207 群青の空の下で2

「お邪魔していいかな?」

 その夜、エドワルドが部屋でくつろいでいると、ミハイルが部屋を訪れた。急きょ行われることになった婚礼の準備で妻も子供も正神殿にいってしまった。少しゆっくり出来ると思い、寝る前にもう少しだけ書類に目を通しておこうかと思っていた所への来訪だった。

「どうぞ」

 少し緊張した面持ちで彼はミハイルを部屋に通した。オルティスを呼んで酒肴を用意させるが、ミハイルはいくつかの銘柄のワインを持参していた。

「今宵は男子禁制と言われてね、アリシアに神殿を追い出されてしまった。いいワインを持ってきたから一緒に飲もうと思ったのだよ」

 彼はワインのラベルを見せると慣れた手つきで栓を開け、そしてエドワルドの杯に手ずから注いだ。杯を揺らすと中で美しい深紅の液体が揺れ、芳香が鼻孔をくすぐる。

「随分といける口だときいたのだが、お気に召さなかったかな?」

 一向に口をつけようとしないエドワルドにミハイルは不思議そうに尋ねる。

「いえ、ワインを頂くのが随分と久しぶりで……」

 実はこの1年近く、彼は大好物のワインを口にしていなかった。冬の間、暖を取るために蒸留酒を飲む事はあったが、好きなワインは妻子との再会と国の復興を願かけて断っていたのだ。再会後も各国の賓客との晩餐などで飲む機会はいくらでもあったのだが、現状では何となく飲むのが躊躇ためらわれた。

 だが、折角用意してもらったのに断るのも申し訳ない。妻子は無事に帰って来た。再興への道筋も出来たし、もう頃合いかもしれない。自分でそう納得させると、もう一度杯を揺らして香りを確かめ、その芳香を放つ酒を口に含む。

 さすがに彼が用意しただけあって最高級の名に恥じない味わいである。だが、少々酸味が強い。

「見た事のない銘柄ですが、素晴らしい味わいです。もう少し熟成させるともっとまろやかになりそうですね」

「分かるかい? 本来ならばもう数年寝かせておくのだが、ちょっと飲んでもらおうと思って持って来たのだ」

 エドワルドの答えに杯を傾けていたミハイルは満足そうな笑みを浮かべ、そしてにこやかに続ける。

「このワインの醸造元は、10年ほど前に当主が急逝して継ぐ者がいなくて荒廃する一方だったところを私が買い取ったのだ。土壌改良をして土地に合う葡萄の品種を探し、試行錯誤してようやく満足のいく物が出来る様になったのはこの2~3年だな。これは昨年のものだ」

「そうですか……」

「ま、君の言うとおり、これはもうしばらく寝かさないと外には出せないがね」

 今回は特別なのだとミハイルは言い、杯の残りを飲み干した。そして2本目に開けたのはタランテラでも名の知られた銘柄の年代物。その絶妙な味わいに、エドワルドは今まで飲んでいたものが飲めなくなりそうだと思いながらもついついおかわりまでしてしまう。そして程よく酔いが回ったエドワルドはつい思っていたことを口にする。

「どうして……タランテラにここまで尽くして下さるのですか?」

 フレアから聞いた話では、昨年の秋ごろからずっと援助をしてもらっている。娘の為でもあるのだろうが、それにしても採算を度外視しているのは間違いないだろう。

「そうだなぁ……。あの、悲惨な光景を2度と見たくないと思ったからかな」

 ミハイルは一瞬、どこか遠い目をして答えた。そしてゆっくりと杯の中身を飲み干すと再び口を開く。

「私の一番古い記憶は、荒涼とした大地を養父に抱えられて見た記憶だ。プルメリアで起こった内乱末期の光景だと思う」

 およそ50年前におきたプルメリアの内乱は10年に及び、その10年間に多くの人命が奪われ、今では想像も出来ないくらい荒廃したと伝えられている。礎の里の介入を両陣営ともこばんだとか、悪徳な商人が武器の売買で儲ける為に長引かせたとか様々な憶測が当時から……そして今でも飛び交っていた。

「抗争に明け暮れた結果、冬への防備がおろそかになり、地方は妖魔に蹂躙され続けた。それが10年も続けば、大地が荒れ果てるのも当然だろう。

 あんな悲惨な光景は2度と目にしたくはないし、自分の子や孫にも見せたくなかった。タランテラをプルメリアの二の舞にするべきではない。だが、里を動かすには時間がかかる。だから陰ながらでも何かしら手助けしようと考えたのだ。私よりも上の年代の者達はあの光景が目に焼き付いている。おかげで国内には反対する者はいなかったから、兵や諜報員を動員するのも楽だった。」

 自嘲気味に付け加えると、空になった瓶を脇に置いて3本目の栓を開ける。エドワルドもその銘柄の存在は知っていたが、目にするのは初めてのワインだった。もちろん年代物で、ミハイルの解説によると、生産量が少ない為に国外には出していない秘蔵品らしい。

「宜しいのですか?」

 ギョッとして思わず尋ねるが、ミハイルは気にせず新たな杯にそれを注ぐ。恐る恐る口をつけると、先程のワインも最高級の部類に入るはずなのだが、それすら霞んでしまうほどの味わいだった。

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