第19話「暖かな場所」
水の爆ぜる音が響くと直ぐに音が遮断され、何も聞こえなくなる。視界の焦点がずれ、景色が大きくぼやける。二、三度瞬きすると、ずれた焦点が補正され、景色がクリアになる。
外の空気から隔絶され、息苦しさを覚える。ゴボっと音を立て、口から吐き出された空気が気泡となって、水面へと昇って行く。
水面を隔て、水中へと身を浸すと、外の世界から隔離された気がして、少しだけ心が落ち着く。
一度口を大きく開き、水を体内へと取り込む。肺の中が水で満たされると、そこから空気が取り込まれる様になり、先ほどまであった息苦しさがなくなっていく。そして、アルミメイアの身体は水の中に埋没し、外界から隔離される。
波打ち揺れる水の流れに身を任せ、アルミメイアは目を閉じ夢想する。
『人と人、同じ人間でさえ、共に暮らすという事が難しくあるのに、人でないもの達と、言葉すら交わせないもの達と、それも人を食らう獣と共存できると、人はすんなり受け入れられるでしょうか?』
物事を整理するように思考を巡らせると、直ぐにその言葉にぶち当たる。
人と竜、この二つの間で、すべてがすんなり分かりあえるとは思ってはいなかった。けれど、その認識は、大きく甘いものだと突き付けられた気がした。
アーネストと過ごしていて、自分の感覚と、人の感覚、その違いを実感されられた事は多々あった、けれど、大きく相手に恐怖を抱いた事は無かった。だからだろう、人と竜の物事に対し、どこか楽観視していた気がする。
『竜は、恐怖に対し酷く鈍感だ』
昔、教えられた母様の言葉が思い出される。その言葉を聞いた時、言葉の意味を理解できなかった。けど、今、その言葉の意味を理解した。
竜に対し、天敵と呼べるものは存在しない。竜を死に至らしめるものは、基本的に老衰だけだ。それ以外、外敵などに殺される事は無い。それ故に、外敵に対し恐怖を抱くことは無く、多くの物事に対し恐怖を抱くことは極端に少ない。
故に、人が他者へ、竜へ、物事へ感じる恐怖がどれ程敏感であるか、理解できていなかった。
簡単に自身を食い殺すかもしれない存在と、何もなしに接し、共に過ごす事は出来るだろうか?
この問いに対し、アルミメイアは答えを返す事ができない。自身を食い殺すかもしれない存在、それが想像できないからだ。けれど、人はそれに大きく怯える。そうであるのに、ただ自分の理想だけで、共存を押し付けても、うまくいかないという事だけは、なんとなく想像できた。
なら、どうすればいいのだろう? 回答が見えてこない。
認識の違いが、これほど大きなものだと改めて実感されられた。
答えのでない問いが、頭を埋め、もやもやとした感情が沸き起こる。それを吐き出すように、アルミメイアは大きく吠えた。
音が水の中に大きく広がり、反響し、そして静かになる。それにより、少しだけ落ち着く。
バシャリと音を立て、アルミメイアは水中から顔を出す。水中から顔を出したアルミメイアを、フィーヤが呆れた様な表情で見ていた。
「身体全体を湯に浸すのは、あまり良いものでは有りませんよ。危険でもありますから」
フィーヤが軽く窘める。アルミメイアはそれに、少しむくれた様な表情を返す。
「あの話は、あまり良い気分になれるものではありませんでしたね。すみません」
「でも、事実なんだろ。なら、聞かなかった、知らなかった、でいるわけにはいかない。結局どこかで知らなきゃいけない、それが今だっただけだ」
フィーヤの謝罪に、アルミメイアはぶっきら棒に答えを返す。フィーヤはそれに小さく笑う。
「けど、あなたにも聞かせる必要はなかったかと思いまして」
「私も知りたいと思ってたことだ。結局変わらない」
「そうでしたか」
アルミメイアの答えに、フィーヤはほっとした様に息を付く。
「さ、そのような所に居ないでこっちへいらっしゃい」
話が終わったとみると、フィーヤはアルミメイアに、そばへ来るように促す。アルミメイアはそれに、軽くため息を付いて、湯から出てフィーヤの傍へ歩み寄った。
アルミメイアとフィーヤ、それからレリアは王宮の奥にある、王族専用の浴場に来ていた。昼間から行事続きで、今で寝る前にこうして汗を流しているところだった。
広々とした浴場には今のところ、アルミメイアにフィーヤ、それからレリアの三人だけしか居ない。
本来は、アルミメイアとレリアの二人はフィーヤに仕える身分であるため、共に入浴などをすることは無いはずなのだが、フィーヤの我儘で共に入る事に成っていた。
そして、どう言う訳かフィーヤはアルミメイアにあれこれと世話を焼き、頭を洗い、背中を流したりしてきていた。最初はレリアが止めに入っていたが、言う事を聞いてくれず、今はもう黙ったままそれを見守るだけとなっていた。
