第17話 それぞれの場所で
屋上まで来たフライアは、眼下に広がる光景に絶句した。
城下町に隣接する森が燃えている。その遙か先にあるラカスタヤ公園付近の森も、謎の霧が発生していた。
先ほど見た時より、海上の船はそのほとんどがテムスノー国へと接近している。
城下町の大通りでは、見知った人物が大勢の兵士に取り囲まれていた。
「エドヴァルド それに、オデル王子まで……」
のどかで平和なテムスノーの風景が、わずかな間に一変してしまった。
どうして、こんなことになってしまったのか。
もしかしてこれは、自分たちが引き起こしてしまったことなのか――。
フライアは涙を堪えながらも、とある魔法を静かに紡いだ。
封印の魔法。
フライアの体内から、紅色の宝石が静かに姿を表した。
フライアは宝石を抱きしめ、その場にへたり込む。宝石を体内に封印する時、そして取り出す時、莫大な魔法力を消費してしまうためだった。それでも今、フライアはこの宝石を取り出さずにはいられなかったのだ。
これがあったから、今まで
だが、これがあったからこそ――。
頭の中に見えるのは、先ほどの魔道士、ペルヴォ。
(彼の狙いがこの宝石だというのなら、いっそのこと彼に――)
いや、とフライアは思い浮かべたことを即座に否定する。
ペルヴォは、ヴェリスの研究を間近で見ていただけで、
これ以上、自分たちのような人間を増やしたくはない。増やしてはいけない。このような思いをしてほしくなどない――。
そう。
フライアは強い決意を宿した目で、空を見上げる。
へたり込んでいるので今は城壁の外に広がる光景は見えないが、森から立ち上る煙は、既に空にまで達していた。
ラディムとペルヴォの攻防は、膠着状態にあった。
魔道士特有の詠唱の早さで、次々と魔法を繰り出すペルヴォ。
だが身体的な素早さで勝るラディムは、それらを何とか
何回か繰り返したところで、両者は互いに見据えたまま動かなくなっていた。この地下研究所が広くないことも、派手に動き回れない一因であった。
「参ったな……。ここまでやるとは思ってなかったよ。君にはもっと苦しんでほしいのに。……ねえ、場所移動しない?」
ラディムは答えない。フライアができる限り離れるまでの時間を稼ぎたかったからだ。そのラディムの思惑を、ペルヴォは持ち前の勘の良さで嗅ぎつける。
「……あぁ、そうか。どうやら君を苦しめるためには、あのお姫様を利用した方が確実みたいだね」
三日月のように口の両端を上げるペルヴォ。狂気の滲む目を怪しく輝かせると、次の瞬間には上に飛んでいた。
「――!」
ラディムは慌ててその後を追いかける。
ペルヴォは下に向けて魔法を放った。
怨念を火に変えると、このような色になるのだろうか。
風の魔法で防ごうとするラディム。だが、わずかに詠唱が間に合わなかった。瞬く間に、彼の全身は紫の炎に包まれていた。
「なっ……!?」
焦る声を出したのは、ペルヴォの方であった。
ラディムは炎に身を焼かれながらも、歯を食い縛りさらに飛翔速度を上げたのだ。
皮膚が焼け焦げるにおいをペルヴォが認識した時には、彼の腹にラディムの拳がめり込んでいた。
フェンは待ち続けていた。
次々と襲い来るアルージェ兵を倒しながら、ラディムが動くその時を、ずっと。
港には数えるのも億劫なほど、多くのアルージェ兵が物言わぬ体となって転がっている。
それでも、まだ上陸してくるアルージェの兵。港に転がる仲間だった者たちを、海に落として足場を確保していた。
弓と剣で交互に仕掛けてくる攻撃を、フェンの魔法障壁が受け止める。
これまで魔法を使い続けてきたフェン。さすがに息が切れてきていた。部下たちも既に何人か失ってしまった。だが、悲しみに暮れている暇は一時も与えられない。何より、まだ倒れるわけにはいかなかった。
(魔法力が尽きたら、食い破っていくしかないな……)
フェンはカミキリ虫の
確かにフェンは混蟲である。同時に、人でもあるのだ。心は普通の人間と何ら変わりはない。
それなのに、自分の混蟲としての姿は強烈な印象を彼らに与えてしまうだろう。それが、嫌だったのだ。
混蟲は化物のよう存在だと勘違いされてしまうことで、他の混蟲にも迷惑をかけてしまうかもしれないと、フェンはそのように考えていた。だからずっと、彼は魔法のみで戦ってきたのだ。
(ラディム。勝手に期待して悪いが、そうなる前に頼む)
フェンはラディムを信じていた。
互いに策を考えたわけではない。彼との別れ際、そのような言葉を交わす時間すらなかった。それでも彼ならば、この戦いを止めることができるはずだ――と、フェンは信じていた。
間違いなく今のラディムは、テムスノーで一番強い混蟲であると、確信していたからこそ。
城に向けて飛翔していたガティスは、森から火が上がり、それが燃え広がっていく様子を目の当たりにした。
「これは本当に
小さく呟く言葉は、どこか無機質だった。
この数時間にさまざまなことがありすぎて、現実感というものはとうに麻痺している。
欠けた腕の先からじんじんとした痛みが絶えず襲ってきていて、それだけは間違いないなく現実だと認識できるのだが。ガティスはまだ腕を針に変形させたままだった。
それでもガティスは、あの火を止めなければ――と感情の追いつかない頭で思った。
パルヴィは燃えさかる炎を前に、水の魔法を唱え続ける。
ヘルマンは大地を隆起させ、下から火の勢いを削いでいく。
