第33話

 蒸し暑い風が張り付くような熱帯夜。悪戯でラップでも張り付けられているかのような不快感を、行灯が照らすどんちゃん騒ぎの中でどれだけの人が気に病むだろうか。


 人混みは苦手だ。色々な臭いが混ざって鼻が曲がりそうになり、何よりも雑多に聞こえてくるまとまりのない内容の話が、濁流のように頭の中へ入り込んでくるのがどうにも耐えられない。僕が絶対音感の持ち主で、これを全部楽譜の上に並べてしまえば著名な作家になれるのかもしれないが、生憎まだその域に達していない。


 では、一見無意味にも見える一人我慢大会をどうして敢行しているのかといえば、お姫様が照れ屋だからだ。


 僕も大概、ロマンチストだと思う。


「前やん、お待たせ。」


 星野が来た。ということは、女性陣の準備ができたという事である。僕は適当に「あぁ。」とだけ返事をして、その姿を探した。


「何?やっぱ上杉さん気になる?」


 僕の視線に気づいた星野が、悪戯っぽく口調を持ち上げた。


「落ち着かないな。あれの晴れ着を見るのは実は初めてだ。」


「へぇー、そうなんだ。前やんならしこたま見てるもんだと。」


「……そうそう見せないさ。上杉も今日みたいなサービスは得意じゃない。」


 こいつもそうだが、クラスのリア充共の中で僕らは一体どうなっているのだろうか。まだキスしかしてない健全な付き合いだと言うに。


「ほーう、わかってるなぁ。さすが似た者夫婦。」


「囃すな。それに似た者同士だったら誰が暴走を止めるんだ。」


「ははっ、確かに俺にはちょっとしんどいかも?」


「君に期待はしないさ。大人しく遊んでいるといい。」


 さすがに少しウザいと思っているのが表に出てしまっただろうか。星野はそれ以上僕をからかうのはやめた。


「……それで、どうなんだ?」


「どうって、何が?」


 少し遠回しに尋ねてみたが、伝わっていない。わかっていてやってるのか、素なのか。こいつのこういう所はちょっとわかりにくいから嫌になる。


「着物姿は見合い事件の時に見たんだ。あれと浴衣は全く違うんだろ?」


「ん?あぁ。そりゃもう、もし前やんが付き合ってるって知らなかったら、速攻コクりに行ってるぜ。」


「そして撃沈か。しかしそうじゃなくて、具体的にどんな感じなんだ?」


「結果をあっさり言うなよ。……って言うか、無理だぞ。あれを言葉で表現するの。レベルが高すぎて本当にいいの?って感じ。」


「……そうか。それほどか。」


 星野なら適当に、綺麗、かわいい等々の感想を並べると思っていたが、そういうのが失礼に思えるぐらいの程度らしい。


 より一層、期待が膨らんだその時に、真後ろから甘美な椿の香りが漂った。


「お待たせ、前崎くん!」


 後ろから、ではなく星野の背後から手を振る立花が、星野のグループの女子たちと共に現れた。赤い下地に白黒の菊の花を大きくあしらった柄の浴衣は、いつものあどけない立花の風貌を少しだけ大人っぽく演出していて色っぽい。行灯に照らされて少し橙色がかかった白い帯も、今日は大人びた姿を心掛けた立花の魅力を底上げしている。