今もアルミメイアの頭に泡を立てさせ、丁寧に洗っていた。
「相変わらず、綺麗な髪ですね。羨ましい」
アルミメイアの綺麗な髪を丁寧に流しながら、フィーヤがそう感想を漏らす。
「肌も綺麗」
アルミメイアの肌を軽く撫でながら呟く。
「なあ、そうやって撫でるの、やめてくれないか? くすぐったい」
撫でられたアルミメイアはくすぐったそうに悶える。
「あら、すみません。あまりに綺麗だったもので、つい」
「ついって……お前の肌や、髪だって綺麗じゃないか、やるなら自分のにしてくれ」
「そうですね。けれど、他人のだからでしょうか? とても綺麗で、素敵に見えます」
アルミメイアの返しにフィーヤはクスリと笑う。
「そういうものか?」
「そういうものです。大切に育てられたのですね。そう言えば、あなたのお父様は何をしていらっしゃるのですか?」
フィーヤが尋ねてくる。
こうしてアルミメイアとフィーヤが、共に入浴することは何度かあった、その度にフィーヤはあれこれとアルミメイアに付いて尋ねてくる。どうでも良い事、関係ない事、そして家族の事。
「父様、か……そう言えば会ったことないな。だから、詳しくは知らない」
「それは……ごめんなさい」
アルミメイアの答えに、フィーヤは声のトーンを落とし、謝罪を返してくる。
「なんで、謝るんだよ」
「何か複雑な家庭事情があるのかと思いまして……」
「ああ、それでか。大したことないよ。別にそれで、苦労したとか、そういった事は無い。母様は優しかったし、不自由なんか感じてない」
「そうでしたか……良いお母様だったのですね」
「うん、母様は優しかった。私の我儘を聞いてくれて、遊び相手になってくれて、見守ってくれて、知らない事を教えてくれた。私にとっての全てだったかもしれない」
「そうでしたか、なら、なぜ家を出たのですか?」
「それは……見てみたいものがあったんだ。母様が時折語ってくれた物語に景色、それを自分の目で見てみたかった。だから、家を出た。
一応、言いっておくぞ。私はちゃんと、母様に断りを入れて出て来た。家出とかそう言うのではないぞ」
アルミメイアの答えに、フィーヤはクスクスと笑う。
「知らない土地で一人、辛くはなかったですか?」
「最初は色々あったけど、アーネストが手助けしてくれたから、どうにかなった。だから、あいつには感謝してる」
「楽しそうですね」
「どうだろうな。いろいろあって、あまり実感がない。けど、そう見えるのなら、そうなんだろうな」
「羨ましい……」
唐突にフィーヤは手を止め、そして、アルミメイアの背後から覆いかぶさるようにして、抱き着いて来た。
「な、何するんだよ」
唐突に抱き着いて来たフィーヤに、驚き、戸惑う。
「あなたの笑顔を可愛らしかったもので、つい」
抱き着いた姿勢をそのままに、フィーヤが答える。
「ついって……お前」
フィーヤの答えにアルミメイアは呆れた様に答えを返す。フィーヤはそれに、また、クスクスと笑う。
「ねえ、アルミメイア」
目を閉じ、アルミメイアの体温に浸るようにしながら、フィーヤが名前を呼んでくる。
「なんだよ」
「あなたに、お願いがあります」
「お願い?」
「そう、お願いです。とっても簡単なお願いで、とても難しいお願いです」
「だから、なんだよ」
「私と、お友達になってください」
「は?」
「お友達に……なって、くれませんか?」
フィーヤはそう言うと、目を開け少し縋る様な視線を向けてくる。それにアルミメイアは少し困ったような表情を向ける。
「ダメ、ですか?」
「ダメとか、なるとかじゃなくてさ、友達ってそんな風にお願いしてなるものなのか? 私は友達と呼べるような人は少ないから、良く判らないけど、けど、そういうものじゃないと思う」
アルミメイアの答えにフィーヤは、寂しそうな表情を浮かべ、目を伏せる。
「そう……ですよね……」
「だからさ、私はお前の事、友達と呼べるのかなって、ちょっと思ってたけど、それは私だけなのかなって、少し傷ついたぞ」
少し茶化す様にしてアルミメイアは返事を返す。それに、フィーヤは一度驚き、小さく笑う。
「おかしな質問をしてしまいましたね」
「全くだ」
フィーヤは笑う。アルミメイアに体重を預けたまま、嬉しそうに笑っていた。抱き着かれ、少し煩わしく思えたが、フィーヤの表情を見てしまうと、振り払う気にはなれず、されるが儘となる。
ただ言葉を交わし、笑いあう。正体を知らなければこんなにも簡単なのに、ただ相手の存在に恐怖を抱くだけで、途端に難しくなる。その事がひどくもどかしく思えた。
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