2014/11/10 16:44:44

 決意を固めて、俺は顔を上げる。

 しかし、そこは俺の記憶に無い場所だった。目の前に大きな姿見があるだけだ。辺りを見回してみれば、踊り場らしい。不気味なぐらいに静まり返っている。グラウンドからの掛け声も、調理室からの匂いも何もしない。

 急に不安になった。見知らぬ場所で迷子になった時の気分だが、俺は高校生だ。泣きわめくわけにもいかない。来た道を引き返そう。ここが学院であることには変わりない。そもそも、ろくに通っていない建物の全体図を把握しているわけがないのだ。

 ここは怖い。本音を言えばそうなる。怖いのだ、とにかく。冬の寒さではなく、本能的な寒気。マフラーをグイッと口まで上げる。異変に気付いた。自分の意思とは関係なく、鏡に目が釘付けになっていた。


 __バンッ


 鏡にあるはずの無いものが映った。手のひらだ。つぅ。赤い液体がたらりと鏡に流れていく。異変が起きようが、俺の目は鏡を見続けていた。


 __バンッ!


 状況を追おうと必死になって頭をフルに使う。理解できるわけがなかった。握り拳で手形が付いて行く。ここから出せと訴えているように思える。

 鏡の中心に手形とは明らかに異なる、小さなしみのようなものが現れた。ゆっくりと広がっていく。急かすように音が大きく、手形が急に増えていく。怖い。怖くて仕方がない。足が震える。失禁していないのが不思議なぐらいだった。


 __バン、バンッ、バン!


 力強く鏡をたたきつける音と増えていく手形。形成されていく人の顔。相変わらず俺の目は鏡に向けられていて、努力しても反らせずにいた。しみはじわりじわりと鏡を浸食していく。しだいに見届けなければという義務に駆られた。

 音がだんだんと小さくなっていく。ある一点を除いて、鏡は手形まみれになっていた。手のひらサイズにまで広がった点は、ゆっくりと形を変え、人の顔になった。判別はできないが、直感でひらめいたものがあった。


「先輩?」

 

 鏡に駆け寄った。手形に手のひらを合わせる。赤いしみは、俺の手にすっぽりとおさまるぐらいに小さかった。それもそうだ、先輩は女の人なんだから。

 泣きそうになるのを堪え、もう一度「先輩なんですね?」と聞いた。低い、風だか何だか分からない唸るような音。考える前に、質問が口から出た。


「今、どちらに?」

『よ……つ』


 先輩の声とはかけ離れている上に、不鮮明だ。しかし、すぐにピンときた。


「用務員室ですね」

『……ど……よ……は……じゃ……い』


 どういった類の言葉なのかは区別がつかない。だから、ただ「はい」と頷くしかできなかった。俺はゆっくりと手のひらを合わせた。


「どうか安らかに」目を閉じる。「絶対に見つけます、先輩」


 俺が比較的穏やかな声でそう言うと、顔のしみも手も消えて行った。何事もなかったかのように、一切の痕跡も残さずに。息が上がり、その場にへたり込んだ。

 一体何だったんだ、この現象は。その場に座り込む。


「何を見つけるんだい」


 突然、上から声が降ってきた。手足がピリッと痺れ、落ち着いたはずの心臓がバクバクと音を立てて動く。恐る恐るきれいに磨かれた鏡を見上げた。


 そこに映ったのは、つなぎ姿の用務員だった。


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