 それどころか、剣先が抜けた反動でよろめいてしまう。


 そこをスラグの右前脚が襲って来た。

 咄嗟とっさに左手の破砕器を手放し、両手で握った剣で防ごうとしたが、不自然な体勢では横から振られた前脚の勢いを殺すことはできなかった。


 地面すれすれを吹っ飛ばされるが、両足でざざっと土煙を上げて止まり、剣を構え直す。


 まずい。


 先ほどとは位置が逆転し、ソフィやちびと俺でスラグを挟む形になってしまった。

 スラグがちらりとソフィたちを見た。


 スラグがソフィたちにターゲットを変えれば、防ぐ手段を持たないあいつらは、なすすべもなく食われてしまうだろう。


 へたりこんだソフィは、それでも、へたりこんだちびの肩を守るように引き寄せてその手で杖を持ち、もう一方の手で剣を構えていた。

 その口が、小さく動いている。


 顔は青ざめているが、ちびを守らなければならないという意思が目に宿っていた。


「こっちだ!」


 注意を自分に引きつけておくために叫んだ。

 同時に炎塊を顔に向かって放ち、その陰に隠れるようにナイフを数本投げた。


 スラグは火傷をするのも構わずに右前脚でぺしりとそれを弾く。

 続いてナイフが脚に当たるが、毛皮に阻まれて肉まで到達することなく落ちた。


 アオンッ!


 スラグが大きく鳴くと、俺とスラグとの間の空気が揺れた。


 直感にしたがって障壁を張る。


 襲って来たのは渦巻く風と、そこに紛れ込んだ風のやいば


「く……っ」


 俺は障壁ごと吹っ飛び、その間に見えない刃が障壁を回り込んで俺の肉体にいくつもの傷を作った。


 しまった――!


 傷は大したダメージにはならなかったが、スラグとの距離が大きく開いてしまった。

 体勢を立て直し、推進を使って一気に距離を詰めようと左腰からぶら下がる破砕器に手を伸ばしたが、あるはずのそれがなかった。


 さっきの風の刃で革ひもが切られたのだと気づいた時には、スラグはソフィたちの方に向き直っていて、食らいつこうと頭を下げた所だった。

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