第149話

 獣の雄叫びか、シフォンなる者の最後の呻きなのか、明子の体内の邪悪な存在は低く、地を這う様なまがまがしい声を発し、明子は気を失った……。




「明子っ……!」


 シフォンの雄叫びに驚いたマネージャーが、分厚く重いスタジオのドアを蹴破り、私達に駆け寄る。


「明子っ、明子っ……!」


 私に抱かれた明子に、膝を突きそう叫び終えると、不安な眼差しで私を見るマネージャー……。




「シフォンは消えたわ……」


「あぁ……」


 脱力感と喜びの混ざった声と、安堵の表情でマネージャーは私から明子を奪い、抱きしめた……。


 明子が意識を取り戻す……。


「明子……」


「あぁ……ヒロ君……」


「ヒロ君……ごめんね……」


 明子と彼の間では「ごめんね」という簡素な謝罪で通じる魂と魂の回廊があるのだろう……。


 出逢った時から、互いを愛していたのかもしれない……。


 私の「毒」だけでは、あるいはシフォンを消せなかったのではないか……魂の最下層に追いやられていた明子の自我に毎日、毎日、諦めずに脈々と愛を注ぎ続けた彼と、シフォンに悟られない様に受け取っていた明子の自我……そんなふたりの愛こそが、シフォン消滅の最大の要因かもしれない……。


 私の毒など、ちょっとしたきっかけに過ぎないのだ……今までそれを誰もしなかっただけの事……。


 己の私欲に走り、人を蔑み、陥れたシフォンは、愛を軽んじ、愛に負けた……。


「ふたり共、何をすべきかわかるわね……」


「はい……」


 彼の、覚悟と自信に溢れた眼差しと声だった。


 シフォンとの魂の戦いが終結し「歌姫」は解放された……。


 スタジオの出口へと私は歩み出す……。




「救ってくれて……ありがとう……」


 明子が、彼の胸元から清らかな顔を覗かせ、言った。


「いいのよ……幸せになりなさい……」


 穏やかに私は返した。


 明子は輝きを取り戻した。


 人間としての輝きを……。


 生きてゆく希望を確固たるものとした歓喜の情を湛えた人間の光……。


 なんて綺麗な光なのだろう……こんなにも人は美しくなれるものなのか……。




「ありがとう……舞さん……」


 私が紅を引いて描いた獣のシフォンは、跡形もなく消えていた……。


「さようなら……」


 優しさ、悲しさ、切なさ、憂い、麗らか……全ての想いを滲ませた瞳でふたりを見て言い、私はスタジオを出た……。


 閉まってゆくドアの隙間の向こうで、誰に遠慮する事のない濃厚な口づけをふたりは交わす……。






「何笑っているの……マイマイ……?」


 雪が、不思議そうな顔で問う……。


「シフォンさんと、何かあったの……?」


 後席で、流花が言う……最後列のアリスは相変わらず寝ている……。

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