9-4 変容する世界4
絶え間なく襲い来る幾千幾万もの糸状の刃が、迎え撃つ燐の光と激突し、無数の爆発で大気を埋め尽くしている。留まることのない白光と燐光の剣戟によって炸裂する衝撃波や熱波が幾重にも重なって、もはやジェイの眼前は眩い白さに覆い尽くされていた。
度重なる爆音は、すでに体を打つ重く激しい振動でしかない。無数の刺糸が共鳴する快い音も、爆散したクリスタルの欠片がたてる澄んだ音も、ジェイの耳に届くことはない。
ましてや、彼女らの極近くで繰り広げられているだろう戦闘の───エレが操るあの男達が、銃器を使用していないはずもない───銃声、炸裂音、爆音すら殆ど聞こえはしなかった。
それは偏に、エレの護りのおかげであった。
モスキートの強力な
エレの展開する鉄壁の護りがなければ、あっと言う間にふたり揃って吹っ飛ばされているだろう強烈な爆風は、すでに彼女らの周囲からあらゆる物を消失させている。
拮抗するふたつの
礼拝堂があった広大な一棟はもはや見る影もない。遠くに、小さく残る骨格ばかりの屋根の残骸、崩れて瓦礫と化した壁であったもの、砕かれた墓標のような柱の一部分などが、今も炎に蹂躙されているばかりだ。
その向こうは黒煙と、踊り狂う炎が見えるばかりだが───その奥にある広大な宮殿の全てが戦場と化しているのは、間違いがないだろう。爆音に塞がれたジェイの耳にはその銃声こそ聞こえはしないが、黒煙の向こうで時おり閃く大小の火花が、未だ殺戮の続行を誇示していたのだ。
もっともジェイには、それらを顧みる余裕など全くなかった。
眼前で踊り狂う、自分達を刺し貫かんとする鋼のような白光。その全てに相対し、一糸たりとも逃さず撃墜する燐光。自分達から刹那たりとも逸らされることのない純粋な殺意───非実在という他に類を見ない存在が見せる、生物のそれとは全く異なる意志───から目を逸らせる余裕など、彼女にはあるはずがなかったのである。
目を逸らしたら、全てが終わる。
彼女に何が出来るというはずがないにしても、それだけは本能のように逆らい難い自明の理として、ジェイには理解出来てしまったのだ。
今は、小さな、頼りなくさえ見える少年の背中だけが、白く灼き尽くされた世界で彼女を守る唯一の盾だ。
ただひたすらにその背中を信じ、すぐ傍らで炸裂する力の暴発、呆気なく消し去られる周りの事物の───本来なら同じ運命を辿っていたはずだろう己への無力感、何よりも一寸たりとも逸らされない美しく白い殺意に、必死に対峙することだけが、己のすべきこと、出来ることだと、ジェイは本能的に悟っていたのである。
眩い光の花弁を放つ、巨大で透明な曼珠沙華───美しく、そして恐ろしい
突然の出来事に───己の意志ではない体の反射に、驚いたのはジェイ自身だった。張り詰めていた眼差しが、途端に不安定に左右に揺れ、忙しない瞬きを繰り返す。何が起きたのか、その原因を本能的に探して視線が素早く走った。
自分が何に反応したのか、一瞬、本当にジェイにはわからなかったのだ。
熱い何かに触れてしまったかのような。
あるいは、電流を一瞬、流し込まれたかのような。
針先のように限りなく鋭角化した危険に触れた体が……体内の何処かが、反射的にそれを弾く。
そんな、体が起こした本能的な反応の原因と理由を、そして、理性ではなく本能のようにジェイが察したのも、また刹那のことであった。
強大な捕食者から初めて目を離し、反射的に上空を振り仰ぐ。
もはやそこに天井や屋根といった人工物は存在してはいない。もうもうと押し寄せてくる黒煙が、エレの護りである燐光を隔てて見えるばかりだ。
だが。
厚く空を覆う密度の高い黒い煙が……色褪せていた。
炎上する材料が変わって、発生する煙の種類が変化したということではなさそうだ。ましてや炎の勢いが弱まって、状態に変化が生じたというわけでもないだろう。
そんな、常識的な変質ではない。
少なくとも、ジェイにもそれだけは感じ取れたのだ。
それに。
そもそも、ジェイの内の琴線、あるいは本能を弾いたものが、その程度の変化によるものであるはずがない。
