第9話 消えた王女
「……遅い」
腕を組み、扉の前をウロウロと往復しながらラディムは呟いた。その眉間には皺が数本寄っている。フライアがまだ戻ってこないからだ。
「今日は国にとっても大事な日だ。色々と話があるのだろう」
「そうかもしれねえけどさ……」
ラディムの苛立ちは、歩く速さと歩幅に如実に表れていた。先ほどよりもスピードが増している。
「俺、やっぱり迎えに行く」
勝手知ったる城の中とはいえ、いつもとは空気も状況も違いすぎる。何が起きてもおかしくはない――と、ラディムの第六感的なものが叫んでいる気がした。
いつも隣にいるフライアがいない。そのことが、既にラディムにとっては非日常である。彼の心から平穏が失われる理由としては充分だった。
「心配性だな……と言いたいところだが、オレもそろそろ待つのには飽きたな。共に行こう」
こうしてラディムとエドヴァルドは、足早にフライアの部屋を後にしたのだった。
フライアの部屋がある城の三階は、静寂に支配されていた。
元々このフロアは静かなのでいつもと変わりないのだが、不安に心を浸食されている時は『静かな空間』というものは途端に不気味さを感じるものへと変貌する。
鳥が羽を広げたような構造のテムスノー城。『右翼』と『左翼』側にも階段はあるのだが、いちばん多く利用されているのはやはり『胴体』の中央にある階段だ。
赤い絨毯が敷かれ、白い欄干が設置された階段まで来た二人は、少し緊張気味に階上を見上げる。
ノルベルトの私室がある四階には、ラディムも数えるほどしか足を踏み入れたことがない。それも毎回フライアと一緒だった。
限られた者しか行くことの許されない四階であるが、意を決しラディムは階段を上り始める。エドヴァルドもその後に続いた。
侍女に見つからないようにと祈りながら階段を上りきったラディムは、突如として立ち止まる。
「……ん?」
「どうした?」
「これは――」
ラディムはその場にしゃがみ、廊下に敷かれた赤い絨毯に目を凝らした。僅かだが、砂のような非常に小さな物体がキラキラと光っている。
「何か見つけたのか?」
エドヴァルドが問うが、ラディムは答えることなくその光る物体を指でなぞる。彼の指先と赤の絨毯が、ほんのりと薄く青に染まった。
「これ……フライアの
「何だと?」
エドヴァルドもその場にしゃがみこみ、光る物体に触れる。
「間違いない」
ラディムは呆然としながら頷いた。この色は――この青は、見間違えるはずがない。
「しかしどうして、こんな場所にフライア様の鱗粉が……」
フライアの翅全体を覆っている鱗粉は、普通に歩いているだけでは飛び散ることはない。強い風に煽られたり、衝撃が加わらない限りは。
つまり、フライアの身に強い力が加わるような何かがあった――という事だ。
ラディムは拳を握りしめ、奥歯をギリと鳴らす。
「急病で倒れられて、陛下の私室まで運ばれたということは?」
「そう、だな……。今は可能性を一つずつ潰していくしかないか」
二人は立ち上がり、ノルベルトの私室へと向かう。
だが扉の前に来たところで、ラディムは困ったように立ちすくんだ。仮にフライアが『ここにいなかった場合』のことを考えてしまったからだ。
二人の王にこの事を
ラディムの考えていることを察知したエドヴァルドが、彼の肩を軽く叩いた。人差し指を口元へ当て「声を出すな」と暗に伝えた彼女は、扉のすぐ脇の壁に耳を当てた。目を閉じて壁の向こう側の音と気配を探るエドヴァルドは、数秒もせず壁から離れた。
「部屋の中には二人の声と気配しかない」
声を
仮に医務室に運ばれていたのなら、すぐに自分達の所へ報せが届くはずだ。イアラの事だから飛んで来るだろう。
しかし、それがないとうことは――。
フライアはノルベルトの部屋を出て自室に戻ろうとしたところを、何者かに襲われた。その可能性が濃厚だ。
「探すぞ。それしかない」
「心当たりは?」
「わからない……」
彼女に好意的でない人物となると、この城にいるほぼ全員がそうだ。だが、これまでに直接危害を加えてくるような人間はいなかった。
彼らは
再びフライアの鱗粉が飛散していた階段前まで戻った二人は、手掛かりを得ようとさらに周囲を注視する。
「鱗粉だけってことは、単に気を失っただけだと思うんだが……」
これが血の跡まで残っていたのなら、既に最悪の事態になっている可能性もあった。しかし、残っているのは僅かな量の鱗粉のみ。そこに希望を見出し、ラディムは犯人の行動を推し量ろうと思考をフル回転させる。
「フライアを運んだら、すっげぇ目立つよな……」
「確かに。フライア様の
二人は同時にある方向へ顔を向けた。階段の真正面にある、大きな窓へと。
すかさず窓に近寄った二人は、窓の鍵が閉められていないことに気付いた。そしてさらに窓枠を注意深く観察する。
ラディムは窓枠の一部を指差した。目を凝らさないと見えないほどであるが、フライアの翅の鱗粉らしき青が擦られたように横に付着していた。