「えへへっ♪どうかな?この浴衣。」


 駆け寄ってきた立花は気前のいい笑顔だが、それを僕に聞く辺り自分でも気に入っているのだろう。


「そうだな。ナンパには気を付けた方が良い。」


「ん~?それって褒めてるの?」


「魅力のない相手を好きになるやつなんていないだろう?」


「それはそうだけど……もうちょっとはっきり言って欲しいかな?」


 袖を持ち上げて、その場でくるりと回って翻して見せる。なにか、ふわりと甘ったるいものが周囲に舞って、さながら揚羽蝶と言ったところか。


「あぁ、凄く大人っぽい。色気があるな。」


 そう言うと、どうやら待っていた言葉とは違ったらしく、立花の顔が仄かに赤みを帯びて頬が膨れた。


「……もう、それってセクハラだよ?」


「君は僕を追いつめて何がしたいんだ?」


 精一杯、語彙力の持てる限り褒めたつもりだが、そもそも大事な言葉はかけるべき相手の為に残しておかなければならないというのに、他にどうしろと言うのだ。


「うーん、フラれた仕返し?」


「今度はもっと性の根のいいやつと付き合うといい。」


 やられた仕返しにせめてもの皮肉を言っておくと、立花はうっすら瞼を閉じて微笑んで見せた。


 そこに少し寂しさがある気がしたのは、気のせいだという事にしておかなければならない。


「……それで、上杉は?」


 それはそれとして、何故だか肝心の人物が見当たらない。この期に及んで浴衣姿が恥ずかしいなどと言うタマではないとは思うが、悪戯のつもりだろうか。


「あ、うん。ちょっとね……。」


 辺りを見回すと、立花が不自然に黙り込んだ。


「……なんだ?今更もったいぶらなくてもいいだろう?」


「ううん、そうじゃなくて。……迎えに来て欲しいんだって。」


「は?待てと言ったのはあっちだぞ?」


 どうも支離滅裂な行動が好きらしいおてんばなお姫様は、天邪鬼でも気取って楽しんでいるのだろうか。


「あ、そうなんだ。てっきり前崎くんがせっかちだからなのかと。」


「僕が待ちきれるわけないだろう。そのために来たようなものだぞ。」


「水着と浴衣を見るために無理してこんなところまで来るなんて、前崎くんのエッチ。」


 どことなく立花に「エッチ」などと言われると心が揺らぐが、そんな邪な気でいると後ろから殴られそうなのですぐに振り払った。


「まぁそれなら、早く迎えにいってあげてってば!」


 立花に肩を掴まれ、困惑しながら突き飛ばされると、渋々足を宿の方へと向けた。


「……澄玲ちゃんをよろしくね、前崎くん。」


 最後にそんなような言葉が聞こえたのと、聞き慣れた若者たちの雑音に、立花のはしゃぐ声が溶けていくのを背に、行灯の明かりから離れて行った。




……………………………。



 祭りの喧騒は遠く、鈴虫のその気が盛る月夜を歩いていく。円天に満ちた月は薄暗く夜道を照らし、小川のせせらぎが弦を引いては、鼓膜をくすぐる心地よさで満たしてくれる。


 これに蛍のいる風景なら、この世の贅沢を机上に並べたような景色にでもなるのだろうが、そうはいかないらしい。


 そう不貞腐れていると、人並の高さのある石灯籠の後ろで、月夜に輝く美しい黒髪を持った人影が、おどおどしく動いていた。


「こんなところで何してる?」


 まだ目的地の旅館までは距離があるが、それでもその美しい黒髪を見間違えるはずもなかった。思えばこんな月夜にこの髪を見るのは初めてかもしれない。太陽の下で輝くのとはまた違って、風情の中に秘められた艶やかさがある。


 その色に見惚れていた。そう言い訳すれば誤魔化せるだろうか。


 僕の声に反応して、少しばかり慌ただしくその姿を晒した彼女の戸惑い顔に、油断していた心臓がとくんと、まるで全身の血液を押し上げるかのように大きく跳ねた。


 夏の世の薄明かりを邪魔せず、しかし確かな存在感を放つ藍色には、海原にしなりを打つ波と青々と広がる丘を同時に表現した模様が、白色一つで体現されている。


 華やかな柄もいいが、やはり上杉にはこういう奥ゆかしさのある色と柄がよく似合う。そう思うのは、僕が彼女にそういう理想を抱いているからだろうか。

 

「……寒くないか?」


「……初めて彼女の浴衣姿を見て、真っ先に浮かんでくる言葉がそれかしら?」


 緊張から頭が変な方向に回り始め、いつもの気の利かない皮肉染みた感想には溜め息で返されても仕方がない。


 だが、僕がそう言うのにはもう一つ理由があった。


「いや、顔色が悪い。日中に張り切りすぎたせいか?」


 こんな月明かりでも具合が悪そうだとわかるのは、少し彼女を見つめすぎたせいだろうか。いつも白い肌にうっすらと、夜空の蒼ではないそれが乗っている。額が妙に照っているのは寒気から出た冷や汗だろう。


