問1.5 : 西村先生の心配事は何ですか?

 この学年はたいへんだな、と西村教諭は眉根をもんだ。

 学校とは、なかなか流動的なところで、毎年、数百人単位で人が入れ替わっていく。せっかく相手のことがわかってきて、その内心に踏み込み、指導の手が入ったところで彼らは卒業し、まったくの未知な生徒が入学してくるのだから、眉間の皺も深くなるというものだ。

 中でも手をやく生徒というのが、毎年一人か二人はいるのである。西村は教育指導を担当する立場から、そういう生徒と対面することが多い。

 たいへんですね、とよく他の教師に言われるが、そのとおり、たいへんだ。

 人の言うことは聞かないし、聞いていても理解していないし、理解させても次の日にはきれいさっぱり忘れている。

 西村も根気強く付き合うが、彼らはそういう教師のがんばりを煩わしいと感じる傾向があり、というよりも、多くの場合は敵対行動としてみなされてしまう。

 こちらの努力が空回りすることなどザラであり、その度に自分の未熟さを痛感し、挽回しようとしてさらに空回りする。

 さすがに西村も経験を重ねてきたがゆえ、最近はもうないが、昔はよく失敗したものである。

 つまるところ、手のかかる生徒に、手をかけてしまうと、疲れるのだ。

 少し経験を積んだ教師ならば、誰でも知っていることで、たいていの教師は、そういう生徒にはかかわらない。言ってしまえば、ババだ。

 たいへんですね、という言葉は、ババを引いてたいへんですね、という哀れみの言葉に相違ない。

 ただ、そんなことを露ほども知らない新米教師は頭を抱えていた。

「はぁ〜」

「深い溜息だな。どうした?」

「あ、先生」

 その声色からは、まだ生徒気分が抜けきっていない。

 一年目なのだから、仕方がないといえなくもないが、もう少し自信を持った方がいいな、と西村は苦笑いを浮かべた。

 彼女は、一度姿勢を伸ばしたが、すぐにまたぐにゃりと縮こまった。

「そりゃため息も付きたくなりますよ。いきなり副担任だなんて」

 「しかも」と彼女は髪をくしゃりと持ち上げた。

「いきなり担任が長期休養するなんて」

 居たたまれないと西村は、視線を逸した。

 教師の人数はどこも足りていない。そのため、若かろうとたいていの教師は担任か副担任をまかされる。しかし、さすがに一年目から副担任となることは異例であるが、それは、いわゆる、ババ、であった。


 F


 ただ、学力テストの結果で番付を行っただけなのに、どうしても問題児が集まってしまう、たいへんなクラスだ。

 毎年、このクラスの担任が決まらず、長々と会議が続き、終いには泣き出してしまう教師もいるほどだが、今年は特にひどかった。

 手のかかる生徒が多すぎた。

 何年かに一度あるのだ。問題児がこぞって同じ年にやってくることが。普通の学校ならば、そういう生徒はバラけるようにするのだが、文月学園では、システム上、一つのクラスに集まってしまう。

 そんなクラスの担任を誰もやりたくはない。

 今年の二年生が、まさにそういう学年であった。自分がやるしかないかと西村先生は思っていたわけだが、学園長に制された。彼女曰く、生徒は二年Fクラスだけではない、西村教諭には、学校全体を見て欲しい。

 それは、あんたの仕事でしょう、と言いたかったが、もちろん西村はぐっと飲み込んだ。

 学園長の鶴の一声で決まったのが、十年目の白藤先生と、新人の彼女であった、が、白藤先生は初日から登校していない。

 彼女の言の通り、一身上の都合により長期休養を取得するとのことだ。

 まだ新任の彼女が、頭を抱えるのも至極当然である。

「まぁ、なってしまったものは仕方がないだろう。同情はするがな」

「同情で教師が務まったら苦労はないんですよ!」

 そりゃそうだな。

 俯く彼女を見て、自分にもこういう時期があっただろうか、いや、もう少ししっかりしていたような気がするが、と記憶を探ったが、霧がかかったようにぼやけて思い出せない。

 何はともあれ。

「そろそろホームルームが始まるだろう」

「あ、本当だ! 名簿、名簿はどこだっけ?」

「落ち着け。その手に持っているものは何だ?」

「あ、これだ! あと、他の配布資料は」

「そんなものはない」

 Fクラスには。

 紙ヒコーキになるのがオチだ。

「そうだった!」

 あわてて準備を整え、駆け出していく彼女を、

「待て」

 と西村は制した。

「な、なんですか? 西村先生」

「深呼吸しろ。教師がそんなに取り乱していてどうする」

「は! そうですね」

 深呼吸してから、彼女は一度うんと首を縦に振って、

「いってきます!」

 と踵を返した。

「しっかりな、島田先生」

 その背中が未だに丸まっているところに一抹の不安があるが、こればっかりは経験を積むしかないと西村は息を吐いた。

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