2話:招宴

 引越し自体は1週間程度で済んだ。ガスや水道の契約は、大家によると入居者で割り勘ということで、溝口が新たに契約する必要はなかった。実家ではあまり自分のものというものを持たなかったせいか、ダンボールのような大荷物はほとんどなかったし、家具の類も多くは共用だということだった。引越しやその他には金がかかったが、手間は思ったよりかからなかった。それでも引越して初日はすぐに過ぎ、随分な疲れを抱えて寝た。翌日が日曜でよかった。


「あのう、引っ越して来たんですけど」

 翌日、溝口は向かいの部屋の扉を叩いた。中から生活音がするので、住人がいるのは確実である。居留守だろうか、まあ居留守したくなる時もあるだろうと思って帰ろうたしたところで扉が急に開いた。

 扉を開けたのは、長身痩躯の無口そうな眼鏡の男だった。本田といいこの男といい眼鏡が多いが、それはこの大学にありがちなことで、かくいう溝口も目が悪い。


「あの、引っ越してきたんですけど。溝口宏明みぞぐちひろあきといいます」

「……鹿しまです」

 押し付けるように土産を渡すと、ぺこりと小さく男は礼をした。

 無口そう、という予想は裏切らず、彼は小声で礼を言ってそのまま扉を閉めた。世間話を用意していた溝口には拍子抜けだが、今時引越しの挨拶などこんなものか、シェアハウスなんだし、と心を落ち着かせる。


 部屋見学のときに話しかけてきた本田という男は溝口の部屋の隣なので、残る住民は鹿島の隣で、溝口の斜め前の部屋になる。だが、その住民は外出しているらしく、何度扉を叩いてもなんの反応もなかった。

 鹿島は物静かそうではあったが、クレイジーな感はない。残りの住人がクレイジーなんだろうか。気になると言えばなるが、そのうち会うことになるだろうと考え、溝口は気にも留めなかった。


 夜も遅くになり、実家ならば翌日の長距離通学に備えて寝る準備に入ろうかという頃、部屋の扉がノックされる音がした。灰皿を引き寄せる手が止まる。夜も遅いのに、と不快に思ったが、よく時計を見ると中学生でも布団に入らない時間ではあった。無視も悪いかと思い直して、とりあえず応対はする。


「はい」

「今って暇?」

 扉を開けた先にいたのは本田だった。初回に会った時の馴れ馴れしい印象もあり、それなりに背の高い男だと思っていた。だが、面と向かって立つと溝口より随分背が低い。160センチ台中盤というところか。


「まあ、暇っちゃ暇だけど……でも」

 夜も遅いし帰ってくれ、と遠回しに言ったつもりだったが、本田は受け入れようとしなかった。彼は溝口の腕をつかんで容赦なく廊下に出そうとしている。

「ちょっと待って、なにしてんだ」

 新手の誘拐か?


 混乱もあって、溝口は順調に引きずられていく。本田は、まあいいから等の寝言をほざき、自室に無理やり溝口を連れ込んだ。扉を掴むなりして抵抗したが、本田の腕力は運動サークルに入っている溝口を遥かに凌いでいた。扉を閉めると、本田は溝口の手をぱっと離した。思わず転びそうになるのをぐっとこらえる。

 誘拐されて何が起こるか、何が目的かと溝口は身構えたが、何もなかった。拍子抜けして、頭を抱えていた手を恐る恐る離すと、そこには2人の男が床に座っていた。片方は昼前に土産を渡した男で、もう片方は知らない男だった。


「溝口くんを呼んできた」

 呼んでいない。


 しかし、あくまで堂々と言った男に、床に座る2人が手を上げて盛り上がりを示す(昼前に会った無口そうな男の方は、無表情で両手を上げていたが)ので、溝口も怒りというよりは困惑が勝って、2人に合わせて軽く手を叩いた。


「えー、彼が溝口くんです」

「どうも、溝口宏明といいます」

 とりあえず自己紹介をしておく。サークルでやるような、場を盛り上げるための自己紹介は、素面の上に一般人の前でするには恥ずかしすぎるので封印したが、平凡極まりない自己紹介でも、床に座る2人は手を上げて盛り上がりを示してくれた。


「僕は法学部のがみひろです。千弘って呼んでください」

「基礎工学部の鹿しましゅん一郎いちろうです」

 2人が思い思いに自己紹介を返して、本田が溝口を床になだめるように座らせた。


「えー、今日の歓迎会の主催者の本田です」

 2人の拍手に合わせて溝口も拍手する。結構慣れてきた。

「か、歓迎会?」

「この家が全部埋まった記念だよ」

「……こんなの、いつもするの?」

「いや、こないだ鹿島が引っ越してきたとき、次の機会にはやりたいっていう話になっただけ」

 鹿島はここの新人らしい。昨年までは実家で、進級をきっかけに下宿を決めたという。溝口と似たような経歴だ。


 床に並んだ山のような缶チューハイと発泡酒と菓子を見るに、その実、ただの飲み会に近いものがあるが、歓迎されるのも悪い気はしない。昨年までは飲み会にあまり参加していないとはいえ、節目節目の飲み会には律儀に顔を出し、潰して潰れる溝口としては、一般人パンピーの飲み会ならお手の物だ。

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