 夏の太陽に当てられて体調を崩したと言えば可愛げがあるが、恐らくそうではない。


「……気のせいよ。こんな夜空で顔色なんてわかるはずもない。」


「慣れない草鞋に足が悲鳴を上げて、立花もおらず一人残されて心細かったか?」


 たぶんそうだと思ったら、上杉の瞳がとろんと垂れて、頬が僅かに膨らんだ。


「素直に待っていれば迎えに行くものを。」


「…………。」


 草鞋を片足脱いで石灯篭にもたれかかっていた辺り、指の間でも痛めたのだろう。大人しくサンダルにしておけばいいものを、変な所にこだわって怪我をしては元も子もない。


「なんで待っていなかった?僕が信用できないか?」


「だって……。」


 問い詰めるのは気が引けたが、今後のためにも念を押しておくべきだ。言い返せずに弱っている上杉は、どうにも嗜虐心をくすぐっていけない。


 そんな自分を隠すためか、上杉は僕の腕に飛びついて、華奢だがはっきりとした質感のある体を摺り寄せる。


「早く……見て欲しかった。待たせるのは悪いと思って……。」


 そう言うと、恥ずかしげに僕の肩に赤らんだ頬を隠す。


 ……いや、その言い方はずるいだろう。


「……そうか。」


 褒めるつもりが、意表を突かれたせいで言葉に詰まってしまった。


「……行こうか。歩けるか?」


「……このままでもいいかしら?」


 僕は無言のまま、そう言って体を預けてくる上杉の腰に手を回した。


「歩きづらいのなら背負うが?」


「……いえ、このままがいい。」


「……そうか。」


 空気が堅い。だが嫌じゃなかった。この不器用さが僕達なのかもしれないと、言葉少なのまま夜道を歩いていく。


 本当なら無理やり言い聞かせてでもおぶってやるべきなのかもしれない。でも、僕が上杉の立場なら、きっと同じことを言っただろう。


 できるなら、二人でいる時は隣で歩いていたい。


 上杉も同じことを思ってくれてると、僕は勝手に舞い上がっていた。


「……もう少し、速くてもいいわ。」


「いいじゃないか、ゆっくり行けば。」


 縁日の入り口に差し掛かったところで、上杉がふいにそんな事を言った。怪我をしているのだから、そんなに無理はしなくていい。そんな気の持ち様で、僕は歩幅を小さくしていた。


「……花火に、遅れてしまうわ。」


 それが気苦しくなったのだろうか。小学生の言い訳にもならない理由は、相変わらず素直じゃない。


 いつもなら気にならないが、なぜか今日は気に障る。


「縁日を楽しむのもいいじゃないか。何か食べるか?」


「そうだけれど……でも……。」


「でも、なんだ?」


 何故だか、今の上杉ははっきりとせず気持ち悪い。照れ臭いのか、それとも気を使っているのか。どっちつかずなその態度が、いつもの強気な態度とうってかわって弱々しいので、つまらないのかと思ってしまう。


 そうじゃないのがわかっていれば余計に、だ。


「……ねぇ前崎君、私達、付き合っているのよね?」


「……あぁ、そうだな。」


 何を今更にと、正直に呆れていた。だが上杉の握る腕の力が強まったのが、僕の気を引いた。


「なら……これは初めてのデートでいいのかしら?」


 目を丸くしたが、咄嗟に記憶の引き出しをあらかたひっくり返した。


 言われてみれば、小さな空間でお互いの気持ちを満たすことは繰り返してきたが、外に出てこうして歩くのは初めてなのかもしれない。以前にあったのかもしれないが、こうして催しものを二人で満喫するのなんて、僕の記憶には無い。


