第二章-2:あたしと悪魔と最終兵器-9

 悪魔が口を開く。めぇ、と、さっきまでの叫び声からは信じられないような鳴き声が聞こえた。そして次の瞬間から、見る見るうちに悪魔の身体が小さくなっていく。大きな羽、長い手足、尻尾が縮み、地面へ降りていく。身体が丸っこく変化していく。そして最後、とすん、と足をつけたそれは、真っ黒な、ふっわふわのヒツジだった。……可愛い。

 もう一度めぇ、と鳴き、ヒツジが軽やかに、嬉しそうに、明日香ちゃんの元へ向かっていく。明日香ちゃんはため息をついて、中腰になり、やってきたヒツジのおでこをぴんっとはじいた。

「こら、シェラタン。エクソシスト二人はいいとして、わたしの友達に酷いことしちゃだめでしょ」

「めぇ」

「分かればよろしい」

「めぇ」

 明日香ちゃんが受け入れるように手を広げた。あ、と思ったときにはヒツジが明日香ちゃんに触れ、――触れたところから吸いこまれるように、消えた。

「さて」

 ううん、と身体を伸ばし、明日香ちゃんが立ち上がる。そしてあたしの方を見て、あ、と声を上げた。慌ててぱんっと両手を合わせ、困ったように笑って舌を出す。

「ごめんねのばらー、怖い目に合わせちゃって」

「……いや、あの、明日香ちゃん、今の」

「でもねー、のばらも悪いんだよ! いきなり最終兵器を持って逃げちゃうなんて! シェラタンには『最終兵器を奪うように』って指示しかしてなかったから、のばらを追いかけて行っちゃうし、本当に焦ったんだからね。もう、明日香ちゃんはぷんぷんですよ!」

「そうじゃなくて、明日香ちゃん、あの、だから」

 一体何を言ってるんだ明日香ちゃんは。助けを求めて、あたしは扉の所に立つ二人を見る。高橋は緑の目を細め、伊吹さんは手すりを掴む手に力を込めて明日香ちゃんを見つめていた。伊吹さんが舌打ちする。

「……ああ、そう。予想はしていたけれど、あなた」

 伊吹さんの言葉を聞いて、明日香ちゃんが振り返り、二人と向かい合った。

「やっぱり魔物だったのね。羊の魔物シェラタンを従えているということは、その頭、ハマルか」

「それは負け惜しみじゃなくて?」

 明日香ちゃんは、身体の後ろで手を組んで、普段と全く変わらない調子でそう言う。あたしからは背中しか見えないけれどきっと、少し上目遣いの、いたずらっぽい笑顔を浮かべて。

 かちんときたのか、伊吹さんがじろりと睨み返す。

「違うわよ」

「でもさっきわたしを見て、初瀬さん危ない、って言わなかったっけ?」

「悪魔がいたから心配してあげたのよ。あなたと悪魔が仲間だとは、さすがに思っていなかったから。……というか、気付かない方がおかしいでしょ。自称『静電気体質』だったかしら? まあ確かに、魔物とこの世界との存在のずれによって発生する現象は、静電気あるいは炭酸水の感覚に似ているけれど……その言い訳、夏はどうしていたの?」

「夏も、静電気体質、で通せてたよ?」

「……へえ。皆に怪しまれなかった?」

「ちっとも」

「あら、そう。けれどさすがに、わたしには触れなかったわね。この二年間、一度も。確証を得るために巫女バイトの時に試してみたけれど、……甘酒、飲むって言っていたのに、わたしが両手で、どう受け取ろうとしてもわたしに触れてしまうように器を持っていたのを見て、やめたでしょ。エクソシストに触れれば、『静電気』どころじゃ済まないものね?」

「でもすごくわざとらしい持ち方だったから、触れずにすんだよ? ありがと、花折ちゃん!」

「……どういたしまして」

 口の端を持ち上げて笑う伊吹さんに向かって、明日香ちゃんはふふっと笑って肩を揺らす。その視線は次に高橋へ移った。

「あーあー、高橋先生、やたらと怪我しちゃって。エクソシストだからどうでもいいんだけど。でも、準備もなしにシェラタンと一対一で戦ったんだって思えば、上出来だね!」

「それはどうも」

 高橋が手を後ろへ回して伸びをし、顔をしかめる。

「まあ、どちらかというと、悪魔が出てきたときよりも、のばらが突っ込んできたときの方が余程焦ったからな」

「あはは。だってさ、のばら」

 明日香ちゃんがくるりと振り返った。さっきまで伊吹さん相手に挑発して、高橋「先生」相手に敬語を使わなかった明日香ちゃんが、あたしを見て、いつも通りに笑っている。

「……あ、明日香ちゃん」

 そしてふと我に帰り、明日香ちゃんを指差し、叫ぶ。いやいや、ぽかんと口を開けて明日香ちゃんを見てる場合じゃない!

