魔晶の病理

碩 輔 - SEKI Tasuku

第一部

第一章 

 黄昏時を迎えた教室の一角に、二つの人影が伸びている。

 真剣な面持ちをした少年と、隣に立つ同年代の少女。二人が覗き込む木製の机には、一冊の書物が開かれていた。

 少年が、記述に指を走らせる。

「――じゃあ、ここから説明するよ。これまで、世界に存在する鉱魔力は、無機物だけが媒体になると考えられてきた。無機物というのは、鉱魔晶のことだ。これは〈魔晶学の中心原理〉といって――」

「それ、知ってるわ」少女が遮った。

「鉱魔力は因素の共鳴により生じる振動力場であり、鉱魔晶のみを媒体とする」

 この間の授業で習ったばかりだもの。少女は得意げに微笑んだ。

「その通りだ」少年は頷く。「でも、それは先生が間違ってるんだよ」

「間違ってる?」

 少女が怪訝な表情を浮かべる。少年はそれに答えるように、おもむろに書物の頁をめくった。

 見開きになった紙面に現れたのは、精巧に描かれた人体の模式図だった。水平に両腕を伸ばし、肩幅に脚を開いた人物の絵。重要な臓腑の注釈が、余白をびっしりと埋めつくしている。

「初めて見るわ……分け図ね?」

「ただの腑分け図じゃない。これはなんだと思う?」

 少女は首をかしげた。少年が指差した先には、本来あるはずのないものが描かれていたからだ。人体図に重なるように絡み合い、複雑に張り巡らされた幾何学模様。その神秘的な形状は、陽光に透かした若葉の葉脈を連想させた。

「これは、人体の経絡図だ」

「ケイラク?」少女は訊き返した。「鉱魔力の流れる、あの経絡?」

「そう。本来なら、経絡は加工された鉱魔晶の内部にしか存在しない。でも、この本によれば、僕たち人間の身体にも、機能をもった魔晶経絡が存在しているんだ」

 少女の眼に驚愕の色が浮かんだ。

「あたしたちの身体に、鉱魔力が流れているっていうの?」

「それを、『鉱』魔力と呼ぶべきかはわからないけど」

 少女はしばし少年を見つめて呟いた。信じられない。

「まだ発見されたばかりで、ほとんどの人が存在すら知らない。晋兄しんにいも、磐城いわき先生も、聞いたことがないとおっしゃっていた」

 少年はさらに頁をめくった。彼の澄んだ眼差しが、文字列を正確になぞってゆく。

「でも、経絡は確かにある。そうじゃないと、説明できないことがたくさんあるんだよ。僕たちの身体の仕組みは、禁忌領域とされてきたために、まだなにもわかっていないに等しい。たとえば、どうして息をする必要があるのか。どうして食べものを吸収できるのか。どうして、光や音がわかるのか――」 

 ふいに重低音が響きわたり、少年は言葉を切った。街はずれの寺が、夕刻の鐘を鳴らしたようだ。書物から顔をあげ、窓の外へ視線を向ける。

 深紅に染まった夕空が広がる。流れ行く雲を透かすように、神々しい光の帯が濃淡をつくっていた。それらを震わせるように、また鐘の音が届く。

 どこか遠い世界へ連れて行かれるような、現実が希薄になるような感覚。美しくて、それでいて、どこか不安を誘う領域へ。

 ひとしきり世界を眺めたあとで、少年は思い出したように付け加えた。

「――

 少女が微笑んだ。横顔が夕日に照らされて、彼女の睫毛や頬の産毛が繊細で柔らかな反射を返した。

「わからないことだらけね。この世界も、わたしたちの身体も」

「魔晶学の研究は、まだ始まったばかりだからね。でも」

 少年の眼に、期待に満ちた光が宿る。

「きっと、これから次々に新しい発見がされると思う。僕たちの時代に、たくさんの常識が覆されるんだ。こんなに楽しみなことはないよ。魔晶技術も、どんどん発展しているし――」

「でもね、省吾さん」

 唐突に、少女は冷淡な口調になって言った。教室の中が、急に暗くなったようだ。少女は少年に向き直り、机上の書物を手渡した。

「あなたには、関係のないことだわ」

「どういうこと?」

 書物を受け取った少年の表情がこわばる。

「だって、あなたの将来は、空っぽなんだもの」

「空っぽ……?」

 動揺する少年を前に、すべてを見透かしたような眼差しで、少女は微笑んだ。

「そう。あなたは、なにも成し遂げることなく、生涯を終えるのよ」

「そんなはずないよ、だって僕は――」  

 だが、少年は言葉を継ぐことができなかった。

 喉元まで出かかっているセリフが、なぜだか形にならない。なりたいものや、学びたいこと。日頃あれほど考えていたはずなのに。誰かの手で胃の腑へ押し戻されるように、何も出てこない——

「僕は——晋兄みたいに——」

 少年はかすれた声を絞り出そうとした。直後、視界が異変を捉えた。

 教室の隅に、闇が、出現していた。霧のように実体がなく、墨のように暗い漆黒。少女の足下を取り囲み、急速に全身を囚えつつある。

「なんだ――これ――」

 少年の足は、すでに自由を奪われていた。

 奇妙なほどにゆっくりと後方へ倒れゆきながら、少女は少年を見つめる。

「あなたには、わたしを助けられないでしょう?」

ふみちゃん!」

 少年は必死に手を伸ばした――届け! 届け!

 だが、伸ばしたはずの腕は力なく垂れ下がる。間に合わない。そう感じた矢先、両脚の力が抜けて少年はその場に崩れ落ちた。

 文ちゃん――

 叫んだはずの声は、空気を震わせることなく霧消した。

 少年は悟った――そうか、これは「やまい」だ。

 とうとう、自分がかかってしまったのだ。

 つかんでいたはずの書物は、すでに手を滑り落ちていた。いまや全身の感覚が脱失し、奇妙な浮遊感だけがあった。

 あらゆる臓腑の、経絡の流れが変わる。

 視界が歪み、世界が閉じてゆく。

 夕焼けの光はいつしか色を失い、視界が暗転した。もう、何もわからない。

 薄れゆく意識の中で、少年はぼんやりと思った。

 ――虚しい人生だったな。

 闇がすべてを飲み込んだのは、その直後だった。

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