33 流浪の果てに3

 そして山道に入って3日目、最悪の事態が起きた。

「コリン、コリン?」

 昨夜は山道から少しそれた場所にあるこの洞窟で夜を明かした。ティムが見つけたこの洞窟は4人入れば少し窮屈に感じるくらいに狭いのだが、夜露をしのぐにはちょうど良かった。それで奥の方にフロリエとコリンシアが横になり、オリガは入り口近くで壁にもたれ、ティムは短剣を抱えたまま座って体を休めた。付近に馬をつないでおけば、何かが近づいて来ても彼女が騒いで知らせてくれる。そうやって朝を迎えたのだが、コリンシアがぐったりしていて起きてこない。額に手をやるとかなりの高熱である。

「疲れが出たのでございましょうか?」

 心配気にオリガが覗き込む。フロリエは無理をさせてしまった事を申し訳なく思いながら、子供の手を取る。熱で寒気がするのか、震える姫君に手持ちの夜具を全て掛けてある。

「水を汲んできました。」

 ティムが桶に水を汲んで戻ってきた。沢の冷たい水に布を浸して軽く絞り、コリンシアの額に乗せる。手持ちの薬草では解熱の薬を調合することもできず、今は熱が下がるのをただ祈るしかなかった。

「コリン様には私がついていますから、奥方様も少しお休みになってください。」

 オリガはフロリエを気遣ってそう言う。彼女は少しためらいながらも、お腹に宿っている新しい命の為にもコリンシアの隣に横になって体を休めることにする。

 彼女たちが寝床にしている場所には、ティムが洞窟内に積もっていた枯葉を集め、更にその上から夜具を掛けて居心地良くしていた。フロリエは熱でぐったりしている娘を抱き寄せるように横になる。

「父…さま……」

 譫言うわごとでコリンシアが父親を呼んでいる。リラ湖での父親との別れは、彼女の心を深く傷つけていた。周囲に心配かけない様に普段は明るくふるまうようにしているが、時折、寂しそうな表情となる。寝ていて突然に泣き出すこともあった。そんな時には決まってフロリエが優しく抱きしめ、娘が落ち着くのを待った。

「父…さま……」

 コリンシアの手が宙をさまよっている。オリガは優しくその手をつかみ、フロリエの手に握らせてくれる。

「コリン様、さあ、お母様とお休みなってくださいませ」

「大丈夫よ、ルルー」

 フロリエは枕元で心配そうに覗き込んでいる小竜にそう声をかけ、手探りで優しく頭をなでる。そして少しでも体を休めようと、娘の手を握ったまま目を閉じた。




 夢の中で彼女は祈っていた。聖なる頂へ向かった弟の為に。

『どうか無事に帰ってきますように……』

 殺人の濡れ衣は養父の働きかけのおかげで晴れたものの、ガウラ出身の大母補と恋に溺れて本来の役目を放棄していたことをとがめられ、この聖域に彼は左遷された。本来なら竜騎士資格も返上するところだったのだが、修行として聖なる頂に1人で登れたらそれを免除されることになっていた。

『嬢様、心配いりませんよ。若様はきっと無事にお帰りになられますよ』

 神殿にひざまずく彼女にばあやが声をかけてくれる。彼女も心配なはずだが、それ以上に心配性の自分を励ましてくれているのだ。

『マルト、私はもう成人したのだからその呼び方はやめて』

 いつまでも子ども扱いするばあやに彼女は頬をふくらます。こうして会話していれば少しでも不安を和らげることができた。

『そんな表情をなさる間はまだまだ子供ですよ』

 マルトはそう言って笑いながら彼女が立ち上がるのを手助けしてくれる。

『もう……』

 自立する為に養父母の元から離れたのだが、こうしてばあやのマルトだけでなく、じいやのバトスまで細々と彼女に世話を焼いてくれる。目が不自由というだけで、1人で外出もさせてくれないのだ。肩に大人しくとまっている小竜がいれば、日常生活に不自由はしないというのに……。

『さあさ、旦那様が心配なさっています。そろそろ戻りましょう』

 不満はあるものの、マルトに手を引かれて大人しく従う。

神殿の外に出ると、雲の隙間から聖なる頂が見える。途中には垂直の崖を登らなければならない場所もあり、天候も変わりやすいとも聞く。頂上へ到達するのにどのくらいかかるのだろうか……。

『フレア様?』

 動かなくなった彼女を心配してばあやがまた声をかけてくる。

『ごめんなさい、帰りましょう』

 彼女は我に返るとあわてて歩き始める。マルトは彼女の心中を察し、それ以上は何も言わずに手を取り歩調を合わせて家に向かった。

 それから一月後、予定よりずいぶんと遅れて彼は帰ってきた。途中で遭難しかけたと笑いながら言うが、彼は体中擦り傷だらけでしかも右腕を骨折していた。だが、不思議とあの一件以来付きまとっていた暗い影が和らぎ、本来の彼の屈託ない性格が戻ってきているようであった。