「……もしかして緊張してるのか?」


 そう問いかけると、上杉の丸々とした大きな瞳が開いた。


「……くくっ。」


「~~~~~~~~~~ッッ!!?」


 我慢などできるはずもなく、すぐに真っ赤に茹で上がった上杉に、二の腕をつねられ抗議される。


「君のそんな顔を見られるなんて、無理はしてみるものだな。」


「……いつか必ず仕返ししてやるから。」


 少し口調が幼くなったのは、やっぱり照れているからなのだろう。彼女を綺麗だと思ったことは何度もあるが、かわいいなどと思うのは珍しい。


 自然に、艶やかな黒い髪の流れる頭を、撫でてしまう。


「ン……っ。」


 甘い声で、喉を鳴らす。それがまた愛おしい。


「いいじゃないか、見せつけよう。僕らがこの中で一番関係が深いのだと。」


 周りは浴衣デートなのかカップルだらけ。友達同士で来ている僕らや立花たちの方が珍しいぐらいだ。みんながどこにいるのかはもうわからないが、きっとこの祭りを楽しんでいるだろう。


 だから僕らは僕らで、楽しめばいい。僕らなりの楽しみ方で。


「それに、雑踏の中を真っ直ぐ進むなんて、二人じゃなきゃできないことだからな。楽しみたいんだ。君と、二人で歩く景色を。」


「……そうね。風情を楽しもうという気が、少し足りなかったわ。」


 僕は上杉をもう一度強く抱き寄せながら、拙い歩き方に合わせて一歩一歩、縁日を通り過ぎいていく。何か買おうかとも思ったが、花火の帰りでも縁日はまだ残っているので、それからにすることにした。別に、帰りにどこかへ寄ってもいいだろう。


 ゆっくりと、時間が過ぎ去っていく。


 気づけば花火の時間までもうすぐに迫っていた。僕らは人混みを離れて、花火のよく見える穴場へと向かう。


 小高い丘の上にある神社、そこは花火の絶景スポットであり、恋人たちの告白スポットでもある。


 もちろん、僕らがそんな場所に行くはずもない。


 僕らが来たのは、その神社から少し離れた場所にある、小さな社にお地蔵さんが一体入った開けた所。石造りの腰掛は三人分ほどスペースがあるが、あまり人は寄り付かない。


「罰が当たらないかしら?こんなところでリア充してしまって。」


「そんな野暮な事するぐらいなら、お地蔵さまになんてなれないさ。」


「ふふっ、それもそうね。」


 そんな他愛もない会話で、僕は自販機で買った110円のミネラルウォーターを手渡した。ようやく座る事の出来た上杉は、脚の痛みから解放されてリラックスしながら脚を伸ばしている。


 そんな上杉の、すぐ横に座る。


 不思議な感覚だ。あんなに遠いと感じていた彼女を、今はこんなにも近くに感じる。


「……どうしたの?」


 感傷に浸る僕を、上杉は懐疑的な表情をして見つめた。


「……手でも、繋がないか。」


 そう言って掌を差し出すと、上杉はそっと指を、僕の掌の上に重ねて微笑んだ。


 花火が始まる。


 どぉんという破裂音が、心臓の中でこだまする。時折聞こえるひゅるひゅると花火の打ちあがるのが、どこかもどかしい気持ちにさせられる。


 赤や青、緑や白、金色の火花が弾けて空の闇に溶けていくのを、何度も何度も二人で見つめた。


 強く、握った手を握り締めて。


「………………上杉、いや澄玲。」


 ふとその名前を呼んだ。気づいた上杉がこちらを振り向いた。


 北条さんの一件も終わり、僕らは出会ってから、一番落ち着きのある時間の中にいる。いろいろな事に追われて、その全てをどうにかこうにか乗り越えてきた。


 だが、僕らが関係を持つには、一つやり残したことがある。上杉がさっきあんなことを言ったのも、恐らくそれが理由だ。


(ねぇ、前崎君。……私達、付き合っているのよね?)


 今更こんな言葉は必要ないのかもしれない。今まで何度も、そんなようなことを言ってきた気がする。


 だけど僕は、あの桜並木の下の告白の返事を、まだ返していない。


 今更な気もするが、形として整えておく必要があるのだ。これを曖昧にしたままにするのは、きっと僕らのこの先の関係によくない影響があるだろう。


 だから僕は、今日この日を選んだ。二人で過ごした時間と、この瞬間を忘れないように。


 僕も大概、ロマンチストなんだろう。


「……澄雄?」


 不思議と、懐かしい感覚がした。まだ僕らが幼かったころに、そう呼び合っていた気もする。


 でもそうじゃなくて、ちゃんと、この先も二人が一緒に居られるように。


「……澄玲、僕と―」


 意を決して、固く締め付けられた唇を開いた時だった。


 地面が揺れる程の、心臓が口から出てきてしまいそうな衝撃を生んだ、今日一番の大花火。真っ赤に打ちあがった大輪は弾けた直後に青く変色し、ほんの瞬きをするまに金色に変わったかと思うと、パラパラと音を立ててしだれ花火へ変化していく。