ジェイが無意識に反応せざるを得なかったもの。
それは、ジェイの内のモスキートの欠片が反応したものだと、それに急かされるように上空を振り仰いだ刹那に、彼女は悟っていたのである。
もくもくと噴出し、上空を、
風に千切られて、薄れていくのではない。そんな、ある種の見慣れた現象───この世界の理に則った事象ではない。
言うなればそれは───。
恐らくは灼熱を孕んでいるだろう闇から、突如、一筋の閃光が降り注いだ。
雲間を縫う陽光というにはあまりにも眩い黄金の光の筋が、間髪を入れず次々と黒煙を貫いて地上へと降り注ぐ。
彼女達がこの島へ連行された時点で、もう夕闇も深まろうとしていた。
こんな、真昼の陽光よりも眩い、それも朝日とも夕日とも全く異なる金色の光が差すはずなどない。
「───?」
エレの燐光越しにも眩い光の筋が、続々と厚い煙を切り裂いて、降って来るのが見える。それにつれて、漆黒の闇のようだった黒煙が分解され変質していくように、ジェイには、モスキートの一部が溶け込んだジェイの視神経には、見えたのだ。
茶色の瞳が、我知らず眇められる。
天と地を繋ぐ無数の金の柱。
巨大な刀身にも見えるその光が、ジェイには垂直の
それは、貫き引き摺り出した黒煙の一部と混じり合い、食らい合いながら、再び空を覆う黒煙へと、あるいは地上へと駆け巡る。踊り狂うその勢いを止めどなく増しながら、黒煙を、大地を抉り、呑み込む金色の粒子は、まるで獲物に群がる蟻や蜂といった小さな、獰猛な虫の群れのようにさえ見えた。
黒煙は、色褪せていったのではない。群がる無数の捕食者に食らい尽くされ、跡形もなく分解され、そして何か別の
半球状に守られた燐光の中から、半ば呆然とその光景を振り仰ぐジェイの上空で、いつしか黒煙は消えていった。否、金色の光に呑み込まれ、完全に同化してしまったのだ。
上空に広がった光の粒子の海が、突然大きく波打った。
「───⁉」
何が起きたのか、ジェイには咄嗟に理解することが出来なかった。
上空を注視していた視界いっぱいに、突然、凄まじい勢いで巨大な煌きが駆けていったからだ。
反射的にそれを追ったジェイの目に映ったのは、金色の竜巻。───刹那、彼女にはそう見えた、それは光の奔流だった。
燐光の守りの内からでも、途轍もない強風に吹き飛ばされるような凄まじい速さで、金色の煌きが、対峙する巨大な曼珠沙華にも似た悪霊とエレ、そしてジェイをすっぽり呑み込んで渦を巻くのが見えたのだ。
だか直後にジェイは、己の見ているものがそんなものではないと、戦慄と共に理解したのである。
それを追って、まるで弾かれたように巡らせた視界の先に、強烈な光を放つ巨大な鋭い目があった。あまりの眩さにはっきり視認することは出来ないが、その中央の縦に長い瞳孔と確かに一瞬目が合ったことが、本能的にジェイの体を竦ませた。
絵や彫刻でしか見たことのない、優美とは言い難い、けれどそれ以上の畏怖を感じさせる神々しい頭部には、枝分かれした太い角が輝く。鋭い牙の並ぶ口辺は、一瞬その背後を駆け抜けた美しい花のようなモスキートよりも遥かに大きかった。
金色の竜巻のように見えたのは、煌きながら音を立てる数多の鱗に覆われた巨大な胴体である。
龍だ。
呆然と、頭のどこかで呟く己の声をジェイは聞いた。
ジェイの視界いっぱいに、まるで巨大なビルを呑み込もうと津波が疾駆するように───地滑りを起こした山々のように、巨大なその体躯で駆け抜けたのは、それこそ実在するはずがない龍だったのである。
思わず身を捩ってまでその頭部を追ったジェイの視界の先で、龍は黒煙を上げ続ける宮殿を回り込み、残骸と化したとはいえ───あるいは彼女達がいる、もはや跡形もない棟さえも含めた───幾つもの建物を全て囲い込むように滑空し、あっという間に半円状の陣を築いていた。
少なくとも、まるで宮殿を守護するように己が長大な体躯で囲い込む形に落着くなり、その動作を止めたのだ。
滞空したその身を緩やかに揺蕩わせながら、ゆっくりと高く、龍は鎌首を擡げた。
