3話:宴会
「ゲロは回避してください。あと、あのパソコンに酒をかけないでね。それでは、大いに飲みましょう」
乾杯の前に軽く一言、本田が挨拶をする。本田が指差した先には、まさにローテーブルに山積みという表現がふさわしい大量の機械があった。
「何あれ」
「俺のパソコン」
溝口はあっけにとられている。部屋の1割ほどを占める小さなローテーブルに所狭しと並んだ機械類、溝口は詳しくはないが、あれは恐らく全てがパソコン関連の機器だ。
「あれで何してるの?」
「趣味的な感じ」
「へぇ」
「本ちゃんはプログラムとかそういうのが好きなんだって」
「なんかC言語とかやるんでしょ?」
「いつの時代だよって言いたいけど、間違っちゃいないよ」
「本ちゃんは将来プログラマー?」
「ならねーよ」
本田は苦笑した。聞けば、本田が大学で学んでいるのは、プログラムなどとは別次元の世界らしい。
「俺は理学部だもん。むしろ、鹿島の方が近いんじゃない? 工学部だし」
「俺は化学系だよ」
鹿島は発泡酒の缶を気怠そうに潰す。
「プログラミングはあくまで趣味だからね。千弘だって車が趣味なのに自動車会社に就職したりしないだろ」
「考えたことはないな」
「それより千弘の場合は、せっかく車を持ってるのに、まるで乗らない方が気になるけどね」
「運転はちょっと苦手なんだ」
千弘は恥ずかしそうに照れた。
「え、千弘って車持ってるの?」
「うん。下にあるでしょ」
「あれ千弘のなんだ……」
車と言っても、大学生の定番である軽や中古車ではなく、かなり新しいものだ。大家夫妻の車かと思っていた。聞けば、大家夫妻の車は別にあるらしい。
「入学祝いに、父親に買ってもらったんだよ」
溝口の入学祝いなど、この歳になって鉛筆である。こんな話を聞くと、溝口だって親にねだってもいいのではないかとすら思う。
「でも乗らないんだよねぇ……」
「だいたい自転車で用事済んじゃうからね……。クロスバイク見なかった? あれ僕のなんだ」
そういえば、10万円位しそうな自転車を見た覚えがある。
「リ、リッチだねぇ」
「そうかな。クロスバイクとかロードバイクって、結構見ない?」
見ない。溝口の周りには、後ろに子供乗せのついたママチャリを乗りこなす猛者すらいるというのに。そんなものは贅沢品だ。
確かに千弘の服は、材質を見るにいい値段がつきそうなものだった。染めているらしい焦茶色の髪も、きちんと根元から染まっている。こまめに維持をしているのだろう。その割に、住んでいるのはシェアハウスではあるが。
「家賃浮かせたいんだよね。家でカラオケするわけじゃないんだから、多少うるさくても別に気にしないし」
「大変なんだね」
「女の子ってお金がかかるでしょ」
聞けば、千弘には大層美人の彼女がいるのだという。確かに、どちらかというと美形な顔と上品な雰囲気、派手なグループにも馴染めそうな社交性があれば、彼女など掃いて捨てるほどできるだろう。
「でもここじゃ彼女連れ込めないんじゃないの?」
「まあね。でも彼女も下宿だから、会う時はあっちの下宿いけばいいもん」
「なるほどね……」
策士である。いや、この場合抜け目がないというのが正しいのだろうか。
「千弘ってさ、月に20万も貰っておいて、家賃もここまで削って何に貢いでんの?」
「貢いでないよ」
千弘は頬を膨らませる。別に可愛くない。
「それなりにサークルに顔を出して、それなりに趣味に使って、それなりに彼女とお茶してたら、そんなもんだよ」
「お茶する、って言い方がもうダメ」
本田のため息に溝口は大きく同意しておいた。
「しかも、単に家賃を削るだけじゃないからな。こいつ、親が契約した家賃8万のマンションを勝手に解約してここに勝手に住んでるんだぞ」
