最悪な選択肢

「うわあ!」


 俺は思わず悲鳴を上げる。

 ゴンドラの床が開いてしまったせいで、俺の足は地上から100メートル以上も離れた場所で宙ぶらりんになる。

 椅子に座っているから落ちないものの、正直言って、俺は高い所が苦手なんだ。

 たとえ高い場所が得意な奴がいたとしても、さすがに、この状況は愉快じゃないだろう。


「早く元に戻せよ! ハヅキ!」


 俺は怒鳴る。

 でも俺の声は、恐怖で震えていた。

 そんな俺を、妹は楽しんでいるようだ。

 あの赤く光った瞳で、俺の顔を記録するように、じっくりと見つめている。

 “今のハヅキ”はロボットだ。

 だからホントに、今の光景を録画して、後で再生してじっくりと観て楽しむかもしれない。


「ねえ。お兄ちゃんに、選ばせてあげるよ」


 妹はそう言って、再びパンツが引っかかった脚を、俺の股間に向かわせる。

 裸足のつま先は、俺の太ももの上を滑り、俺の股間に到着する。

 そして妹の足の指が、俺の局部を優しく掴む。

 しかし高所恐怖症が発動してしまっているせいで、俺は妹の足をどかすことに神経がいかない。


「選ばせるって、何をだよ」

「私を選ぶか? それとも人類を選ぶか?」

「どういうことだよ」

「選択肢は三つ。一つ目は、ここで私とエッチして人類を救うか? 二つ目は、私を拒んで人類を滅亡させるか? 三つ目は、そのどちらも選ばずにお兄ちゃんだけが死ぬか?」


 その途端、俺が座っているシートが少し前に傾いた。



 ――落ちる!



 そう思った。

 が、俺は妹が俺に向かって伸ばしている脚を掴むことで、体を支えることができた。

 股間に少し圧がかかっているが、今はそんなこと、どうでもいい。

 妹はそんな俺を眺めながらクスリと笑い、


「今のお兄ちゃん、凄くかわいい」


 と言って、指先をペロリと舐めた。


「バカにすんなよ! ハヅキ!」

「バカになんか、してないよ。お兄ちゃん」

「してるだろ! いいかハヅキ! 今すぐこれを止めろ!」

「止めないよ。お兄ちゃんが選択肢を選ばない限りは、ね」

「もし俺が二つ目の選択肢を選んだとしても、お前に人類を滅ぼすことなんて、できるわけないだろ」

「できるよ、お兄ちゃん。わかってないね。さっきも言ったでしょ。私はこの世界に穴をあけて、人類をハックできるんだよ。現に今は、電気供給システムと、この観覧車と、お兄ちゃんをハックしている。あとは生活インフラを全て止めて、飢餓状態になった人間たちが自然と殺し合いを始めるのを待つか、もしくは核ミサイルのスイッチを押しちゃって、さっさと終わらせちゃってもいいよ」

