第6話 突然の休暇
ラディムは、フライアとエドヴァルドに先に部屋に戻るように告げた。エドヴァルドに何か言われるかとラディムは少し恐々としていたのだが、意外にも彼女は何も追求することなく、フライアと並んで廊下を歩いていく。彼女らの後ろ姿をしばらく眺めたあと、ラディムは医務室の扉を開いた。
中に入って彼が目にしたのは、あの赤い花をイアラがテーブルの上に一本ずつ並べている光景であった。イアラはようやくラディムに気付き、花を持ったまま手を振る。
「あらあら、ラディム君。ハラビナをありがとうねー。助かったわ」
やはり、この花がハラビナで間違いないらしい。
ラディムは、巨大ハラビナのことはもう少し黙ったままにしておこうと決めた。見た目がハラビナと似ているだけで、別の何かである可能性が高い。とりあえずフェンに報告して、様子を見てもらおうか。
「いや、役に立てて良かったよ。ところでイアラ先生。少し聞きたいことがあるんだが」
「珍しいわね。なあに?」
「その……精神に異常をきたす変化が目に表れるってことはある?」
「また唐突な質問ねえ。何かあったの?」
「い、いや。その、ずっと前から気になってたことなんだ」
ラディムは思わず両手を振って誤魔化す。イアラは「ふーん?」と首を傾げながらも続けた。
「そうね。あるかないかで言うと、あるわよ」
「そうか……」
公園で起きたフライア達の目の色の変化は、まともな精神状態ではなかったことの証明でもあったのだ。ラディムはしばらく腕を組んで視線を宙に固定していたが、やがてイアラに笑顔を向ける。
「いや、それだけが聞きたかったんだ。ありがとう」
そしてラディムはイアラの返事を待たず、すぐに医務室を後にしたのだった。
「あらあら、せっかちねえ。久々に二人でゆっくりとお話をしてみたかったのに。姫様との仲は進展したのか……とか。さっきは姫様にもはぐらかされてしまったし」
イアラは白い手を頬に当てながら、ラディムが出て行ったドアを見つめるのだった。
片膝を絨毯に付き
時刻は早朝、場所はフライアの部屋。
いつものように護衛の仕事に就いた直後、突然エドヴァルドは「長期休暇を取ります」とフライアに申し出たのだ。
「既に陛下の許可は頂いております。昨日の内に伝えておくべきでした。突然の申し出になってしまい、申し訳ございません」
エドヴァルドは目を丸くしたままのフライアに淡々と告げた後、品のある動作で静かに立ち上がった。
「そういうことだから、しっかり王女様を御守りしろ」
感情の籠もっていない命令口調で言ってくるエドヴァルドに、少しムッとするラディム。「お前に言われるまでもないっての」と小さく返したところでフライアが口を開いた。
「エドヴァルド、何かあったの?」
ようやく正気を取り戻したフライアは不安げな顔で尋ねた。エドヴァルドはフライアから目を逸らして続ける。
「……ただの、私用です。少し時間が掛かりそうな案件なので、長めにお休みを頂いた次第です。配属されて一ヶ月しか経っていないのでお休みを頂くのは大変心苦しいのですが、どうかお許しくださいませ」
この一ヶ月で、エドヴァルドが一番長く喋った瞬間だった。その内容が謝罪とは何ともこいつらしいなと、ラディムは静かに苦笑する。
「では、失礼いたします」
エドヴァルドはフライアに深く一礼すると、颯爽と部屋を出て行ったのだった。
「…………」
部屋に残されたラディムとフライアは、エドヴァルドが出て行ったドアを眺めたままその場に立ち尽くす。
(昨日少しだけエドヴァルドの素性はわかったが、まだまだ奴についてはわからんことが多すぎるな)
頭の後ろを掻きながらラディムがそんなことを考えていると、くいくいっ、と彼の服の裾が引っ張られた。その感触に振り返ると、フライアが何かを訴えるような上目遣いでラディムを見ていた。
「ラディム、あの……」
「どうした?」
「エドヴァルドを、追いかけよう」
「――――は?」
ラディムは、フライアが何を言っているのか理解できなかった。
「何で追いかける必要があるんだ。あいつは用があるから休暇を取ったんだろう?」
「エドヴァルドは、何か隠してる」
フライアの言った言葉はラディムの脳に吸収されることなく、ぐるぐると同じ場所を回り続けるばかりだった。
「隠しているって、むしろあいつは隠しごとだらけな気がするんだが」
「ううん、そうじゃないの。きっと何か大変なことが起こったんだよ。長いお休みを貰わないといけないような、大変なことが。ラディム、助けてあげようよ」
フライアは、突然何を言っているのか。フライアのどこか必死な様子に、ラディムの額に汗が滲み出てきていた。
「どうしてお前に、そんなことがわかるんだ」
それはラディムが自分でも驚くほど、冷たい声だった。こんな声を彼女に向けたのは初めてである。だがフライアはそれに臆することなく、薄紅色の瞳で真っ直ぐとラディムを見据えた。
「エドヴァルドを、放っておけないの」
ラディムの目の前が暗転する。フライアのその言葉は、ラディムの質問の答えになっていない。
放っておけない――。
その言葉だけが、何度も彼の頭の中で繰り返されていた。
