第56話 文字

 シャルムの眠りの術によって、リズはあっという間に意識をなくした。眠るまいと傷口を自分でえぐろうとしたときにはどうしようかと思った。


 シャルムは次いで障壁魔術を唱えていく。


 ドラゴンは……まだ動かない。もし動いてきても、残った障壁を全部吐き出せば、シャルムが張り直すくらいの間はもつだろう。


 呪文を聞きながら、俺はリズの胸元の紐をナイフでぷちぷちと切っていった。

 背中から回って胸を押さえていた革の帯がはらりと落ちて、胸があらわになる。


 ぎょっとシャルムが言葉を詰まらせたが、声は飲み込んだため、幸いなことに詠唱が無効になることはなかった。


 横になっているのに、流れることなくきれいな形を保っていられるのは、大きさと胸筋の強さによるものなのだろうか。


 いかん。魅入っている場合ではない。


 ベルトを外し、ボタンも外していく。ウェストの部分を腰まで下げ、白い下着も下げて、下腹部を露出させた。


 もともと露出していた部分は薄汚れているが、隠れていた部分はまぶしいくらいに白い。筋肉がしっかりついているが、その上に薄く脂肪が均一についていて、屈強な男とは違う、女性らしい柔らかさを保っていた。


 手のひらで心臓の位置を探す。


 なめらかで吸いつくような肌に鳥肌が立ちそうになるが、なるべく考えないように。


 ああくそ。なんで人間の心臓はこんなところにあるんだ。


 不謹慎だとは思っても、ふにょりとした膨らみの柔らかさが本能を刺激して、命を懸けた戦闘中ということもあり、体の中の血が騒いで仕方がない。


 とくりとくりと弱いながらも規則的な鼓動を見つけて、安心とは違う意味でほっとしてしまった。


 ナイフで自分の左のてのひらを切った。


 不意にバシィッと音がして、シャルムの防壁が壊れた。バッと顔を上げれば、ドラゴンが目の前にいて、前脚を振るっていた。


 くそっ。リズに気をとられすぎた。


 すかさず魔法陣を起動させるシャルム。

 それもすぐに壊されてしまうが、俺も起動する。


 しかしドラゴンはそれをことごとく打ち破ってくる。


 やはり回復のたびに少しずつ強くなっていっている。マジで厄介なものを作ってくれたものだ。をこんなことに使おうと考えた奴らを皆殺しにしてやりたい。


 シャルムはすでに回復魔術に移行しているから、魔術で障壁を張ることはできない。


 仕方ない。使うか。


 俺は立ち上がり、軽く目を閉じて集中する。


 パチンと弾くのと同時にダンッと足を踏み鳴らす。


 足元にぶわりと広がる魔法陣。


 驚いたシャルムは魔法陣を踏むまいとその場で足踏みをして、避けられないとわかると、こちらを絶望の目で見つめてきた。


「障壁です。これでしばらく持ちます」


 ドラゴンが前脚をぶつけてきたり、牙でガジガジと噛もうとしてくるが、緑色の魔法陣はドーム状の障壁を発生させ、侵入を拒む。

 叩きつけられた炎にもびくともしなかった。


 切り札の一つだ。そう簡単には壊されない。


 俺はリズに向き直り、右の人差し指でリズの傷口からあふれている血をすくいとり、左手の血と混ぜ合わせる。


 右手の人差し指に血をたっぷりとつけ、それが付かないように気をつけながら、もう一度リズの心臓の位置を探った。


 胸の膨らみに添わせるような仕草になるが、完全に不可抗力である。


 ここだ。


 深呼吸を一つ。


 鼓動の真上に人差し指を乗せる。


 息を止めないように注意して、そこからえがくのは、失われた古代の文字。


 本来は流れるように一気にえがくとされているが、そんなことは当然不可能で、ゆっくりと進めることしかできない。


 直線。カーブ。止め。はらい。

 一つ一つに意味があり、強弱さえも意識しなければならない。

 それは魔法陣なんかよりもずっと厳しい正確性が求められる。


 多少のクセは許容されるようだが、俺にはその判断はできない。だから手本を忠実に再現する。


 一文字えがくごとに血を取り、前の字から続くように次の字をえがいていく。


 下腹部ぎりぎりのところまでえがいたところで、一度手を止めた。


 汗がぽたりとあごから落ちた。

 顔の汗を袖口で拭う。


 タイミングよく――なのか水を差さないように待っていたのか、シャルムが回復魔術をリズにかけた。この短い時間でできうる最大の魔術だ。


 ふらりとシャルムが足をよろめかせた。魔力の減少が体に現れ始めている。

 しかし躊躇ちゅうちょすることなく、障壁を張る言葉を紡ぎだした。


 魔法陣の効果が切れる前には張り直せるだろう。


 大きく深呼吸。吸ったまま息を止め、長く吐き出す。そしてもう一度深呼吸。


 次は傷口の周りだ。


 リズの傷口から血をとって左手の上で混ぜ合わせ、今度は小指で傷口のカーブにそって文字を並べていく。


 本当なら傷口を囲むように円状にえがきたいところだが、無理にリズを横に転がして、せっかくの文字が血で汚れてしまったら事だ。


 理論上は、囲まなくてもできるはず。


 皮膚をぐっと押すと傷口の隙間からじわりと血がにじみ、力を抜いてもそれが止まらない。


 地面はかなり濡れていた。少しずつ命が流れ落ちていく。

 シャルムの回復魔術がそれを押し止めているが、傷が傷だ。


 シャルムは、ガンガンッと障壁を壊そうと躍起になっているドラゴンをじっと見据えているが、その瞳は不安で揺れていた。


 だめだ。

 集中。集中――。


 文字が潰れないようにスペースをギリギリまでとって、なんとか最後までえがききった。


 ふうぅぅぅと長く息を吐く。


 いつの間にか呼吸を止めてしまっていたらしい。

 体が硬直して柔軟性が失われると、それが筆跡に現れるからよくないのだが、幸い影響は出なかったようだ。


 今、はこのしている。

 あとはのトリガーを引くのみ。

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