第30話 神郷聖杯、統べよ
僕らが通えなかった翌日、学校でコミケ三日目が開催された。朝、昼は一日目、二日目と変わらず各々が教室を借りて出し物を披露。夕方が近くになると、食べ物の匂いがあちらこちらから漂いだす。文化祭の出店のようなものが出回り、全くコミケと関係ない内容になっている。僕は衣良羅義さんと木造四階建ての屋上に来ていた。太陽の日が落ち始め空を徐々に赤く染め上げていく。
「ランドちゃんは大丈夫なんでしょうか? SIMシステムでも返事が返ってこないんですよ」
水筒に入れたアイスコーヒーを一口飲む。
「ははは、さすがにあの状態じゃ恥ずかしいのだよ。ランド君も女の子だからね。現在、新しい顔を培養中だからしばらくの我慢だよ。そこらのマネキンの顔でもくっつけて仮面でもかぶれば普通に出歩いても問題は無いのだがね」
なんとかぱんまんを僕は思い出した。
「百目鬼さんはどうなるんでしょうか?」
「ふむ。百目鬼君はランド君のお気に入りだからね。超法規的処置でも何でも使ってどうにでもするだろう。それにあの人格は酒を飲まないと出てこないようだし、動機になった右目の痛みも赤色君に相談すればなんとかなるだろう。百目鬼君はもっと早く赤色君に出会っていればよかったのだが、うまくいかないのが人生というものだな」
衣良羅義さんはフェンス越しに学校を見下ろしていたが、視線が漂っていた。物思いにふけっているのだろう。
僕は水筒から空になったコップに注ぎ、もう一口アイスコーヒーを飲む。
「結局、神様やら神様の神託って何だったんです? 百目鬼さんは本当に神託を受けて神様の奇跡とやらで痛みが治まっていたんですか? 残り火教の人達も」
「ん? ああ」
衣良羅義さんはフェンスをつかみながら顔だけこちらを振り返る。
「神様ウイルスだよ」
……?
突然、聞いたことがないいやな感じの単語が出てきたので、僕は少々寒気を覚えた。
「SIMシステムのネットワークを介して常駐するソフトウェアだ。君の時代にもコンピューターウイルスという物があっただろう? それを思い浮かべてもらったらいい。それなりの自己増殖機能と学習機能を持ち人から人へSIMシステムを介して広がるようになっている」
衣良羅義さんは再び視線をフェンス越しに学園を見下ろす。
「神様ウイルスは人間の行動を特定のアルゴリズムに則って直接脳内に特定の行動を起こせと語りかける。過去の人間の行動原理を無作為抽出している部分が強く突拍子もないものが多いがね、あのコーヒー豆事件のように」
僕はお気に入りの喫茶店に突然現れたコーヒー豆強盗を思い出していた。
「行動を起こさなくても何かが起こるというわけじゃないし、行動を起こしたものは副交感神経が過分に刺激されるだけだ。これは健常な人間なせいぜいあくびが出る程度でその効果に気づきもしないだろう」
僕は必死に理解しようと衣良羅義さんの言葉に耳を傾ける。
「ただ、これが心身に異常があるものなら別だ。副交感神経を刺激されると人間はリラックスする。筋肉の緊張が解ける。心的外傷を持っているものなら救われたような気分になるだろうし、肉体的苦痛を持つものなら少し楽になる。彼らは常にギリギリの状態だからね」
衣良羅義さんは両腕を組んでこちらを見た。表情に真剣さが混じるのが解った。
「だが、この少しが重要なんだよ東雲君。例えば僕らはいくらでも水が飲みたいと思えば飲んで喉の渇きを潤すことが出来る。だが、SIMシステムに忘れられた人間は常に炎天下の乾いた砂漠に放り出されているような状態だ。そこにほんの少し水の一滴でも口に出来たらどうするかね?」
僕は想像する。そんな状態で水を一滴飲むことが出来たら……なるほど僕は感謝するだろう。その水をくれた何者か……この場合は神様に。そして……
「そう、そして次の一滴、次の一滴を求めて行動を繰り返すようになる。百目鬼君は協力して神様ウイルスの信託をこなすことが出来る組織を作り上げた。それが残り火教と言うわけだ。そしてそれは彼女自身の信託、神を祭れと言うことにもちょうど合致していたわけだ。大本はいたずらのようなソフトウェアが人間に害がないリラックス気分を与えるだけの代物だったが、少々複雑に絡み合い今回の事態になったというわけさ」
僕は衣良羅義さんの話を聞き終わり内容を解釈しようとする。僕自身は身体に異常が無いからSIMシステムに忘れられた人々の気持ちがわからない。百目鬼さんの「信じてほしかった」という台詞を思い出す。本当に当人しか解らない苦しみというものがあったのだろう。それはお酒を飲んでいない状態の百目鬼さんもおそらく同じ苦しみを受けていたはずだ。でも、そんなそぶりを全く見せなかった。おそらく相談されても僕はなんと答えていいか解らない。下手に答えてもおそらく百目鬼さんを傷つけるだけだったかもしれない。百目鬼さんもおそらく話しても無駄と理解していたのだろう。そんな苦しみをおくびにも出さない百目鬼さんの強さに僕は頭を下げたくなった。痛みは赤色さんの治療でよくなると言っている。でも世界にはそんなに人達がどれだけ居るのだろうか? 百目鬼さんがこんなことを起こす前になんとかならなかったのだろうか? 僕はやるせなさを感じて俯いた。
コップに残ったコーヒーを飲み干す。
