シャツ脱ぎ

「じゃあ、お兄ちゃん。今からシャツ、脱いじゃおうか」


 そして妹はナイフの刃先を俺の胸の中心にそっと当てる。

 ほんの数ミリ、刃は俺の胸に食い込む。

 それから妹は、ナイフをゆっくりと俺の臍に向かって下げていく。

 ここからは、俺は目を開けられなかった。

 怖くて……

 余りにも怖くて……

 自分に訪れる死が、余りにも怖くて……

 だから俺は――


「頼むハヅキ……止めてくれ……」


 気が付けば俺は、泣きながらそう言っていた。


「俺が悪かった……本当に……悪かった……もう、お前を殺そうなんて、しない……」


 鼻の辺りが凄く湿った。

 鼻の穴から、鼻水が垂れてくる感覚があった。

 俺はズズズと大きな音を立てながら、鼻水をすする。

 そして続ける。


「だから……お願いだからハヅキ……もう、止めてくれ……」


 ――ヤダよ。お兄ちゃん。


 そんな声が聞こえてくる気がした。

 どんなに俺が懇願しても、謝罪しても、きっと妹は、許さない。

 そして俺はシャツを脱がされ、死ぬ――

 そう思った。

 そう思っても、仕方なかった。

 それだけの過ちを、俺はしでかしてしまったから。

 でも、


「反省した?」


 突然、妹はそう言った。

 と同時に、ナイフを握る手が止まった。

 俺は目を開ける。

 すると妹は、俺の目の前でニッコリと笑っている。

 ナイフは俺の臍より少し上の所で止まり、胸には赤い線が刻まれていた。

 そこから少しずつ、血が滲み出てきている。


「反省してるよ……」

 俺は鼻をすすりながら答える。「俺が……悪かったよ……ハヅキ……」

「ホントに反省してる?」

「ああ……もちろんだ」

「ふ~ん」


 妹は相変わらずニッコリと笑いながらも、疑いの視線を俺に向けている。

 その間にもじわじわと出血が進み、胸に刻まれた赤い線が徐々に太くなる。

 それから妹は数秒間、何かを考えた素振りを見せた末、ナイフを俺から離した。

 俺は安堵の溜息を大きく漏らす。


「……許して……くれるのか?」


 だが、俺の問いに対する妹の答えは、こうだった。


「どうだろうな~?」


 そして妹は、ナイフの刃先に付いた俺の血をペロリと舐めた。

「どうせお兄ちゃんのことだから、また同じことを繰り返すと思うんだよね~」


 安堵したのも束の間。

 肺が凍る思いがした。


「だからね、お兄ちゃん。お兄ちゃんには、死ぬよりも、もっと辛いおしおきが必要なんだよね。それにお兄ちゃんには、“他にやってもらいたいこと”があるから、まだ殺さないよ」

