水面

 この世界で再会した米は、干からびた状態だった。

 携帯食、あるいは保存食として倉庫などに保管されているのだ。もちろんご飯として食べる地域はあるらしいけれど、この付近では米食は一般的ではないらしい。

 それでも干からびた米、いわゆる干飯ほしいいがあるということは、生米もあるはずだ。なぜなら、あれは焚いた米を干したものだからだ。

 思った通り学校の食料保管庫に山ほど積んであった。こういうキャンプや訓練実習などで外へ出るときの非常食を作るために生米も用意してあるのだ。好奇心旺盛なリュシアンは、当然、頼み込んで作っているところ見せてもらったが、焚くというより茹でる感じだった。茹で上がりをザルにあけた時はさすがに仰天した。

 茹でられたごはんを前に、リュシアンは意味不明のショックを受けたのである。


 というわけで、ちゃんとしたご飯を食べるため米を研ぎに川までやって来た。

 さすがにキャンプ地に選ぶだけあって近隣にはちゃんと水場があった。この辺の奥地には雪が多く、標高の高い山もあるので川や湧き水は、とても冷たく研ぎ澄まされたように清涼である。

 先ほどまで降っていた霧雨のせいで、あたりはぼんやりと霞がかかり、どこか神秘的な様相だった。

 リュシアンはなんだかおかしくなった。


「こんな神聖な感じの場所で米とぎとか……まあ、霞を食べては生きていけないよね」


 幻想的な風景に呑まれたのか、ふいに世界に一人取り残されたような不安に駆られ、埒もない独り言を言ったりした。

 さっきまでは、すぐ近くのキャンプ場から生徒たちのさんざめく声が聞こえていたはずなのに、いつの間にかあたりは静まり返っていた。


(……なんだろう?)


 リュシアンは急に落ち着かない気分になる。

 てるてる坊主みたいな恰好で飯ごうを持って立ちすくむ姿は、キャンプ場で迷子になった子供のようで滑稽な様子ではあるが本人には笑いごとではなかった。


(早く用事を済ませて帰ろう)


 それでも米だけは洗う気でいるところに、なんとも飽くなきごはんへの執念を感じさせた。

 水辺へとしゃがみこみ、飯盒の蓋を開けて川の水で米を研ぎ始めた。

 じゃかじゃかと米をとぐ音と、川の流れの音だけが響き渡る。


 ――ぽちゃん……


 どこかで水音がした。

 明らかに川の音でもなく、米を研ぐ音でもなく、静かに凪いた水面に水滴が落ちたときのような、そんな虚空に響く音。

 リュシアンは手を止めて立ち上がった。

 見渡す限り、そんな水音がしそうな場所はない。

 ジャリっと川の小石を踏んで後ずさった。その瞬間、チョビがギュッと頭を締め付ける。


「痛ッ!?いたたっ、なにチョビどうしたの、痛いよ」


 思わず立ち止まり、腕を上げて頭上のチョビを見ようと顔を上げた。

 けれど、そのままリュシアンの腕は力なくゆっくりと下に降ろされた。


「な、なに? ……なにこれ」


 上を見上げたまま、リュシアンは呆然とつぶやいた。

 そこには先ほどまでのどんよりと曇った空はなく、雲一つない晴れ渡った青い空が広がっていた。そして視線を落とすと、そこには先ほどまで川が流れていた場所に、碧の美しい水を湛えた湖が横たわっていた。


 恐ろしいほど静まり返った鏡のような水面に、ふいに波紋が広がった。一つの水紋が次々と重なり、まるでそこを誰かがつま先立ちで歩いているような、そんなかすかで軽やかな水面の揺れ。

 明るい日差しを受けて、波紋は金銀に輝きリュシアンは眩しそうに碧の瞳を眇めた。


『静かなる水辺に近寄ってはいけない』


 どこからともなく言葉が聞こえた。リュシアンは、慌ててあたりを見回した。だが、そこには相変わらず突き抜けるような青い空と、美しい湖だけがあった。

 声はスピーカーを通したような、どこか違うところから聞こえる感覚だった。そしてリュシアンにはそれが何語かわからなかったのだ。今使っている言語でも、魔法言語でもなく、ましてや日本語でもない。なぜか意味は頭でわかるけれど、音として聞こえてくる言葉はちんぷんかんぷんだった。


「…誰、なの?それにここは…」

『清らかなる流れもならぬ。岩陰、水陰、人々の思考が行き交う雑踏にも気をつけよ。今は、まだその時ではない…、疾く去ね、至要たる童よ』


 リュシアンの声に答える様子はなく、声は淡々として続けた。

 重ねて口を開こうとしたリュシアンは、突如として突風に押し戻された。直後、とんでもないめまいがリュシアンの頭を振り回し、その場にうずくまってしまう。

 揺れる頭を抱えつつなんとか顔を上げると、広大な湖の中央、その水面に凛として立つ、たてがみをなびかせた獣の姿があった。その身体は、光に反射して色鮮やかに輝いていた。

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