Epilogue

39話:酒宴

 帰国して1週間もしないうちに国崎から電話があった。今回の旅費について説明したいので会いたいとのことだった。帰国して初めて会うことになる。今回は、日本ADLERのオフィスではなく、かなり国崎にご足労願うことになったが、彼女は苦もなく駆けつけてくれた。タッチの差で、待ち合わせ場所であるカフェに先にたどり着いた本田は、国崎の好きなエスプレッソを注文しておいた。

 複雑な道に手間取った国崎は、自分の座るべき席に既にコーヒーが置いてあるのを見て焦ったが、コーヒーに湯気がたっているのを見て、ホッとしたように座った。


「お久しぶりです。と言いましても、向こうで会っていますけど」

「そういえばそうですね」


「今回の旅費についてですが、本田さんから領収書を頂きましたので、その分をお振込させていただきました」

「昨日のメールにあった分ですよね? 確認しました。ありがとうございました」

 本田は、国崎から振込証書を受け取る。国崎の爪に、きちんと手入れがなされていることに気がついた。抜け目のなさに本田は舌を巻く。


「結局、あまりお飲みにならなかったんですね」

「お酒ですか?」

「はい。勝手ながら、私もホテルの領収書を見たんです。あんなお電話をいただきましたので、どんな請求が来るかと思ったら。拍子抜けです」

 国崎がくすりと笑う。本田は恥ずかしそうに頭をかいた。

「僕らって、いいお酒にも馬鹿騒ぎしない飲み会にも慣れてないんですよ。それを忘れてたので、すぐに酔っちゃって部屋に帰りました」


 海外のホテル、それも本田たちが泊まったような格の高いホテルで夜中に酒を飲もうと思ったら、バーに行くしかない。男4人が洒落たバーに行き、下手な話題をしてスヴェンソンの耳に入ったらと考えると話題らしい話題もなく、世間話をしながら、しおらしく酒を飲むしかなかったのは、全くの想定外だった。

 結局4人は数杯でバーを出て、ホテルのフロントで夜9時前でも開いているスーパーを聞き出し、そこに駆け込んで安い酒と菓子を買い、防音に長けた広い部屋で酒盛りをするほかなかった。


「そうだったんですね。私も大学生の頃は、バーみたいな場所には全く縁がなかったので、お気持ちお察しします」

 国崎は顛末を聞いて納得したと同時に、優しい言葉をかけてくる。内心爆笑しているのだろうなと本田は思う。


「あと、こちら。十分ではありませんが、弊社からのお礼の気持ちとして、後日皆さんに書留でお送りいたします」

 国崎が見せたのは、額面数十万円の小切手である。

「皆さんって……?」

「本田さん、溝口さん、鹿島さん、瀬上さんです。今回、協力していただいた方々に。シェアハウスということですし、住所が同一なので、書留で本人確認するとはいえ、お間違いのないよう」

 瀬上とは誰だ、と一瞬思ったが、千弘の苗字である。国崎は本田に小切手の注意点を説明して、また封筒の中にそれをしまった。


「すごいですね。僕が個人的にバイト代を払うべきか迷ってたんですよ」

 しかし、この計算なら、溝口があんなに羨んでいた鹿島の時給4500円のバイトをしのぐ時給になる。寝ても5000円の時給になるだなんて、きっと大喜びするだろう。

「それならよかったです。弊社としても、成功報酬的位置付けなので事前に言い出せず申し訳ありませんでした」

 国崎は謝るが、本田としてはありがたい限りだ。


「私の元上司からは、あのあと何かありました?」

「ちょっとしたミスで、最後にばれちゃったんですよ。僕達が偽物だと。すぐに大量のメールが来ました。もちろん、連絡なんか取れませんけどね。それより、国崎さんの方が大変だったでしょう。林宇航リンユーハンと連絡が取れないとなると、残る伝手は国崎さんしかいないでしょ。リンをスヴェンソンに紹介したのは国崎さんですから」

「そうですね……。本田さんのご想像通りでした。日本支社で多忙だというのと、知らぬ存ぜぬを貫き通せば、今では接触も減りました。まあ、私は日本支社にずっと残るつもりですし、かわすのは難しくありません」


 表情の乏しい国崎は涼しい顔をしているが、リンの方のメールアドレスに来たメールの量を考えると、相当大変だったに違いない。

「あのおじさん、暇なんですかね」

「あのレベルまで出世したら、メールを大量に送る時間など有り余ってます」

 国崎は少し悔しそうにそう言って、カップに少し残るコーヒーを飲み干した。


「……スヴェンソンは、どうしてあんなに出世欲があったんですかね」

 本田はコーヒーのおかわりを注文した。国崎もそれに合わせておかわりを求めた。店員がコーヒーを注ぎにきて、去っていくのを見届けてから国崎は答える。

「なりたいものがあるからですよ」

「スヴェンソンの場合は、CEOだった、と」

 国崎は頷いた。


「本田さんの大学では、教授に野心溢れる方っていらっしゃいますか?」

 急に話題が変わったように思えて、本田は不思議に思った。本田は教授を何人か思い出して気づいた。

「スヴェンソンは、ある意味で学者肌なんですね」


 本田の大学にもいる。学者肌なのは確かで、普段は研究に熱心に打ち込むものの、出世争いにも抜け目のないようなタイプの教授が。

「ええ。元は学者志望で、大学で研究をしていたもののADLER創立後しばらくして引き抜かれたと聞いています」

「研究をしていると気付くんでしょうね。昇進すればするほど、研究費は多くもらえる。その金で結果を出せば、もっと昇進できる。出世するほど、自分の理想に近い研究ができる。潤沢な予算で好きな研究をする、学者としてこの上ない喜びですよ。出世するほど有利な仕組みなんですね。マルコフニコフ則みたいに」

 本田の最後の言葉は、国崎にはよくわからなかったが、それ以前は、まさにその通りである。国崎は大きく頷いた。

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