「死ぬよりも、もっと辛いおしおき……何だよ、それ?」


 だが俺の問いに答える前に、妹はベッドに横たわる“本物の妹”に向かった。

 そして妹は自らベッドに上り込み、寝ている“本物の妹”の上半身を起こした。

 “本物の妹”の首は力なく項垂れ、肩よりも長く伸びた髪はダラリと下がる。


「お、おい……何をするつもりだ?」

「殺すんだよ。“これ”を」


 妹は言った。

 確かに妹は、“本物の妹”を殺すと言った。

 その意思を明確に示すように、妹は“本物の妹”の首元にナイフを添える。


「止めろ!」


 俺は叫ぶ。

 すると妹は不思議そうな顔つきで俺を見つめた後、


「何で?」


 と聞いた。「だって“これ”、もう死んでるのと同じだよ?」

「死んでいない! “ハヅキ”は、生きている!」

「死んでるのと同じだよ。だってお兄ちゃん、“これ”はもう目を覚まさないもん。魂は、もう“これ”には無いよ」

「ある! “ハヅキ”はいつか、きっと目を覚ます!」


 それを聞いた妹は、心底呆れたという具合に、大きな溜息を吐いた。

 そして妹は自分の頭を指さし、


「ねえ、お兄ちゃん。私は、ちゃんとここにいるよ」


 と言った。「前にも言ったでしょ? 私は次元を超えてここにいるの。つまり、次元を超えてまで、お兄ちゃんに会いに来ているんだよ」

「ワケのわからないことを言うのは止めろ! 何を言おうが、お前は、偽物だ!」


 また妹は溜息。

 妹の視線が、今度は失望の眼差しに変わった。


「ねえ、お兄ちゃん。何で“こんなもの”にこだわるの? “これ”はもう、ただの空っぽの入れ物だよ」

「空っぽじゃねーよ!」

「空っぽだよ。それも、醜い空っぽ」


 それからだった。

 妹は“本物の妹”が着ているパジャマのシャツのボタンを外し始める。

 そして全てのボタンを外し終わった後、妹はそれを脱がす。

 やがて上半身裸になった“本物の妹”が俺の目の前に現れ、妹は“それ”を俺に見せつける。

 すっかり痩せこけて、皮から浮かび上がったあばら骨が目に入ったところで、俺は“それ”から目を逸らしてしまう。


「目を逸らしちゃダメだよ、お兄ちゃん。ちゃんと見て」

「止めろ! ハヅキ!」

「ちゃんと見てよ!」


 妹が叫んだ。

 初めて聞く、妹の叫び声。

 驚いた俺は、思わず妹に目を向ける。


「いい? お兄ちゃん」


 妹はそう言って、ナイフを“本物の妹”に突きつけたまま、ナイフを持っていないもう片方の手で、“本物の妹”の乳房を掴んだ。

 妹は続ける。


「“これ”には何もない。お兄ちゃんがいくら愛情を注いでも、何も応えてくれないんだよ。だから空っぽの器。しかもこの器は、徐々に朽ち果てている。放置すれば痩せる一方だし、胸だって、ほら、こんなにしぼんじゃってる。“こんなもの”に、なんの価値があるの?」


 それから妹は“本物の妹”の上半身を撫でまわす。

 それなのに“本物の妹”は項垂れたままで、妹が言ったように、何の反応も示さない。

 やがて“本物の妹”を撫でまわしていた手は、“本物の妹”の下半身へと延びていく。

 そしてその手は、“本物の妹”がはいているパジャマのパンツの中に入っていく。


「ほら、お兄ちゃん。見てよ。私がこんなことをしても、“これ”は何の反応も示さない。喘ぎ声も漏らさなければ、アソコだって乾いたまま」


 “本物の妹”のパンツの中は、妹の手によって盛り上がっている。

 その部分が、閉じ込められた小動物が暴れているように、雑な動きで蠢いている。


「もう、わかったでしょ? お兄ちゃん。“これ”はもう死んでるのと同じ。いくらお兄ちゃんが希望を抱いてたとしても、“これ”は何も応えてくれない。だから“こんなもの”、さっさと破棄しちゃえばいんだよ」


 そして妹は、“本物の妹”の首元に添えていたナイフを、ゆっくりと、スライスし始める。

 “本物の妹”の首元から、血がジワリと滲み出る。


「止めろ!」


 俺は叫ぶ。

 しかし妹は止める素振りなんて見せず、ナイフのスライスを続ける。

 さらに妹は嬉々とした笑みを浮かべながら、


「大丈夫だよ、お兄ちゃん」


 と言った。

 そして妹の言葉は続いた。

 それはまるで、妹が“本物の妹”の遺言を代弁するような内容だった。

 妹は、こう言ったのだ。


「本物の私は、ちゃんとここにいるからね。だからお兄ちゃん、何も心配いらないよ」


 その直後だった。


 今までゆっくりと“本物の妹”の首元でスライスしていたナイフ。

 それがスピードを上げ、一気に“本物の妹”の首元を走り過ぎた――

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