魅入られたようにそれを見上げていたジェイは、そして、彼女の前で続いていた激しい呪いの応酬が、何時の間にか止まっていることに気付かなかった。
彼女らに一矢報いんと繰り出され続けた無数の刺糸は、今やゆらゆらと水盤に座す本体の周りで蠢くばかりだ。それはまるで、目の前の小さな獲物などよりもよほど優先せざるを得ない強力な敵の出現に、切迫しつつある事態を予知し、備えているかのようだった。
つまり、
そしてエレもまた、視線こそ目の前のモスキートから放すことはないものの、攻撃はおろかカウンターとしての
そんな両者の緊迫した空気にすら気付く余裕もなく、巨大な金色の幻獣を振り仰いでいたジェイの唇から、思わず鋭く息を呑む音が漏れた。
龍が、僅かに首を引く。
そして再び突き出した首、その口が大きく開いたのだ。
音としては、ほんの微かな波長すら、何ひとつ彼女に届くことはなかった。
しかし、巨大な龍が咆哮をあげるのを、確かにジェイは感じたのである。
びりびりと肌を通り越して、神経に、筋肉に、内臓に、骨に、強烈な波動が叩きつけられる。痛みに限りなく近い衝撃に、反射的に身が固く縮こまる。
次の瞬間、大地が跳ね上がった。
不意を突かれ、身構えるどころか身を固くしていたジェイは、たまらず弾き飛ばされた。
大地に叩きつけられる───刹那、燐の光がその身に滑り込む。
ふわり、と一瞬の浮遊感の直後、ジェイの体は大地にそっと着地した。
もっとも、姿勢の制御までは叶うものではない。尻もちをつくように着地したジェイは、下から突き上げる強い大地の震動に、そのまま横倒しになってしまった。
それでも肘をつき、心臓が止まりそうな冷たいものを背に感じながら、必死で上体を持ち上げる。
目に見えぬ巨大な鉄槌が振り下ろされ続けているかのように、島全体が海面に沈み、そしてその反動で跳ね上がっている。そうと錯覚しそうなほど強い揺れが、大地を、木々を、建物の在外を鳴動させている。
もっとも、爆発音のような轟音によって、それらは麻痺しかけている彼女の聴覚に届くことはない。
幾千ものモスキートの白光の刃が踊り狂っている。
燐光を纏ったエレは、それでも片膝、片手を大地についたままの体勢で激しい揺れを凌ぎながら、敵を見据えて退こうとはしていない。
金色の光の世界。
巨大な龍。
激震する大地。
生命の危機どころではない。あまりにも人間が理性を保つには難しい、絶命を確信する異様な世界に、それでも少年は一歩も引こうとはしていなかった。
そしてジェイは、耳を聾する轟音や大地の激しい振動、そうした強大な反動を起こした龍の咆哮が、それでも自分達───エレや彼女らを取り囲む宮殿跡に直接の暴虐を及ぼしてはいないことに気付いた。
だから───振り向いた。
龍が咆哮を向けたその先、彼女らの背後に。
未だ黒煙と炎をあげる建物の向こうに、まるで噴煙のように……それこそ高くそびえる山々のように、土煙が激しく舞い上がっていた。
龍の陣内に囲い込まれた宮殿以外、島の全てが爆撃を受けたかのように……あるいは、火山の噴火による土石流のように、降り注ぎ四方へと驀進する大量の土砂が、未だ大地を揺さぶっているのだと、ジェイは嫌でも理解せざるを得なかった。
燐光の護りの中にあっても身が竦むような、圧倒的な力の暴虐。
肘で僅かに体を起こした状態のまま、ただただひたすらに身を固くして、ジェイはそれを見つめるばかりだった。
地獄絵図。
その永遠にも思えた黒い奔流が、ゆっくりと鎮まっていく。
大地の揺れも微かなものへと変わっていくのを───あるいは、それは未だジェイの内で引き摺られる錯覚かもしれず、とうに振動は収まっているのかもしれないが───感じながら、身動きも出来ないまま彼女は息を呑んだ。
虐待され続けた世界が、そして、変容し始めたのである。
目の前にひらひらと、金色の何かが降ってきたのだ。
それは───花弁のような形の何かだった。
花弁のような大きさ、花弁のような薄さ。けれど、決して花弁ではない、
のろのろとジェイは上体を起こし、けれど立ち上がることも出来ず、ぺたりと大地に座り込む。
