第18話 ゴスロリの服を引っ張り身だしなみを整えている
全身の神経が一瞬で研ぎ澄まされる。心臓がゆっくりと大きく鼓動する。カメラのシャッター速度を上げた時のように視界が薄暗くなる。同時に僕の時間感覚は非常にゆっくりと進み出す。ランドちゃんの髪がゆっくりとゆっくりとたなびく、録画していたビデオをスローモーション再生しているように。以前、SIMブーストを使ったときはF1のアクセルを全力で踏み込んだかのような反動があったが、今回はギアを変えて丁寧に加速し立ち上げることが出来た。……ふと、蚊が一匹、視界に入る。ゆっくりと指で羽をつまんで捕まえた。逃げようとうごめく姿もスローモーションに見える。僕は首を戻しランドちゃんを視界の真ん中に据える。
「ていなのです」
視界が反転する。僕は天井を見上げていた……
え? え!? 何が起こったの? 僕は状況を理解することに時間がかかった。
「え……今の何?」
「近づいて投げた。それだけなのです」
ランドちゃんは乱れたゴスロリの服を引っ張り身だしなみを整えている。いや、ちょっとまって。僕は何があったかをもう一度思いそうとするが、駄目だ。視界にランドちゃんがいたことは覚えている。その後すぐに投げられていたのだ。
「消えたようにしか見えなかった。いや、消える直前、少しランドちゃんの姿がぶれたような気が……」
「初動は見えたのですね。やはり東雲、お前は才能あるのです」
褒められたのだろうか? なんだか複雑な気持ちだった。
「でも、本当に消えたように見えたよ? SIMブーストも使ってないよね?」
「東雲はアホなのですか」
さらりと酷いことを言われた。
「SIMブーストを使わずとも必要なときに必要な筋肉を活性化させることなんて傭兵なら出来て当然なのです。だいたい、SIMブーストなんて使ったときの落差が激しすぎてすぐに消耗するのです。後、見えてたまるかなのです。戦場では高機能なセンサーをくぐり抜け弾丸や大砲を躱さないといけないのです。素人の東雲に見えるようじゃ即死なのですよ?」
ランドちゃんに初めて会ったときも投げられた事を思い出す。あれから何度かランドちゃんの活躍を見たが、今ようやくランドちゃんと僕の間に天と地ほどの力量の差があることを理解した。
「何をしているのです?」
「え?」
「続きをするのです」
……身体は絨毯に埋まっている。天井を見上げていた。あれから何十回投げ飛ばされたか解らない。その間、触れるどころか、まともに視界にとらえることも出来ずにいた。
「どうしました? 立ち上がるのです」
僕は息もたえだえになっていた。SIMブーストも前回よりうまく使っているとはいえすでに限界に近い。ランドちゃんは汗一つもかかずにこちらを見ている。なんとか声を返そうとしたが呼吸音しか出てこなかった。
「……東雲でも駄目でしたか」
なんだか酷く傷つくことをいわれている気がする。ランドちゃんは軽くため息のような物をついていた。
「もし一度でも触れることが出来たら。そうですね……東雲の赤ちゃん授かってもいいと思ったのですが」
…………え?
…………え!?
何だが凄いことを言われた気がした。いや、ものすごいことを確かに言われている! 僕は飛び跳ねるように起きた。一瞬で顔が真っ赤になり蒸気機関車のように煙のような汗を吹き上げた。
「ん? まだ元気のようですね」
「い、いや、だって!」
「ん? いやなのですか」
違うそうじゃない。僕は何かを口にしようとするが、頭の中がごちゃごちゃで言葉を生成する前に拡散して消えていく。全く声が出ない。十四歳の僕にはあまりに刺激が強い会話なのだ。
「とりあえず休憩にするのです。百目鬼! 飲み物を持って来てくださいのです」
ランドちゃんは先ほどのソファーに座りなおす。背中がまっすぐに伸びて姿勢がいい。ふと気が付いた。相も変わらず真っ赤なランドセルを背負っている。あんなもの背負っていたら動きにくいと思うのだが、それでもその状態で触れることすらできなかったのだ。触れられたら赤ちゃんを産んでもいい、という言葉を思いついて、また僕の顔は真っ赤になっていく。
「失礼いたします。きゃっ!」
百目鬼さんが部屋に入るなりこけた……
視界の右上あたりにブルーの小さな明かりが点滅した。SIMシステムからのメールが来た事を知らせる通知だ。ランドちゃんはソファーに座っている。百目鬼さんは先ほどの転倒でもこぼさなかった飲み物をテーブルの上に。二人の様子をチラ見で確認した後、メールを読み始めた。ざっくばらんに言うと、免許の合格通知だ。
……え?
気配を感じて僕は振り向く。眼前にランドちゃんの顔が迫っていた。
「わっ!」
びっくりして身を一歩引く。ランドちゃんは今まで見たことが無い笑みを浮かべていた。
「来ましたね?」
「え?」
「合格通知が来ましたね?」
僕は背筋に冷たい物が走るのを感じた。合格通知? ああ、今のだ。でもそれがどうしたというのだろう? 僕がこの未来に来てからずっと取ることをすすめられて、いや強制的に取らされた【お酒を飲める免許】の合格通知がどうしたというのだろう!?
