2「涙」

第18話

 今日も「下の世界」は、忙しなく時を刻んでいる。


 アリスの香りと柔らかな感触も、慌ただしく菓子折りを用意し「下の世界」でお世話になった人達にお別れの挨拶をした激動のあの日も、遥か遠い出来事に思える。


 私のチーフマネージャー就任と時を同じく発売されたサードシングルもセール、配信共に好調を維持している。


「好きなんかじゃない……愛してる」


 過去の私が妬み、観ていたサードシングルのタイトル。


 好調とトップは、同義……。


 打ち合わせの為に社長室を訪れ、殆どの話を詰め終わった頃「ふぅー」と社長は息を吹いた。


「どうかしたのですか」


「えぇ、ちょっとね……彼女達がまだ咲く以前のアイドル氷河期の頃を思い出してね……」


 麗しく瞳を横へ流す。


「社長……」


「まだ時間はあるわね……ちょっと昔話につき合ってもらえるかしら」


 顔を少しガラスウォールへ向けながら、社長は記憶を丁寧に辿りながら語り出した。




 荒廃した世界……。


 かつて、この地に色鮮やかに咲き誇っていたアイドルやアーティストという花達は散り、全てが枯れ果てた世界へと変わった。砂嵐が吹き、死が支配する不気味で寒々しい光景と無音の営みが続く、悲しい世界。


 かの世界を、社長はそう表現した。


 そして世の中の流れも、不安定で不気味だった。


 旧東欧圏諸国を震源とした第1次欧州危機を経て、ロシア、フランスの政権交代が招いた第2次欧州危機は全世界に波及してゆき、3度にわたった世界同時株安が引き金となり、世界経済は最も繁栄していた規模の3割程度に縮小し、現在に至っても本格的な回復には程遠い状況……。


 その「波」は、否応なくこの国を襲った。


 日経平均株価は、最低時3千円台前半を記録し、完全失業率は8パーセントまで上昇した。


 現在これらの指数は、5千円台、6パーセントにまでは持ち直したが、殺伐と他人を陥れる社会の雰囲気は、そこはかとなく空気中に漂っている……。


 最も、私はその時期「あの出来事」が起き、暗い世界にいた為に、確かな世間の記憶はほぼ、ない。




「もう、駄目なのか……」


 花達が咲き乱れていた世界をひたすら振り返り、懐かしむ事でしか、自分が自分であるという存在を証明すらできないのか。


 かつて、強固な一団を構築していたアイドル集団の突然の解体や「国策」と揶揄された隣国の「使者達」の姿が消え、アーティストらも自らの才能を閉じ、ありきたりな唄声を垂れ流し、日々をしのいだ。


「気がつくと、アイドルという言葉さえ死語になりつつあった本当に辛い時期だったわ……」

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