その頭上から、ひらひらと、ひらひらと、絶え間なく何かが降ってくる。
花吹雪のように舞い降りるそれが───エレの燐光の護りを易々と通り抜けて降ってくることに気付くまでもなく、ジェイには、その儚く美しく見えるそれが、恐らく途轍もない力を秘めた何かであることを悟っていた。
それは、ジェイの内のモスキートの欠片によるものか───あるいは、無力な人間としての本能のようなものか、もはや彼女には考える術さえもなかった。
ただ呆然と、降りしきるそれを見上げる。
エレの護りを潜り抜けて彼女に触れる金色の花弁が、決してジェイに力を及ぼすことはないだろうと……根拠のない確信だけが、完全にキャパシティーを越えて思考する余地もない彼女の内にあったのが、不思議だった。
「え……?」
突然、見上げる上空に幾筋もの閃光が疾った。
金色の光に満ちた世界で、新たに空を駆け抜けたそれをジェイが見分けることが出来たのは、感じ取れる光の性質の違いによるものだったのかもしれない。
漂い、世界に充満する
天を蓋で覆うが如く、幾筋もの閃光が折り重なってひとつの大きなドームを作り出していく。そんな光景が目の前で展開していく。
それを展開している
「───っ⁉」
半ば頭が真っ白になっていた彼女でさえ、瞬時に我に返らざるを得なかった。
土煙と飛び散る瓦礫が鎮まったその先、龍の咆哮によって抉られ、破壊の跡しか残っていないはずのその地に、数限りない金色の蓮の花が開いていた。様々な高さにその茎を伸ばした大輪の花の上に……そして、無数の仏が佇んでいたのである。
絵画や彫刻で見る造形の、けれど、その身はどう見ても創られた
ましてや幻と言うには、あまりにも輪郭が明瞭すぎる。
この世界の
宗教上のそれとは言い難いが……それは、確かに『仏』と呼ばれるべき存在だったのである。
人の手の届かない次元に属する数多の仏が、光の天蓋を編みこんでいる。それは、なんと美しくも恐ろしい光景だっただろう。幾重にも重なった閃光は、ゆっくりとその姿を変え、まるで木の根のように四方八方へと伸びていく。
そして……天に、無数の蓮の花が逆さまに開き始めたのだ。
天蓋の花が、その花弁が、振ってくる。
世界を変容させた
それは、極楽絵図というべきなのだろうか。
僅か数瞬前に、地獄絵図が広がったばかりだというのに?
それでも、その峻厳な光景に……人の手の届かない神々しい光景に、ジェイは心ならずも見とれてしまっていたのである。
至福の金の光。
特定の宗教に帰依しているわけでもないジェイでさえ、その畏怖すら感じさせる光景に心を奪われざるを得なかったのだ。
───あるいは、かつての開祖と呼ばれる者達も、もしかしたらこんな世界の理の外にある光景に触れたことがあったのかもしれない。
ふいに、その意志ある光が一筋、彼女達の目前に滑り込んできた。
まるで先程の龍のように、地表近くを疾走し、ジェイやエレと、モスキートとの間に新たな光の壁を築く。
一瞬にして、大気中の光と溶け合ってしまったそれが、けれど、確かに自分達の周りを覆い続けていることを、ジェイは直感した。
緩やかな波動に包み込まれている。
その感触が、確かに彼女の内のどこか、五感とは全く別の何かに触れている。あるはずのない感覚が、それでも己の内にあることを嫌でもジェイは自覚せざるを得なかった。
溢れる金色の光。その内に潜むあらゆる波動を、感覚的に区別する。五感で感じる至福とは別の、意図と指向を。
そして、今彼女らを覆い囲うこの光から……ジェイは、遮音の意図を感じ取っていたのである。
聴覚は、ほぼ麻痺しているに近い。それでもわざわざ彼女達の耳を塞ぐ意図を持つその意志を……その理由を、直後にジェイは思い知ることになった。
龍の巨大な頭部が再び後ろへと引かれたのだ。
そして。
巨大な金の竜巻が再び荒れ狂ったのである。
まさに、荒れ狂ったのだ。
音にならぬ咆哮をあげた鋭い口が大きく開かれ、無数の牙が剥き出される。その獰猛な意志が躍りかかった先を振り返って、ジェイは息を呑んだ。
未だ黒煙と炎をあげる宮殿。いつの間にか、その前にはたくさんの男達が転がり出していたのだ。