「そんなのできるの……?」
「まぁね。うちの親、息子が何をやってるかなんて興味ないし」
千弘は、酒で赤いながらも澄ました顔で答える。
「じゃあ親が千弘の家に行きたいって言ったらどうするの」
「友達と遊ぶとか、ありもしない試験を入れるとか」
ここでも普段と変わらない人のいい笑顔を浮かべられる千弘を見ると、つい親の方に同情したくなる。
千弘の口が達者そうなのは認めるが、知らぬ間に解約されてしまった哀れなマンションに、全く親を寄せ付けないというのはすごい。
「そこまでするか普通? 削るべきところは家賃じゃなかっただろ」
鼻で笑う鹿島に、千弘は眉をひそめて噛みついた。
「じゃあ、俊一郎はどれくらいもらってるの? これで僕よりもらってたら、さっきの発言、取り消してもらうからね」
随分な質問である。そもそも歓迎会の話題ではない。この2人、発泡酒2缶程度で完全に出来上がっているようだ。特に鹿島は、普段の白いというより青白い顔はどこへやら、化粧でもしているかという赤さだ。
「俺は学費だけ」
それもまたすごい話だ。このシェアハウスは極端なのしか住んでいないのか。本田の言っていたクレイジーな奴らというのはこいつらかと思って、本田を探すが、本人はなぜか姿を消している。こいつらの相手をしなければいけないのかと思うとげんなりしてきた。
「じゃあ鹿島は生活費とか諸々稼いでんの?」
「奨学金と、あとは割の良いバイト」
「割のいいバイト?」
「家庭教師だよ」
「俊一郎ってバイトしてるんだ。コミュ障のくせに」
溝口は一瞬ひやりとしたが、鹿島は怒るどころか、無表情にかすかに笑顔すら浮かべて呆れたように首を振る。知り合って間もない関係ではないらしい。
「割が良いって、どれくらい?」
「
溝口は目をむいた。自分の四倍だ。いや、飲食と家庭教師を比べてはならないが、それでもすごい。家庭教師の中でもかなり破格の待遇とはいえ、溝口も家庭教師を始めたくなってきた。
「そんなにくれるの?」
「俺は個人契約だから」
大学を卒業して引っ越す先輩の後釜に運よく入り込んだのだという。個人契約は運と信用が全て。コミュ障でも、金のガチョウとなりうる友人がいたということか。
「トータルで考えたら、専門の塾に頼むよりは安いんだよ」
千弘が溝口の空いた缶を潰しながら教えてくれる。リッチな個別塾などでは、1時間あたり7000円弱払うような塾も少なくないらしい。幼稚園から大学まで国公立で固め、浪人時代も至極一般的な予備校に通っていた溝口にはまるで縁のない世界だ。
「家庭教師は最高だよ。ヒロもやってみたら?」
酒の切れた千弘に、新しい酒を渡しながら、溝口は頷いた。
「まあ、休むのが大変ってのは辛いところだけどね。試験前だと特に。でも、安いところでも飲食の倍はもらえるって考えたら、やめられないよ」
千弘の入っている家庭教師センターについて聞き出していたら、急に千弘のろれつが回らなくなった。急に酒を飲ませすぎたせいだと気づいた時には遅い。
つい、サークルの飲み会のノリで鹿島と千弘に酒を飲ませていた。弱いらしい鹿島はとっくの昔に潰れている。本田は本田で、便所から帰ってこない。やりすぎたかと思うと、溝口にも酒の波が来る。引っ越し初日の疲れを忘れていた。
結局、後半は何をしていたのか何を飲んでいたのかもわからないままに本田の部屋に潰れ落ちた面々は、普段本田がかけているアラームに起こされるまでぐっすりと寝ていた。
翌朝、出席を取る科目に遅刻しかけ、朝にシャワーをちらりと浴びただけで、髪も洗わず歯も磨かず朝食も抜きで大学に駆け込むことになったのは、この歓迎会のせいである。
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