54 時が来るまで3

 窓から差し込む朝の光でアスターは目を覚ました。彼は一つ欠伸をすると、女性向けの香が焚き染められた夜具を払い、ゆっくりと寝台から体を起こした。

彼が今いるのは、女性向けの家具が並べられた広い部屋で、異様な存在感を示す大きな衝立ついたてが部屋の中央に置かれている。その衝立の陰にも仮の寝台が置いてあり、この部屋の本来の主は今、そちらで寝起きしている。時間的に日課の鍛錬をしに出かけているのだろう、衝立の向こうには人の気配がない。

「あ、お目覚めですか。おはようございます、アスター卿」

 そこへ湯気の立つ朝食の皿が乗った盆を手に、この部屋の主であるマリーリアが入ってきた。カーマインを散歩に出した後、日課の鍛錬と神殿への参拝を済ませてきたのだろう。

「ああ、おはよう……」

 アスターは勤めてそっけなく答える。マリーリアはいつもの様に、寝台の傍のテーブルに朝食の盆を置き、衝立の反対側へ行くと汗をかいた服を着替え始める。この部屋に移って20日余り、一番居心地が悪い思いがする瞬間だった。

「……」

 シュルッと衣が擦れる音とともに、衝立からのびやかな白い腕が見え隠れする。エドワルドほどでないにしても、その方面で十分な経験を積んでいるはずのアスターは顔を赤らめ、あわてて視線をそらす。このままではいつかきっと、己の理性が吹っ飛んで彼女を押し倒してしまいかねない。

「アスター卿?」

 彼の内心の葛藤を知る由もなく、着替えを終えたマリーリアが衝立の陰から出てきた。

「顔が赤いわ。熱があるの?それともいつもの頭痛?」

 精彩を欠くアスターの態度にマリーリアは慌てた様子で傍に寄り、彼の額に手を当てる。更にグッと彼女は体が密着するほど寄ってくるのではらりと彼女の髪が彼の顔にかかり、柔らかな感触が体に当たる。

「い、いや、大丈夫……」

 狼狽ろうばいしつつアスターは慌てて応える。それでもマリーリアは急いでいつもの痛み止めの用意をする。あのひどい怪我をし、彼が左目を失ってから一月たったが、時折ひどい頭痛に襲われるようになっていた。医者もお手上げのようで、頭痛の時は痛み止めを服用して治まるのを待つしかなかった。

「だ、大丈夫だから……」

 アスターの看病をしているうちに最初のぎこちなさはもう無くなり、彼が止める間もなくマリーリアはてきぱきと薬の準備を整えてしまう。

「これ飲んで横になって」

 マリーリアは薬と水をアスターに手渡し、寝台の上の乱れた上掛けを直す。そしてもう一度そっと彼の額に触れる。

「熱は無い?」

「だ、大丈夫だから。用意してもらったけど、薬も必要ないから……」

 すぐ傍にマリーリアの顔が迫る。アスターは手渡された薬を慌ててマリーリアに返した。

「そう?」

「ああ」

 ぎこちなく笑い返すと彼女はようやく薬を元に戻した。寝台に座ったままだったアスターもゆっくりと寝台から降りて用意された食卓に着く。片目での生活にも慣れ、不意に起こる頭痛を除けば、日常生活に支障ない程度に彼は回復していた。

「そろそろ本当にヤバいな……」

 アスターが大丈夫だと分かると、マリーリアは彼の食事の妨げにならないように自分の領域である衝立の向こう側で何やらし始めた。アスターは小声でそっとつぶやきながら、少し冷めたスープを口に運ぶ。そして改めてこうなった経緯を思い返す。




 負傷して10日後、彼はようやくある程度の時間起きていられるようになった。そこで改めてあの日に何が起こったのかをリカルドとマリーリアに伝え、2人からは彼が寝ている間に届いたフォルビアの様子を教えてもらった。彼はラグラスのやり様に改めて腹が立ち、再起を誓った。

「朝早い時間とはいえ、フォルビアからここへファルクレインが来る間に姿を見た者がいないとは言い切れない。さらにこのことをこの村の者は皆知っている。ラグラスの一派がここへたどり着く前にと思い、村人達にはファルクレインは助からなかったと思い込ませた。密かに裏山にある山荘に移動させ、引き続き彼の治療にあたっている」

 ファルクレインの気配を感じず、落ち着かない様子のアスターにリカルドは先ずそう言って彼を安心させた。ラグラスはあの襲撃で彼が命を落としたと信じ、アスターも館で焼け死んだと公表していた。もし彼が生きていると知られれば、ラグラスはどんな手を使ってでも彼を殺そうとするだろう。自力で動くこともできない今、とにかく彼が生きていることを伏せておかねばならないとリカルドは力説する。

「私も死んだことにした方が良いとお考えか?」

「そうですな。村人達にはそう思い込ませた方が良いでしょう。ラグラスと手を結んでいる大殿に通じている者がいないとは限りませんからな」

 澄ました表情でリカルドは答える。確かにグスタフに知られれば、ラグラスには筒抜けになってしまうだろう。

「しかしリカルド殿、どうして貴公は私にここまで肩入れしてくださるのですか?ここはワールウェイド領、本来ならばワールウェイド公に従わなければならないのでは?」

 アスターの疑問はもっともな事だった。この村はワールウェイド領にあり、リカルドはグスタフの部下と言う立場となる。グスタフが全面的にラグラスを指示しているとなれば、その反対勢力となるアスターをかくまうことは主命に反する事だった。

「少なくとも人道的な良識を失ってはいないということです」

 リカルドはそう答え、さらに続ける。

「フォルビアでラグラスがあれだけ大々的に触れを出したにもかかわらず、フロリエ様やコリンシア様が見つからないのは同様な方々が多数おられるからだと私は確信しております。どう考えても彼の主張には無理があり、実情はどうなのか、皆わかっているのでしょう」

 リカルドはマリーリアが淹れたお茶でのどを潤し、一息入れる。

「ワールウェイド公はまだこの事をご存じないのか?」

「フォルビアで何が起こっているのか問い合わせたが、貴公の事は伏せておいた。正解だったな。いると分かれば止めを刺せと命じられかねない。」

 昨年の夏至祭にゲオルグを打ちのめしたこともあって、エドワルド同様にアスターもグスタフには相当恨まれていたはずだった。身動きできないのを幸いに、嬉々としてゲオルグ自身が止めを刺しに来るかもしれない。

「ゾッとしないな」

「とりあえず鎮魂の儀でも行えば、貴公が死んだと思ってもらえるだろう」

「私のですか?」

「明言はしない。私の家族だけで内々に行い、実質は葬儀に参加できなかったハルベルト殿下と襲撃で亡くなられた護衛の方々の冥福を祈り、エドワルド殿下ご一家のご無事を祈願しようと思う」

「それでは私はここで祈らせてもらいましょう」

 なかなか食えない方だとアスターは舌をまきながら、彼の考えに感心して頷いた。

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