 その一部始終が、皮肉にも僕の言葉が終わるまでの全てと、重なってしまった。


 上杉の焦りと不安に歪んでいく表情を見れば、それが伝わらなかったことは一目瞭然だった。


「……いや、またいつか、その時に言うよ。」


 自分でも驚くほど、諦めが付くのは早かった。花火に打ち消されてしまう程度の重いならば、きっとまだ足りていないのだろうと、そう理由づけてしまえば、いとも簡単に冷めてしまう。


「来年も、こうして見に来ようか。花火。」


 きっと、嘘くさい笑顔を浮かべているんだろうと思った。


 この場を誤魔化してしまいたいというのが、自分自身にも隠せていない。


 握っていた手を離して、立ち上がって、煙の舞う夜空に背を向けた。


「……待って!」


 その時、握った手が強く引かれた。上杉の涙袋が膨れ上がり、今にも溢れだしそうなそれが、僕の胸を強く締め付ける。


「今!……凄く大事な言葉を聞き逃した気がするの。このまま終わってしまったら、もう二度と聞けないぐらいに!」


 上杉のそれは間違いじゃない。同じことを言える日が、次いつ来るかなんてわかりもしない。僕らの関係からすれば、もう二度とこないかもしれないという事もあり得る。

 

 それがわかっているのにこの場から逃げようとする僕は、意気地がないとか、もうそういうのじゃない。


 それでも彼女は、待ってくれている。


「お願い……もう一度、もう一度私にチャンスをください。今度はちゃんと……答えてあげられるから……。」


 それは、僕が言うべきじゃないだろうか。君が涙を流してまで、背を向ける僕の腕を引いてまで言う言葉じゃない。


 ここまでしてくれる君に、かける言葉など見当たらない。


 泣いても、笑っても、蕩けても、僕の恋した君は美しい。


 君の影に潜む僕の姿など、霞んで消えてしまいそうなほどに。


「……一度、座り直そうか。」


 とにかく、上杉に気が落ち着けばいいと思った。心に建前を張り付けて、僕と上杉はもう一度、石造りの椅子の上に並んだ。


 正直、もうどうしていいかわからない。あれは嘘だなんて誤魔化せない。それができるならこんな場所は用意しない。肘の当たる膝が、のしかかる頭の重みでしびれそうになる。


 呆れるぐらい静かな夜空に、もう望みはないと天を仰いだその時だった。


 月だ。満点の光に満ちた明かりが、夜の蒼さをほどよく透かしている。林に遮られた星の広がる夜空の光の中で、それだけが一際大きく、僕らを照らしている。


 その輝きに、少しだけ勇気をもらった。


「月が。」


 僕がそう言うと、上杉がその視線の先を辿った。


 同じ場所で、同じ時に、同じ月を見上げる。今までやろうと思えばできたこと。でもそれは、決して僕一人ではできない。上杉が隣にいなければできないこと。


 僕はその手を、もう一度握り返した。


「月が、綺麗だな。」


 僕は上杉に、そう言った。


 上杉がどんな顔をしているのかはわからない。ただ握った手の強さと、段々と熱くなっていくその温度が心地よくて、月を見上げる上杉の顔が、一度だけ下に大きく頷いた。


「ええ、死んでもいいわ。」


 その言葉の後に、大粒の涙が一滴、上杉の頬を伝って繋いだ手の甲の上にぽつりと滴り落ちた。


 月を見上げていた僕らはもう一度見つめ合い、その瞼を閉じたり開いたりし合って、互いに微笑んで見せたりする。


 この言葉はきっとこれからの為にあるのではなくて、これからも、その為にある言葉なんだと思う。


 喧騒も静まり返った二人きりの月夜、僕らは少し、背伸びをするようなキスをした。

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