第23話 もう一つのプロローグ

   ※ ※ ※



 胎児のようにうずくまっていた女は、ゆっくりと瞼を開く。

 目の前に広がるのは闇。樹皮の香りが、絶えず鼻を刺激してくる。

 軋んだ身体を伸ばそうとしたが酷く狭く、足どころか手を伸ばしきることさえできない。

 そういえば『眠りに付く場所』を大木の中にしたんだっけ――と、彼女はようやく思い出した。ここは自身で選んだ『ベッド』の中だ。

 最後に話をした同僚の男は助かったのだろうか。突然たくさんの単語を並べ、不可解なことをいてきた男。

 彼女の頭にふとそんな記憶が甦るが、今はそれより自分のことだと、即座に脳内に浮かんだ同僚の姿を消し去った。

 彼女は慈しむように、樹にそっと手を這わせる。その掌から、禍々まがまがしい黒の炎が放たれた。まるで断末魔のように音を立てて燃え盛る彼女の『ベッド』は、一瞬で炭と化した。

 地に降り立った彼女は、伸びをしながら天を仰ぐ。鬱蒼うっそうと茂る緑が、彼女の目覚めを出迎えていた。


「どれくらい眠っていたのかしら? とりあえず色々と見て回らなきゃね」


 女は小さく呟き、ふわりと空に浮いた。





 周囲を調べて回った彼女は、今が眠りについてからおよそ千五百年経った世界だということを知る。

 彼女が目覚めたのは、レクブリックと呼ばれる国らしい。千五百年前にはなかった国だ。むしろ千五百年前と同じ国など、彼女が立つ大陸には既にどこにも存在していなかったのだが。

 彼女は千五百年が経過しても大して変わっていない地上の文明に、心底呆れ返った。そして、彼女の故郷ムー大陸がいかに素晴らしかったのかを再認識する。

 目を閉じなくとも、彼女はムー大陸の景色をありありと思い出すことができる。

 ガラスで造り上げられた建物は、それ自体が芸術品のように美しかった。

 妖精が住んでいてもおかしくないような澄みきった空気の巨大な庭園で、皆が一息ついていた。

 魔法の力により自動的に動く道が、至る所に張り巡らされていた。

 魔導士たちが造り上げた技術の結晶であるムー大陸は、しかしもう存在しない。全てが粉々になり、海の底へと沈んでいった。

 ムー大陸を支配していた強引な独裁者に対し、様々な所から謀反の手が上がった。ヴェリスが実験に使用したのは、ほんの一握りにしかすぎなかったのだ。最終的に独裁者は、彼らに真っ向から対抗した。しかしそれがきっかけで、ムー大陸は崩壊することとなってしまったのだ。魔道士たちの巨大すぎる力が引き起こした悲劇だった。

 彼女は渋々ながらも現状を受け入れた。思い出すほどに過去は眩しい輝きを放つ。だがそれに縋るだけでは、今は動かない。



 しばらくレクブリック国を観察して周った彼女は、この国が学問の国と呼ばれていることを知る。

 それは彼女にとって、とても都合の良いことだった。

 彼女はしばらく、この国に籍を置くことにした。

 国の性質上、他の国から流入してくる者など珍しくはない。彼女は簡単に考古学者に扮することができた。

 そして彼女は『子供たち』の手掛かりを求め、この時代の文献を読み耽る作業に没頭するのだった。

 謎の大陸とされているムー大陸を研究している者は少なくなかった。

 だから彼女のことを怪しむ者など、誰もいなかったのだ。



   ※ ※ ※




 その笑顔は、知の女神ではないかと彼に錯覚させるほど、神秘的なものだった。




 要塞を彷彿とさせる、鉛色をした巨大なレクブリックの城。その一角に、国中の研究者が集まる『図書館』はあった。

 レクブリックは別名、学問の国とまで呼ばれている。それは先代の王が探究心溢れる人物だったことが、大きく関係していた。

 知の発展は国の発展に繋がると考えていた彼は、未来を担う研究者たちに手厚く投資をした。この『図書館』も、その投資の内の一つだった。


 天井まで届こうかという巨大な本棚が、広い空間に幾つも並ぶ。オデルは迷うことなく、とある本棚を真っ直ぐと目指していた。『考古学研究室』と書かれた木製のプレートが掛かる、ドアの前の本棚へ。

 高い場所の本を取るために備え付けられた階段状の梯子を登り、一番上の棚の中央から本を取ろうと手を伸ばす。しかし本の背表紙に指が触れる直前で、その動きがピタリと止まった。


(……今さら、何を躊躇ためらう)


 頭を振り、心に生じた迷いを振り切る。

 これは制裁だ。自分のことを『醜い血の者』と散々罵ってきた者たちを、醜い姿へと変えてやる。

 ただそれだけのことだ。

 自分が子供の頃から受け続けてきた痛みを思えば、この程度のこと、大したことではない。

 動きが止まったのは、ほんの一瞬だけだった。

 オデルは四冊の本を棚から取り出して脇に抱え、そこから一気に飛び降りた。頭の後ろで、一つに束ねた金の髪がしなやかにうねる。

 壁際に設置された長方形のテーブルと椅子の所まで移動すると、早速その中の一冊を開き、真剣な面持ちで目を走らせ始めた。


「あなた、最近いつもいるわね」


 突然後ろからかけられた声に、オデルの肩がピクリと小さく震えた。オデルが後ろを振り返ると、そこには長い紺の髪を持つ、一人の女性が立っていた。


「君みたいな美人に覚えてもらえるほど、そんなに僕は目立つのかい?」


 オデルは笑顔を見せながら女性に問う。


「ええ」


 それはもう、と女性は大きく頷きながら答えた。


「だって毎回、梯子から飛び降りるんだもの。嫌でも記憶に残るわよ」


 女性の台詞に、オデルは碧眼の目を見開いたまま固まってしまった。


「もしかして、自覚してなかったの?」


 彼の反応を見た女性は、半ば呆れながら腕を組む。オデルは頷くと、頭を掻いて苦笑いを浮かべる。


「気付かぬうちに、他の利用者に不快な思いをさせてしまっていたようだ」

「別に不快とまでは思っていないんじゃない? あなたの着地、まるで羽が生えているのかと思うくらい静かだもの」


 自らの行動を悔いるオデルに、しかし女性は面白いものを見せてもらったと言わんばかりに、にこやかに言い放った。


「そういえば、自己紹介がまだだったね。僕はオデル=アレニウス。貴女は?」


 オデルの名を聞いた女性はしばらく目を丸くした後、林檎のような色艶をした唇の端を上げ、答えた。


「私の名は――」



   ※ ※ ※


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