二人の連携で消火は確実にできている。だが、火の回りがそれ以上に早い。ここまで森は燃え広がるものなのかと、二人は驚愕と共に焦りを募らせていた。
火に囲まれているというのに、パルヴィの顔色は白い。魔法力が尽きてきたからだ。
しかし彼女は、詠唱をやめない。やめることなどできない。
城下町にいる多くの人のため、そして女王蟻の元へ胸を張って帰るためにも。
倒れそうになるパルヴィの腕を、ヘルマンが後ろから支える。
二人の混蟲の目は、まだ光を失っていない。
スィネルの前方から、大勢の男たちがこちらに向かってやってくる。格好から判断するにどちらの国の兵士でもない。一般人のようだ。城下町から逃げてきたのだろう。
スィネルは彼らに大きく手を振った。
「君たち、頼みがあるんだ! 森の消火を手伝って欲しい!」
「おう! 俺たちはまさにあの火を消しに行くところだ!」
彼らは、イアラの元で治療を受けた男たちだった。彼らの腕には、白い結晶のような物がたくさん抱えられている。
「氷属性の魔法道具だ。あんたにも渡しておくぜ」
「おお、実にありがたい! このタイミングの良さ、まさに選ばれた領主である私だからこそ為せる技であるな! さあ、皆でこのテムスノーを守ろうではないか!」
水を得た魚のように、スィネルは今来た道を駆けだしていく。少し言動が不思議なスィネルに首を傾げながらも、男たちはその後に続いた。
女王蟻ルツィーネの前で大きく息を切らしているのは、アウダークスだった。
セクレトの所で地上が攻められていることを知った彼は、女王蟻にそのことを
その過程で、ワスタティオ一行に縛られていた女王蟻の兵士たちに会う。アウダークスは彼らを解放しながら、ここまでやって来たのだった。
女王蟻たちもまた縛られていたのだが、二人しかいなかった見張りは呆気なくアウダークスの拳に沈んでいき、救出劇は終わったところであった。
「お母様……」
アウダークスの報告を聞いたフォルミカが、不安そうにルツィーネを呼ぶ。ルツィーネは目を伏せて逡巡していたが、やがて静かに目を開いた。
「地下に残っている兵たちを、すぐに地上と港に向かわせよう」
「わかりました。すぐに兵たちに声をかけます」
「お主は我の元を去った身だというのに。すまぬなアウダークス……」
ルツィーネの言葉にアウダークスは一瞬目を丸くするが、すぐに笑顔を浮かべた。
「確かに色々とあったし今は直接
そう言ってアウダークスは、その巨体からは想像できない速さで飛び出していった。
ワスタティオが率いる兵士たちは三十人ほど。
彼らはアルージェ兵の中でも、特に精鋭と呼ばれる者たちである。それでもエドヴァルドは、数分の間にその半分を倒していた。
だがさすがにエドヴァルドの動きも、精細を欠いたものになっていた。
四方から次々と繰り出される、アルージェ兵たちの攻撃。連携が取れているので、エドヴァルドが息つく暇がないのだ。そこに、ワスタティオの大振りながらも破壊力のある剣の一撃が、彼女を襲う。
地に体がこすれそうなほど低く身をかがめたエドヴァルドは、彼らの足下の隙間から包囲を逃れ、刃を何とかかわした。
しかし、安心している暇はない。逃げた先にも、アルージェ兵は待ちかまえていた。
兵士と一体一になったほんの僅かな時間を利用して、エドヴァルドは少しずつ兵士の数を減らしてきていた。だがここ数分の間、彼女は一人も倒せていない。
常に動き回っているエドヴァルドの体力は、既に限界に近かった。攻撃を全て防ぐことができず、華奢な体にはいくつもの切り傷がついている。純白のウエディングドレスも、既に元の色を失っていた。
彼女を支えているのは、フライアとオデルを守りたいという、ただその心のみであった。
兵士たちの後方――城下町のすぐ近くの森から火の手が上がっていることに気付いていたが、今は強制的にそれを見ないようにしていた。
オデルは槍を振り回し、ただ必死に自分の身を守ることに徹していた。
できればエドヴァルドの援護をしたいところであったが、下手に手を出すと戦況を悪化させるだけだと、彼は己の力量をよくわかっていた。せめて一人だけでも、彼女から自分に引きつけられればいい。
瞬間、オデルの槍が、上に大きく弾かれる。
しまった――と思う間に、アルージェ兵はオデルに近付き、剣を振り上げ――。
突然横から伸びてきた槍に、その兵は貫かれた。
やったのはエドヴァルドではない。
左翼の塔からオデルを追ってやって来た、テムスノーの兵士であった。
数は四人。少ないが、それでもこの状況ではとても頼もしい援軍であった。
「王子はお下がりください」
「僕よりどうか彼女を」
オデルがエドヴァルドに視線を送る。兵士たちは彼女の状況をすぐさま理解し、眉を上げた。
イアラは未だ目を覚まさぬ大臣の側につきながら、窓の外を見つめていた。
「タキトゥス様。みんな、とても頑張っていますよ」
気を失ったままの大臣に話しかけるイアラ。彼はまだ目を覚まさない。しかし、イアラは続ける。
「テムスノー国は、きっと大丈夫です。ボロボロにされても、立ち上がります。そうする力があると、今証明してくれています」
イアラの言葉を、医務室内に残っていた女性や子供たちは、ただ静かに聞いていた。
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