逃げ惑う彼ら諸共、龍の大きく開いた口が崩れかけた建物を噛み砕く。
遠く、小さく見える男達の姿をはっきりと見ることは出来ない。それでも、赤くしぶく血がわかるほど……その大量の血と、食い千切られる人体が飛び散る様を視認することは出来てしまったのだ。
繰り返し、繰り返し、龍が躍りかかる。
───断末魔の絶叫だけは、聞こえなかった。
今更、目を閉じることさえ出来ず……そんなことすら思いつかず、呆然と遠い惨劇を眺めながら、ジェイは自分が泣いていることにすら気付かなかった。
飽和した恐怖と、畏れと。
眺めていることしか出来ない無力感と。
座り込んで、ただ自分でも知らぬまに涙を流すしかなかったジェイの琴線を、再び何かが弾いた。
「!」
振り向いたジェイは、エレの小さな背中の向こう───燐の護りに阻まれながらも、狂ったように叩きつけられる無数の糸状の白刃を見た。
金の光が満ちてから、僅か十数分のこととはいえ沈黙していたのが嘘のように、手負いの獣の如き勢いでモスキートが彼女らへの攻撃に転じていた。
それはまるで、彼女達を取り込むことが唯一、
目まぐるしく襲いかかる刺糸を、悉くエレが弾き落とす。
息もつかせぬ攻防は、しかし、突然乱入してきた新たな力によりその均衡を崩された。
先程の龍のように、先程よりもよほど強い意志を帯びた金の光が両者の間に滑り込んだのだ。
世界を満たすそれよりも、なお一際眩く輝く金色の帯が、モスキートと彼女達の間を阻む壁となる。
白く鋭利な刺糸は、その
そして。
金色の
決してモスキートから視線を外そうとはしなかった少年は、今や泣きそうな表情を隠しもせず、ジェイの背後をひたり、と見つめていた。
その時の声を……様々な思いが籠められていたその声を、ジェイが一生忘れることはないだろう。
「ニーオ!」
弾かれたように、ジェイもまた振り返った。
黄金に眩く輝く、無数の蓮上の仏達。
天蓋の花。
再び宮殿を囲い、全てを睥睨している巨大な龍。
無残な姿を晒して、金色の大地を赤く染めて埋めつくす、屍の群れ。
聖と邪。
静謐と暴力。
相反する世界で、人の理から外れた世界の直中で、ひとりの男が歩み寄ってくる。
その足取りは、ともすれば覚束なく瓦礫に取られそうになる。エレが使役する男達よりもよほどその動きがぎこちないのは……彼が生きているからだ。
かの屍達とさほど変わらぬ───全身が血に塗れ、着ている服も原形を留めていないその姿は、いっそ彼らよりも酷い程だ───生きて、動いているのが不思議な程の状態で、時折よろけながら歩いてくる男が、どれほど酷い惨状を潜り抜けてきたのか、想像することも出来ない。
赤黒く染まった全身に反して蒼白な肌は、おそらく無数の傷に覆われているだろう。
それが、あの時の爆発で受けたものだけだったのか───この美しく、同時に荒々しい世界を渡ってきたことによるものなのか、ジェイにはわからない。
ただ、痛々しいなどと生易しい言葉で表せるものではない男の姿に、息を呑むだけだった。
それでも、彼の姿に恐怖を覚えなかったのは……灰色の瞳が、彼女達を見つけて和らいだ、その気配を感じたからだった。
ニーオだ。
エレの
座り込んでいたジェイの傍らを、エレが走り抜けた。
決してジェイの前から動こうとしなかった少年が、まるで親を見つけた迷子のように脇目もふらず、男の元に駆け寄る。
金色の壁が彼らを囲っている以上、モスキートの攻撃はジェイには届かない。そうと理解しているからこその、絶対的な信頼がその行動に透けていた。
あるいは。
たったひとりでジェイを守り続けた少年の、心細さと、相棒への心配や不安が。
力なく座り込んだまま、だからジェイは、小さく笑った。
止まらない涙が膝を濡らすことにさえ気付かぬまま、ただ笑って、そっと細心の注意を払って、それでも彼の無事を確かめずにはいられないようにニーオに触れるエレを見つめていた。
───そして、そのまま少年が地に崩れ落ちるのを。
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