「電気供給システムも、この観覧車も、すぐに復旧できる。お前の幼稚なハッキングスキルで開けた穴なんて、誰かがすぐに埋める」

「埋められないよ。お兄ちゃんこそ、私をバカにしないで」


 俺と妹が乗ったゴンドラが、大きく揺れた。


 俺の後ろのゴンドラ同様、ホイール状のフレームとこのゴンドラとを接続している部品が弾け飛んだのかもしれない。


 この状況が続けば、このゴンドラは、落ちる。


「いい? お兄ちゃん。私は“次元を超えてここにいる”の。普通のロボットと、普通の人間と、一緒にしないで」

「何を……言ってやがる……?」


 再び、俺と妹が乗ったゴンドラが揺れた。


 俺はまた悲鳴を上げ、妹の脚を握りしめる。

 情けないが、今はこんな格好を妹にさらすことしかできない。


「ねえ、早く選んじゃってよ。お兄ちゃん。じゃないと、お兄ちゃんをここから落っことしちゃうよ」

「……止めろ」

「ねえ、お兄ちゃん。なんでそんなに強情なの? だって選択の余地なんてないと思うよ。私とエッチするだけで、人類も、お兄ちゃんも、救われるんだから」

「ふざけんなよ……ハヅキ」


 ゴンドラが揺れた。これで三度目だ。


「ねえ、いいことを教えてあげる。私のアソコってね、本物よりも気持ちよくできてるんだよ。だからきっと、お兄ちゃんも喜ぶと思う」

「……黙ってろ」


 ゴンドラが揺れた。これで四度目。


「ねえ、お兄ちゃん。これが最後だよ。じゃないと、ホントに死んじゃうよ」


 もう、限界だった。

 100メートル先の地上をずっと眺めていたせいで、俺にめまいが生じ始める。

 気もおかしくなりそうだ。

 妹なんかに、ナメられたくない。

 でも実際は、俺は妹の手の中で踊らされている。

 それは認めざるを得ない、確かな現実だ。

 俺は悔しさを奥歯で噛みしめる。

 そして――


「……わかったよ」


 ついに、俺は言った。


「わかったよ、ハヅキ。ここで一緒に……俺と……セックス、しよう……」


 観念した俺を、妹はどんな顔で見ているだろうか。

 知らない。

 俺はあまりにも情けなくて、自分の顔を上げることができなかった。

 だから今の妹の顔を見ることもできないし、見たいとも思わなかった。

 それから開かれていたゴンドラの床は閉じられ、俺の視界から遥か下にあった地上が消えた。

 そして東京の街にも明かりが一斉に戻り、ゴンドラも動き始めた。


 あとは、そうだ。

 俺の体を、妹に譲ればいい。

 俺は着ていたTシャツを脱ごうと、両手でTシャツを掴んだ。

 そのときだった。


「ははははははははははっ!」


 妹が、笑った。

 それも大爆笑だ。

 あまりにも激しく笑い過ぎているせいで、妹はシートに倒れ込み、腹を抱える。

 俺は口を開け、そんな笑い転げる妹を、ただ茫然と眺めることしかできない。

 それから笑いが収まった妹は、


「いやー! サイコーだったよ! お兄ちゃん」


 シートから体を起こし、手で涙を拭きながら、妹はそう言った。


「いや、ホント! すっごく楽しかった。動画撮ってたら、永久保存版だよ! コレ!」


 俺は今まで、この妹を許してきた。

 たまに生意気なことを言われても、ちょっとしたイタズラをされても、その笑顔を見れば、俺は全て許せてしまっていた。

 一度失ってしまった大切なものの代償と考えれば、気にするに値しなかった。

 でもな、ハヅキ。

 こればっかりは、俺は許すことができねーわ。

 だから――


「なあ、ハヅキ」


 俺は立ち上がり、言った。


「なあに? お兄ちゃん」


 妹は無邪気に俺を見上げる。

 でも俺は、そんな妹に微笑み返すことすらせず、そして、



 ――パチンッ!



 俺は妹に、生まれて初めて、顔にビンタした。

 妹の髪は激しく揺れ、顔が叩かれた方向に即座に向いた。

 それから妹は叩かれた頬を手で押さえる。


 妹の肩が、小刻みに揺れる。


 泣いているのかもしれない。

 でも、俺にはそれがはっきりとわからなかった。

 よく見れば、笑っているようにも見える。

 そして案の定、妹は泣いていなかった。

 なぜって?

 だって妹は、こう言ったからだよ。


「ねえ、お兄ちゃん。あとで、もっと楽しいことしようね」


 それを耳にして、俺は愕然とする。

 そして、こう思う。


 このまま、妹を放っておくわけにはいかない。

 でなければ、妹は俺を、誰かを、殺しかねない。


 だから、俺は決意する。


 ――妹を、ぶっ壊すことを。

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