『心配かけてごめん。もう、大丈夫だから』

 彼は明るくそう言うと、聖なる頂に収められていた石を見せてくれる。それは水晶の様に透明で美しい結晶だった。これを礎の里に収めれば、彼は竜騎士としての名誉を失わずに済むのだ。

『気に入ったのならあげようか?』

 石に見とれていると弟はあっさりそう言うが、もらうわけにはいかない。

『苦労して手に入れたのに私がもらう訳にはいかないでしょう? 早く怪我を治して、礎の里へ報告に行ってきなさい』

『はいはい』

『はい、は一つでしょ?』

 弟が大命を果たした安ど感から、怒ったふりをしていてもつい笑ってしまう。この時はこれで全てが元に戻ると信じていた。

 しかし……報告に礎の里へ行った彼は賢者たちへの目通りがかなわず、竜騎士に復位することが認められなかった。養父は再三にわたり抗議したが、それも聞き入れてはもらえなかった。

 それでも弟は何かを悟ったかのように、このままでいいと養父の怒りを逆に鎮めていた。彼女が長年抱いていた、故郷の村に帰って生活する夢はかなったものの、何か釈然としないものが残った。




「奥方様、奥方様」

 オリガに揺り起こされてフロリエは目を覚ました。

「私……」

「随分とうなされておいででした。お加減が優れませんか?」

「大丈夫。お水を一杯頂けますか?」

 ひどく心配している様子のオリガを安心させるために、彼女は体を起こしてほほ笑んだ。

「すぐにお持ちします」

 オリガがそう言って側を離れると、フロリエは傍らで眠る娘の様子をうかがう。幸いルルーは彼女が起きてすぐに寄ってきたので、意識を集中させて辺りを見ることもできた。

「コリン……」

 小さな姫君は眠っている。熱は相変わらず高く、彼女が一息眠る前と比べても状況は大して変わっていない様子であった。

 フロリエ自身もつわりがひどく、食べ物がのどを通らない状況である。かろうじて果物は口にできるが、このままでは彼女自身も遅かれ早かれ倒れてしまうだろう。目的の村まであと2つは山を越えなければならないが、今のティムとオリガには病人を抱えて行く事はおそらく無理であろう。早く手を打たなければならなかった。

「ルルー、お願いがあるの」

 フロリエは腕の中にいる小竜を抱き上げると、向き合うように自分の顔のそばに寄せる。そして、先ほどの夢に出てきた黒髪の若者の姿を思い浮かべる。

「……この人を呼んできてほしいの」

 一度も行ったことがない場所へ小竜を行かせるなんて無理な頼みかもしれない。それでもわずかな可能性があるなら賭けてみるしかなかった。だが、小竜は不思議そうに首をかしげているだけである。

「奥方様、お待たせしました」

 オリガが水を用意して戻ってきた。フロリエはルルーを降ろすと礼を言って彼女から水が入った器を受け取った。

「……おいしい」

「さっき、ティムが汲んできてくれたばかりです」

 道理で冷たいはずであった。まめに動く彼は、今は薪を集めに行ってくれているらしい。申し訳ないと思いながらも、今の自分はその好意無しでは生きていくことが出来ない。村に着くことが出来たら、その恩に少しでも報いたいと彼女は切に思った。

 オリガは食事の支度をすると言って側を離れ、フロリエは日が傾くまでそのまま楽な姿勢で娘を気にかけながら過ごした。2度ほど水分補給の為に水を飲ませたが、あまり受け付けない。このままでは本当に回復が見込めない。

 簡単な食事が済んだ頃には辺りはすっかり暗くなっていた。ティムが薪探しの途中に見つけてくれた蔓グミの実でフロリエも食事を済ませ、後片付けをする姉弟の姿をぼんやりと眺めていた。

 今は洞窟の外にティムが用意してくれた椅子に座り、所在無げに膝の上にいるルルーの頭をなでている。ふと見上げると、木々の間から月が出ていた。まだか細い三日月の光は彼女の不安をそのまま表しているようであった。

「エド……」

 夫の事を考えると、胸が締め付けられる思いがする。可能性は低いが、どうか無事でいてほしかった。彼女はその場に跪き、ダナシアへ祈りの言葉を捧げる。

「奥方様、お体に障ります。お休みになってくださいませ。」

 祈りの言葉が終ると、オルガが心配して声をかけてくる。今の自分にできることはない。フロリエは彼女の手を取って立ち上がり、勧めに従って体を休めることにした。


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