「百目鬼」
百目鬼さんがゆっくりと近づいてくる。着物姿なのでそんなに足早になれないようだ。片手に透明なグラス。中には透明な液体が入っていた。
「ふふふ、大丈夫なのです。このマリブ・モヒートというカクテルは初心者にも飲みやすい甘いカクテルなのですよ。東雲の免許取得後初めてのお酒はカクテルなのです!」
!!!!!!!
僕はランドちゃんが何故、今日、僕を家に誘ったか理解した! そうだ! 酒好き! カクテル好き! アルコール中毒を超えてもはや身体の七十八%がエチルアルコールで出来てそうな僕の周りの人間がこの時を見逃すはず無いのだ!
身の危険を感じて僕は後ずさる。ランドちゃんはじわりじわりと距離を縮める。
その時だった!
「うおおおおおおおおおおお! 無事か東雲君!!!!!!!」
突如、衣良羅義さんの声が響き渡る! ドドドドドと聞き慣れた音。スズキのバイクのエンジン音だ! ガチャーン! ガラスの割れる音! 窓ガラスからなんとバイクに乗った衣良羅義さんが飛び込んできた! ここは二階のはず!?
ガラスの破片を纏いながら、バイクをドリフトさせ絨毯をタイヤの跡でむしり取りながら停止する!
「大丈夫か!? 東雲君!」
いや、貴方こそ大丈夫ですか色んな意味で衣良羅義さん。
ぞくり。
僕はまた背筋が凍るような感触を味わう。ランドちゃん目を据わらせながら衣良羅義さんを睨み付けていた。
「何のようですか? 衣良羅義京介」
バイクを降り、丁寧にセンタースタンドでバイクを止める。ヘルメットを取り、これまた丁寧にサイドバックに収納する。学生服の汚れを払い落としランドちゃんと向き合った。
「それはこちらのセリフだよ? ランド君。私が生徒会に掛け合っている間に出し抜こうなんて」
胸元からワイングラスを取り出す。どういう仕掛けか、なみなみとグラスにはワインが注がれていた。
「東雲君が最初に飲むのはワインだ」
「カクテルなのです」
一呼吸も無かっただろう。それを何とか見えたのは先ほどまでランドちゃんと組み合っていたからだ。ランドちゃんは瞬時に衣良羅義さんとの距離を詰め蹴り飛ばしていた。入ってきた窓から逆方向に衣良羅義さんは飛ばされて……
え?
何事も無かったようにワイングラスを掲げて、僕の隣に衣良羅義さんは立っていた。
「正面からランド君とやり合うはずが無いだろう?」
どういう仕掛けで衣良羅義さんが今の蹴りを躱したのかさっぱり解らなかった。衣良羅義さんの頭の良さは理解したつもりだったが、こっち方面の実力は今でも全く未知数なのだ。
「ロリコンで危険な男は野放しにしておく訳にはいかないのです」
両者再びにらみ合う。
……そして目的であったはずの僕を放っておいて、僕が全く理解できない次元のランドちゃんと衣良羅義さんの戦闘は、時間を増すごとに熱を帯びやがて部屋を飛び出して、僕をただ一人部屋に置き去りにしていった。
「…………」
「帰っていいのかな?」
荒れ果てて静まりかえった廃墟と化した部屋を出ようと僕は振り向いた。
ゴフッ……
肺から空気を絞り上げられながら僕の口から声が漏れる。鳩尾に強い衝撃を食らった事を知ったのはその後だ。見上げるとそこには……
「百目鬼さん?」
着物姿をして眼帯をして何時も転けている百目鬼さん。だが、彼女は冷笑を浮かべながらいつもと全く違う雰囲気を浮かべている。左手には剣の柄のような物が見える。それが鳩尾に衝撃を与えた物だろう。
僕は膝から崩れ落ちる。百目鬼さんは、右手に先ほどランドちゃんに言われて持ってきたカクテルが入ったグラスを持って僕の口に近づけた。
……カクテル? 違う! この匂いは……
「百目鬼さん……これは焼酎?」
「その通りです東雲様。カクテルなどと言う汚らわしき飲み物を初めてのお酒なんて、あまりにも東雲様がお気の毒。焼酎に入れ替えてお持ちしてきました」
百目鬼さんはまた冷笑を浮かべる。何時ものおどおどしている百目鬼さんとはどういう人物とは思えない。これはもしかして……
「百目鬼さん、お酒飲んだ?」
「いえ。ただ、どうやら私は先ほど転んだ拍子にお酒を浴びてしまったようですね」
僕はすぐに以前みんなで言ったビッフェの時のランドちゃんの言葉を思い出す。「百目鬼は酒が入ると人格が変わるのです】あ、なるほどこっちのモードの百目鬼さんだ。
百目鬼さんは恐るべき手慣れた手つきで僕の首からあごを左手で持ち上げ固定する。右手には焼酎が入ったグラス。ゆっくりと僕の口元に近づいて……
「SIMブースト!」
百目鬼さんの左手をつかみ振りほどく!
衣良羅義さんがバイクでぶち開けた二階の窓だった部分を目指して全力疾走!
そして躊躇無く飛び降りる!
「帰ります! ランドちゃんによろしくお願いします!」
一度も振り返る事無くそう告げて、僕は全力で帰路についた。
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