つまり、フライアはエドヴァルドのことが気になるから、エドヴァルドのことを特別に思っているから、これほどまでに心配しているのか――。
その考えに至った瞬間、ラディムの心のダムは決壊し、気付いたら声を張り上げていた。
「何で! 何でお前はそんなにエドヴァルドのことを心配するんだよ!? お前が負い目に感じるような出来事でもあったのか!? 違うだろ? 放っておけばいいじゃねぇか、あんな何考えてるかわかんねー奴のことなんて! どうして――」
どうして五年も一緒にいる俺じゃなくて、あいつなんだ――。
喉まで出掛かったその言葉だけは、ギリギリのところで呑み込んだ。さすがにこれを言ってしまったら、もう後戻りがきかない。
思わずフライアから顔をそむけ俯くラディムだったが、今ほど両の複眼が恨めしいと思ったことはなかった。今はフライアの顔を見たくない――いや、見る資格などないのに、見えてしまうのだ。
「ラディムが……」
そこでフライアは少し困ったような顔をする。ここまでフライアに強い言葉を発したことは、今までにない。いつもなら間違いなく泣いているであろう展開だが、今の彼女に泣く気配は全く見られない。それどころか、まるで子供の駄々を仕方なく見つめる、母親のような雰囲気を
「ラディムがお城に来た頃と、同じような目を、していたから……」
フライアは小さく笑い「だから放っておけないの」と言い残して部屋を飛び出した。ラディムは立ち尽くしたまま彼女の背中を、美しい青い
「……情けない。情けなさすぎる!」
自分に憤り拳を床に叩き付けるが、柔らかい絨毯のお陰で痛みがほとんど伝わってこない。それが余計にラディムの腹立だしさを増幅させる。
「あそこまで嫉妬の心を剥き出しにすることないだろうが……。しかもフライアが知らないとはいえ、俺が嫉妬している相手は……女だ」
羞恥の余り自分の身を切り裂きたくなる衝動に駆られるが、それは辛うじて堪えた。
とにかく今は、部屋を飛び出した主君を追いかけねばならない。
だが頭ではわかっていても、ラディムの足は鉛のように重く、前へと踏み出せないでいた。
すぐに追いかけなかったせいでフライアの姿は一度見失ってしまったが、通り掛かった大臣に聞いたらすぐに居場所は知れた。もっとも、大臣には氷のような目を向けられてしまったが。
フライアは執務室に居た。そして、ノルベルトと話をしていたのだ。
執務室にそろそろと入ったラディムだったが、二人とも咎めるような視線も言葉も投げてはこなかった。フライアは、彼が追いかけてきてくれると半ば確信していたかのように少し表情が明るくなったのだが、ラディムがその微妙な表情の変化に気付くことはなかった。
ノルベルトに一礼した後、入り口の近くでラディムは待機する。そして昨日のことを思い返していた。
確かにエドヴァルドは、昨日ノルベルトに呼び出されていた。だからフライアと二人での行動になったのだ。
ノルベルトはエドヴァルドの事情を知っていると考えて、フライアはここに来たのだろう。そしてその予想は当たっていたようだ。
エドヴァルドに何があったのか――と問い詰めるフライアを前に、ノルベルトは髪と同色の茶色い顎髭に手をやり、瞳を閉じていた。どう答えるべきかじっくり考えているようにラディムには見えた。
「あやつに断りなく、全てを話すわけにはいかぬが……」
ようやく口を開いたノルベルトは、そこで一旦言葉を置いてからゆっくりと継げる。
「エドヴァルドは、地下の出身だ」
「地下……」
出てきた情報に、フライアとラディムの心に小さな波が立つ。
地下とは文字通り、この国の地下のことだ。だが王宮が絶対的な力を持つ地上とは違い、地下には王宮の影響力が行き渡っていない。否、影響さえしていない。地下を束ねる大きな勢力があるせいだ。
ムー大陸の魔導士、ヴェリスの実験から逃げ出してきた人間たちで創られたこの国。多くの実験体たちは地上に拠点を構え、やがて国ができるほどの発展をしていったのだが、そこから『はぐれた者』も少なからずいた。
ヴェリスに直に体を弄られた実験体たちは、非常に昆虫と近しい生態にさせられていたのだ。その『はぐれた』彼らには、地上の光は眩しすぎた。彼らは地下で生きていくことを選び、そして今日までその子孫も暮らしてきていた。
人目に付かないので、地上で迫害された
ラディムも家を飛び出した時、一瞬地下に行こうかと考えてはいた。しかし入り口を見つけることがまず困難なので、すぐにその選択肢は脳内から削除していたのだ。
地下への入り口の情報は極秘なのか、情報を知る者と接触することがまず困難なのだ。
「それじゃあ、エドヴァルドは地下に帰っていったんだね」
「フライア。地下に行くつもりなのか」
ノルベルトの眉が僅かに動いた。フライアの行動をすぐさま察したあたりは、さすがに父親だな、とラディムは密かに感心する。
「地下では地上以上に『王族』と言う身分は通用しない。くれぐれも慎重に行動するようにな」
「なっ――!?」
しかしノルベルトがフライアを止めるものとしか考えていなかったラディムは、続けて放たれた言葉に驚愕した。
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