40話:野望
「出世に興味がないタイプでも、出世欲がそそられる仕組みになってるんですよ。そこでハマってしまうと、もう麻薬だと思います」
スヴェンソンはその麻薬にはまってしまっているのだと国崎は嘆いた。こうまで言うということは、出世コースに乗っているはずの国崎は沼にハマっていないのだろう。一体、どこで差がつくのか。本田は何か切ない気持ちになった。
「スヴェンソンに対してですが、さらなる出世のチャンスが潰れたのは確かでも、特に処罰が与えられるわけではありません。それは私も同じようなものです」
国崎は一時的にとはいえスヴェンソンの手先だった。スヴェンソンに処罰が与えられるとなると、情状酌量が与えられても国崎の左遷は免れないだろう。そう考えたら、スヴェンソンに罰が与えられなくてもいいと思えた。
「今回の事件は、私が報告した日本支社の上層部、そして世界の支社のほんの一部の上層部、そして頂いたウィルスの対策チームのみが知っていることとなっています。なお、今回の経費の捻出のために、本田さんたちは『外部委託』扱いとなっておりまして、表にお名前を出せないことをご了承ください」
「大丈夫ですよ。もちろん、外部にも情報を漏らしたりしませんし」
「お察しいただき、ありがとうございます」
国崎と本田は互いに微笑みあった。こちらとしては、表に名前を出される方がまずい。ちらりと噂が流れるだけでも、就活の始まっている溝口や本田には影響が出てしまいかねない。世間に存在しない事件を片付けた救世主は、存在してはいけないのである。
「まあ、ここまでやって第3次ネットショックとか泣けますよ」
「私もそれは不安になるところですが、さすがに、第3次ネットショックについては、考えなくて良いかと思われます。うちのチームは優秀ですよ」
「ですよねぇ」
第1次ネットショックが解決した時には、そのネットショックにまさか第1次という接頭辞がつくとは思っていなかった。いや、世間では今もついていない。だから、この第2次ネットショックが終わったところで、第3次の発生を心配してしまう。
「だいたい、第2次が起こるということ自体、本来ありえないと言っても過言ではないことです」
本田の肩の荷が下りた。
「21世紀のエニグマを作ったのが、本田さんでよかったです。本田さんじゃなかったら、第2次ネットショックは止められませんでした」
国崎がコーヒーカップで口元を隠しながら呟いた。
「そうですかね」
本田は目をそらす。
「僕のソフトのせいでネットショックが起こり、僕のソフトがネットショックを救った。そう考えると、僕のソフトは功だったのか罪だったのか。どっちなんでしょう」
「本田さんがそういう考えだとは意外です」
真顔で国崎は答える。
「暗号はただの手段です。誰がどのように使うか、でしょう。Hudsonが使ったらネットを破壊し、本田さんが使ったらネットを救い、私が使ったら……SOSになりました。
第二次世界大戦のエニグマだってそうです。エニグマを開発したナチスドイツは負けましたが、エニグマが脆弱なわけではありません。エニグマを解読したアラン=チューリングは、英雄どころか不遇の死を遂げています。使いこなす人がすべてなんですよ、暗号は」
随分長くしゃべった国崎は、ほうっと大きく息をついた。
「ネットショックの件で本田さんと私がお会いするのは、今回が最後になると思います」
「名残惜しいですね」
社交辞令のようにあっさり言うが、実際のところは本音である。男子校の中高を卒業し、男子ばかりの学部学科に入学、そして部活は男子が大多数。おまけにシェアハウスも男ばかりとなると、国崎のような女性とことばを交わす機会などない。でかい声では言えないが、本田にとっては国崎はオアシスだった。
「また、私も本田さんから担当は外れます。ですが本田さんは弊社にとってVIPであることに変わりはないので、ご連絡がありましたらすぐに社員が向かいます」
「いや、VIPだなんて、そんな……」
「ご謙遜なさらずに。本田さんは、ネットショックを解決させ、阻止したお方ですから。特に、第2次ネットショックではADLERからあまり支援できなかったにもかかわらず、報酬が少なくて申し訳ありません」
国崎は慇懃に頭をさげる。千弘なんてスリルを求めて俺の計画に乗ってきたんですよとは言えない。
「本田さんは弊社の株主でおられますが、株主総会にはいらっしゃらないのですか」
「僕は自腹を切って株を買ったわけではないので、行かないと思います」
「それは残念です」
「あ、でも、ADLERが不祥事を起こしたら出席するかもしれません」
本田は自分の冗談にくすりと笑う。しかし、国崎の方が一枚上手だった。
「では、何か不祥事が起こりましたら、アメリカまでご足労ください」
「え、アメリカ?」
「はい。弊社は外資ですから、株主総会はアメリカで行われます」
そうだった。各国支社にそれぞれの株があるわけではなく、「株式会社ADLER」の株しかない。それはわかっていたはずだった。負けたと思った。
「それでは、株主総会に出席できる社員になれますよう尽力しますとともに、株主総会で本田さんとお会いする機会がないことを祈っております」
国崎は全く笑わない。やはり表情筋がやつれてしまっている女だ。国崎が私服で街中を歩いていたとしたら、すれ違うだけで病気を心配されるだろう。
私服といえば。
「そういえば、ADLERって私服じゃないんですか?」
「私服ですよ」
スーツの国崎がさらりと言ってのける。格好と言論が明らかに矛盾だ。指摘すると、国崎は無表情でスーツのジャケットの裾をつまみ、スカートのように広げた。
「外部の方と会う時にはスーツが多いんですよ。私服文化なのはADLERの社内だけで、日本ではあまり馴染みではない文化ですし」
「確かにそうですねぇ」
「私服のほうがよかったですか?」
本田が少し寂しそうにしたのを、国崎は見逃さなかった。珍しく国崎の側から冗談を仕掛けてみた。本田は大げさに見えるほど驚いている。
「え? いや、まあ……。いっぺんくらいは見たかったですね」
本田は恥ずかしそうにながらも認めた。
「では、またお会いする機会があればその時は私服でまいります」
「株主総会では私服なんですか?」
「スーツですよ。外部の方がいらっしゃいますから」
「となると、私服の黒崎さんと会う機会というのは……」
「第3次ネットショックが起こるか、なにかトラブルが起こった時でしょうか」
縁起でもない。本田は私服を着せ替えする国崎の姿を頭の中から消した。
「あるいは、プライベートでお会いするか……」
「え?」
「それではまた、平和な状況でお会いできることを祈っております」
国崎は早口にそう言って、ほとんど口をつけていなかったエスプレッソを飲み干し、伝票を手にして立ち上がる。本田は国崎の素早さについていけず、慌てて立ち上がった。
「ま、またお会いしましょう」
手早く会計を済ませてしまった国崎は、本田が礼を言うのもそこそこに足早にカフェを去った。なぜ最後にそういってすぐ帰ってしまったのか、あるいは、また会える可能性は低いのに、なぜ挨拶がそれだったのか。それは本田にとって推理のしようがないことだった。
本田はキツネにつままれたような顔でテーブルに戻る。自分のカップにもかなり残っていたコーヒーをちびちび飲みながら、国崎の後ろ姿を思い出していた。
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