「明日香ちゃん、魔物なのー!? なんで!?」

 なんか、昨日は明日香ちゃんの代わりに伊吹さんを指差して、同じようなことを言ってた気がするんだけど! どうなってんのよあたしの周り!

「どういうことー!?」

「まあまあ、落ち着いてのばら」

 魔物の明日香ちゃんが、あたしを抑えるように両手を動かす。

「そんなこと言われたって、お、落ち着いていられるわけっ……」

 近寄りがたい表情の伊吹さんには話しかけられず、あたしは高橋に視線を移す。

「た、確かに静電気体質ではあったけど、しかも結構強い静電気体質で東先輩がよく文句を言ってたけど」

 あたしの口から出た言葉が、そのまま混乱する頭に逆戻りしていく。そう、冬だけじゃなく、夏でも明日香ちゃんは「静電気体質」だった。デネボラやミラ、魔物の傍にいると感じる「静電気」と同じ……。

「で、でも明日香ちゃんは中学校に入学してからずっと同じクラスの友達で」

 ……そう、明日香ちゃんは同じクラスの……あれ、同じクラス……だっけ。二年生の四月、「同じクラスだね!」って明日香ちゃんは飛びついてきたけれど、あたしは見た覚えが……ない。だってあたしは、名簿番号三十二番、原のばら。あたしの前の、三十一番は? ……根岸くんだ……そう、クラス替えの表を見て、「ねぎし」と「はら」が連番だから、「はせ」の明日香ちゃんは違うクラスだって思ったはずなのに、その直後に飛びついてきた明日香ちゃんと話すうちに、そんなことすっかり忘れて同じクラスだねって喜んでた。みんな、そう。机が一個足りなくても、プリントがいつも一枚足りなくても、なんでだろうって言いながら、その原因を気にしたことはない。だって明日香ちゃんは、すごく自然に溶け込むのだ。巫女バイトでもいつの間にか溶け込んで、ちゃっかり絵馬に金運上昇なんて書いてるくらいに。

「で、でもデネボラみたいにすり抜けたりしたことなんてないしっ……」

 ぱくぱくと喘ぐように最後の砦を訴えると、伸びを終えた高橋が、いつもの無表情で口を開いた。

「中学校に入学してから、ということは少なくとも二年、この魔物はこちら側にいたということになる。それだけの期間こちら側……こちら側の存在しかいない場所にいれば、影響を受けて、存在がこちら側に引きずられてなじみ、形を持つこともある。すべてがそうではないだろうが、少なくとも、常に曝されている表面なら」

「そうでっす! さっすが高橋先生っ」

 明日香ちゃんがぐっと親指を立てる。最後の砦はごく軽い調子で爆破され、粉々に崩れ落ちた。

「だが」

 返事が軽すぎる明日香ちゃんを、高橋は右手を一度握ってから鋭い視線で見据える。

「二年以上もこちらにいた、というのは、……何だ?」

「どういうこと、高橋?」

 不穏な空気に、思わず尋ねると、伊吹さんが口を開いた。

「ただ迷い込んだ魔物、というわけではないでしょうね。『裏』から魔物が迷い込んだ場合、エクソシストがそれを発見し『裏』へ帰す、もしくは一時捕獲するまでの平均所要時間は六時間。……少なくとも二年間、わたしたちに見つからずこちらに居続けたということは、『うっかり迷い込んだ』ような魔物じゃない。何らかの目的があって自らここにいて、わたしたちに見つからないように行動しているということよ。さて」

「何を企んでいる?」

 二人の右手が僅かに、けれどはっきりと動く。

「吐かせるのは得意よ、わたし」

 さっきの苛立ちが残っているのか、伊吹さんの唇が弧を描く。左手が手すりを掴んでいるのを含めても十分に怖すぎる! っていうか何する気だ伊吹さん! このままじゃ、明日香ちゃんが伊吹さんに、何か分からないけど何かされてしまう!

「ちょ、ちょっと待って待って待って!」

 さすがにこの伊吹さんはまずいと思ったのか、声の裏返った明日香ちゃんが、両手を前に突き出して制止させようとする。

「確かにわたしは、自らの意志で二年ほどこっち側にいるけど、でもそれは仕方がないことなんだってば!」

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