「外から逃げた――ってことか」
「……厄介だな」
城の四階の窓から逃げた、ということ。それは即ち、空を飛べる者――混蟲であることを意味している。
「この城の中に、フェンさんとイアラ先生以外の混蟲はいるのか?」
「少なくとも俺は知らない。兵士の中に混蟲がいたら、絶対におっさんが把握しているだろうし。身分のある奴なら尚さらだ」
「そうか。町に住んでいた混蟲か、それとも地下に住んでいた混蟲か――」
「いずれにせよ、まずは外に出るぞ。まだその辺に潜んでいる可能性が高い」
窓を開けたラディムは素早く上半身の服を脱ぎ捨て、背に力を込める。
「くっ……!」
いつもは声を出すことで翅が背から出る痛みを堪えてきたが、ここで大きな声を出すわけにもいかない。歯を食いしばり、ラディムは翅が出る痛みに耐える。
間もなく彼の背からは、透明な四枚の翅が現れた。
さっそく窓枠に足をかけたラディムに、エドヴァルドが背後から問いかけた。
「どうしてまだ近辺にいると言い切れる?」
「外で混蟲が飛び回ってたら目立つだろ。元は人間なんだ。普通の鳥とは違う。特にフライアの翅は地上からもよく見えるだろうしな。……念のため、お前は町で目撃証言を聞いて回るか?」
「いや、共に行こう。お前の推測を信じる」
言うや否や、エドヴァルドはラディムに向けて両手を前に突き出した。まるで小さな子供が親に抱っこをせびるような仕草だ。ラディムは思わず頬を引きつらせてしまった。
エドヴァルドは翅がないので飛ぶことができない。つまりこれは、ラディムに「抱えて行け」と暗に言っているのだ。
「仕方ねえから連れて行くけどさ……。そのポーズはやめろ」
「わかりやすいだろ。それに、オレも少し頼み辛いんだから察しろ。フライア様と違って重いだろうしな」
「重さのことはこの際置いておくが、誰かに見られたら誤解を生むだろうが」
エドヴァルドの見た目は男性と遜色ない。ただでさえラディムは混蟲として良い目で見られていないというのに、さらにややこしい噂まで付随してしまったらたまらない。それを抜きにしても、まるで仲睦まじい恋人達がするようなポーズに、ラディムの中で謎の罪悪感が発生してしまったのだ。
しかし、今は恥じている場合ではない。ラディムは小さく嘆息した後エドヴァルドに脱いだ服を持ってもらい、彼女を横抱きにした。
エドヴァルドは表情を一切変えることなく、ラディムの肩に腕を置く。初めてなのに余裕さえ感じられるエドヴァルドの態度に、彼女の心の厚さが羨ましいとさえラディムは思った。
「おそらく……屋上か、屋根だな」
窓枠を蹴ったラディムはそのまま空中で留まり、エドヴァルドに窓を閉めるようにと視線で促した。窓を開けたままにしておくと、すぐに異常を知られてしまうだろう。
腕を伸ばしたエドヴァルドは、窓をそっと押し返す。その動作を見届けたラディムは、すぐさま城の上空まで移動した。
屋上は武器を持った人間が百人規模で立ち回れる広さだが、今は誰もいない。
元々、他国からの侵攻に備える必要のないテムスノー国である。兵士が配置されているのは地上だけだ。屋上は単に見晴らし台として機能しているだけだった。
ほんのりと黄身がかったテムスノー城は、陽の光を浴びると白く照り映える。
その中にフライアの『青』がないか、二人は目を凝らして探す。ラディムは複眼も駆使し、城を左右から挟む森にまで視界を伸ばした。
「……見つけた」
声を上げたのはラディムだ。彼の目は森ではなく、すぐ近く――城の『左翼』と『胴体』の継ぎ目に向いていた。
エドヴァルドもすぐにそちらに視線をやるが、彼女からは何の姿も確認することができない。しかしラディムの言うことなので嘘ではないのだろうと、エドヴァルドは疑うことすらしなかった。
「一度陰に隠れる」
継ぎ目から死角になる位置に移動したラディムに、エドヴァルドは小声で尋ねる。
「どんな奴だった? フライア様は?」
「はっきりとは見ていない。フライアの翅と別の奴の腕が少し見えただけだ。でもありゃ男だな。フライアの翅は動いていなかったから、まだ意識はないみたいだ」
「あの場から動かないのは、陽が落ちるのを待っているからか」
「その可能性が濃厚だな。目立ちたくないんだろ」
「となると、今のうちに仕掛けた方が有利か」
「そうだな。騒ぎにされたくないから、見つかる危険を犯してでもこの場に留まっているってことだろうし」
エドヴァルドはそこで、ラディムに下ろしてくれと仕草だけで合図した。
「いいのか?」
「挟み撃ちでいこう。お前が囮役を頼む」
「……わかった」
ラディムはエドヴァルドの言葉通り、彼女を『胴体』の屋上に下ろした。今の短いやり取りで、二人は互いの考えていることを理解したのだ。
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