後、一つだけ気になることを思いついた。
「でも、よく原因がわかりましたね。神様ウイルス、そんな物があることを」
「ああ、私が作ったからね」
夕焼けが空を赤く焼く。地平線に沈み始めた太陽は校舎にいくつもの黒い影を生む。肌寒い風が僕を包み、フェンスの影が不気味に屋上に対して網目状の線形を描く。
「え?」
無意識に発した僕の声は確認と否定の期待の意味が込められていた。
「子供の時に作成したアプリの一つでね。SIMシステムネットワークとプロテクトの解析の為作成したんだ。SIMシステムのプロテクトは二千年代の天才プログラマーの発案が元になっていて非常に堅牢性の高い物だ。まあ当然と言えば当然だ。破られたらSIMシステムに直接アクセスが可能になる。対象の人間をSIMシステムの暴走で殺害する事なども容易になる」
衣良羅義さんの影が斜陽によって校舎の屋上に不気味に伸びる。
なんだこれ……なんだこれ……
「子供の頃は未熟でね、さすがにSIMシステムのプロテクトを解除中に痕跡が見つかってしまって何度か警察にマークされた物だよ。ははは、お恥ずかしい。神様ウイルスはようやくステルス機能がSIMシステムの抗ウイルスソフトの検知に逃れられるようになった時期に出来たソフトウェアの一つでね。まさか今ごろ表舞台に出てくるとは予想外だった」
衣良羅義さんは両手を横に広げて、やれやれといったジェスチャーをする。
……どうして、どうして。
「そのためコミケ二日目が中止になる所だったよ。まったく私としたことが皆に申し訳ない事をしようとした物だ。そうそう残り火教が電波妨害していたというのも嘘だよ。あれは私がSIMシステムネットワークに働きかけてこの地区の残り火教の情報を遮断していたんだ。参加は出来なかったがコミケ二日目は無事開催。三日目もこうして無事終わろうとしている」
どうして、そんなにいつもと変わらない様子なんですか?
淡々といつもと変わらない様子で衣良羅義さんは語る。
だが、その内容は僕にとってあまりに受け入れがたい物だ。
それなら、今回の騒動は……大本の黒幕は……
ゴゴゴ……
不意に上空から地響きのような震える音が聞こえ始めた。僕はとっさに上空に視線を送る。衣良羅義さんもゆっくりと頭を上げ同じ方向に視線を送った。
え、なんだあれ……
空の一部を占めていた入道雲から明らかに人工的な建造物が顔を出して、高度を下げてくる。飛行機にしては大きすぎる。それは円筒形で翼のようなものが周りに生えていた。
「ほう? 軍事衛星
あまりの事の連続に僕はただ棒立ちしていた。
「ふむ、先日の残り火教対策に今頃到着といったところか。いや、今の会話を聞かれていたな。この私の制圧に来たか」
軍事衛星が下降をゆっくり続ける。表面は美しくも禍々しい輝きを帯びている。邪神が空から降ってくるとでもいえばいいのだろうか?
軍事衛星
「SIMシステムネットワークの無力化。高度システムの活動強制停止。電波妨害。至れり尽くせりだな。うん? 私のSIMシステムにも介入してきたな。やれやれ、私のプロテクトを破ることが出来たらもう少し先の大戦でこれほど人口を減らすこともなかっただろうに」
衣良羅義さんはため息のようなものをついた。本当に心底がっかりしているように見える。
「だが……そうだな、丁度いい頃合いか」
その言葉に僕は背筋が凍る。今までの付き合いからとんでもない事をやらかす事を無意識に理解していたのだ。
懐から特殊なカットをしたワイングラス。
それを手にした衣良羅義さんは高々と上に掲げこう呟いた。
「
特殊なカットをされたワイングラスの名前は
……!?
軍事衛星の降下が止まる。照射されていた光が弱弱しく途絶え始める。軍事衛星がまとっていた光が不規則にまばらに輝き、明らかに不自然な機械音を発し始めた。その光景に体内に毒でも注入されてあがいている巨大生物を彷彿させられた。
「クラッキング完了。軍事衛星
ハッキング……僕でも聞いたことがある。確かパソコンを乗っ取るとかそういうやつだ……ということは衣良羅義さんは……あの上空に浮かぶ軍事衛星を自分の物にしたという事!?
「神様アプリインストール完了。我ながらネーミングセンスの無さに呆れるが少々急だったものでね」
いつの間にか衣良羅義さんは
「実行」
軍事衛星が雷のような閃光を放つ。空を雲を駆け巡り雷竜のようにあばれ空中に四散する。いつ終わるとも知れないそれはこの世の終わりの瞬間と言われても信じるだろう。
だが、それも時間がたつと徐々に収まり、見ることすら恐怖の対象であったそれは終わりつつあった。ゆっくりと先ほどのような静寂が戻りつつある。軍事衛星が空中に浮かんでいることなんてもはや些細なことに感じる。
「ふむ」
衣良羅義さんは視線を落とし何かを確認している用なそぶりを見せる。
「軍事衛星から軍事衛星、そしてSIMシステムネットワークをつかさどる基幹施設から世界すべてのSIMシステムの管理者権限の取得を確認」
その時点で僕は意味が理解できなかった。
「世界人口三億人すべてのSIMシステムの掌握を完了したよ東雲君」
その時点で僕は意味を理解した。
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