第32話

「……それで、どうするんだ?」


手入れのあまり行き届いていない植え込みが、湿った温い風にざわめいた。もう夏はすぐそこまで来ている。


立花は、なぜか影のある校舎側を選んだ。僕と立花で陰と陽を体しているように見えるのは、何か意図でもあるのだろうか。


「……前崎くんからそれを言うのは、ちょっと卑怯だよね?」


「……そうだな。」


お互い何を言ってもそう思えるだろうが、言わなくてもどのみち卑怯者だ。ならいっそ開き直ってしまおうというのは怒られるだろうか?


そんな気がしたので、僅かな言葉で肯定する以外には何もしない。


「そこで認めちゃうのって、凄くずるいと思う。」


「……あぁ、僕もそう思う。」


卑怯者同士がこれ以上何を言い合っても、指を指されないことなどないだろう。


立花は、機嫌が良さそうでなければ悪そうでもない。僕らのこの関係が始まって、それに上杉が焦って行動し始めた辺りから、この結末は何となく予想できていたはずだ。


それに、今更何の未練があると言うのか。


「……私さ、澄玲ちゃんには幸せになって欲しいと思ってる。」


「あぁ、何度も聞いた。」


「前は違ったけど、前崎くんならきっと大丈夫だって、思えるようにもなったよ。」


「そうか、ありがとう。」


「……だからちゃんと、この関係は終わらせなくちゃいけないって、前崎くんもそう思うでしょ?」


あぁ、それが上杉のためだ。なんて言うのは残酷だろうか。


前に話を切り出した時、僕の中ではそのつもりだった。思えばあの時、無理にでも押し切って終わらせておくべきだったかもしれない。


あの時から、立花の様子が少しおかしかった。


「……あーあ、結局前崎くんの思い通りになっちゃったなぁ。」


「……なぁ、立花。」


「本当にさ、ずるいよね。みんなには私が彼女だって言っておきながら、いつのまにか澄玲ちゃんとイチャイチャして。」


「……立花。」


「確かに薄い関係だけどさ、これでも傷ついたんだよ?私ってそういう魅力全然ないのかなぁ……とかさ?だから」


「立花。」


少し離れた距離を詰めて、僕は立花の肩に触れた。少し震えていて、冷たい。


そこに感情を抱けば流される。それほど今の立花は見ていられない。


「立花、僕の目を見て言え。」


呼び止めた立花の頬に手を当て持ち上げる。その直後に、胸が締め付けられるような感覚が押し寄せる。


眉が下がり、瞳が潤んで、血の気も引いている。彼女は今、この関係が終わることを悲しんでいるのだと誰でもわかる。


この関係に感情を抱いてはいけない。それはわかっていたはずだ。彼女は、それができなかった。その結末がこれだ。


これに何も思わないのは、本当に卑怯だと思う。


「……わかってる。何も言わないで。全部わかってるよ。だから何も言わないで、これで全部終わらせた方が幸せなんだって、ちゃんとわかってるから。」


どうにか笑って見せようと、口元が引きつっている。自分の気持ちを上書きしようと精一杯だ。


だが、それが余計に内に閉じ込めようとしている気持ちを溢れさせている。見てるこっちの方が辛くなるほどに。


もう何も言わない。立花はきっと、あの頃の僕の感情と同じなんだ。それを引きずってしまえば、それをやり過ごしてしまえば、彼女はきっと一生後悔する。


またその気持ちを抱けた相手に、同じ事を繰り返してしまう。


僕は卑怯者だが、彼女には誠実でなくてはならない。それが恩人への、僕にできる精一杯だ。


「……立花、ここで全部吐き出せ。ちゃんと受け止める。」


彼女には言う権利があって、僕には受け止める義務がある。


立花の解答は、僕を抱きしめる事だった。


「……もしも、もしも澄玲ちゃんと前崎くんがうまくいってなくて、私が自分の気持ちに目覚めていたら、違う結末があったのかな?」



……………………。



「どうしたの?前崎君。」


物思いというか、忘れられない瞬間に夢現になっていると、頬にキンキンに冷えたアルミ缶を押し付けられて目が醒める。


それも、黒髪ストレートのスレンダーボディに純白ビキニという出で立ちの、俗に言う「童貞を殺す」格好の美少女とあれば、醒めた目がまた酔いそうで意識が怪しい。


「……随分とまた、張り切ったんだな。」


「恥ずかしくて死にそうよ。」


「そうか。とてもよく似合ってる。」


「トドメを刺してどうするの。……一度死んできたら少しは気も紛れるかしら。」


「冗談に聞こえないからやめろ。」


「なら、隣で目立たないように隠してもらえるかしら?」


そう言うと上杉は、ナチュラルに僕の隣に腰を下ろす。パラソルの日陰に入れば幾分か注目は和らぐだろうが、隣にいる僕には色々と見えてしまいそうになり、殺傷力が跳ね上がっている。


「……………………。」


「何をしているの?」


「いや、エロい事を考えると鼻血が出るというのを試しているんだ。」


「妄想するぐらいなら触ればいいと思うのだけど。」


「やめろ。今触ったら間違いなく歯止めが効かなくなる。」


無防備にも肩紐を引っ掛けて、白い肌の豊かな丸みを見せつけてくるので軽く怒った。


こいつは本当に、僕がそういう気を起こしたら色々と終わるのがわかってないのか。


話は少し戻って、上杉に半ば脅迫された形で、行くことだけは決まっていた海に、僕達は訪れていた。もちろん電車で一時間の日帰りではあるが、翌日に花火大会も重なるという奇跡の日程を組むことができた。


とは言いつつも、いつもの三人ではないので、慣れない団体行動に参ってしまった僕は、みんなが楽しく浜辺で遊んでいるのを遠目に眺めている。


「前やーん!!んなとこで座ってないでこっち来いってーっ!!」


僕らが海に行くタイミングで、たまたま星野達と予定が重なった。僕らは晴れて夏休みを満喫するリア充の集まりに、公開処刑されることとなったのだ。


どのみち目的地が一緒なので遅かれ早かれこうなっただろうが、パリピなJKグループに情報漏洩してしまった立花には、責任を持って間を取り持ってもらわなければならない。私は一言も言ってないよ!と必死に弁明していたが。


「心配しなくても、ビーチバレーの時間までには回復しておくさ。」


叫ばず、頑張らず、大手を振って太陽の下に輝く星野に、僕は軽く手を振って応えた。


「まだ始まったばかりの夏休みとはいえ、やっぱり海は人が多いな。半年前の僕なら吐いてたぞ。」


「それは困るわ。あなたが吐いたら誰が私を介抱するの?」


「全然ダメじゃないか。もう少し人馴れしろ。」


「頑張って水着だけは着たのだから褒めて欲しいわ。」


「よく頑張りました。これでも羽織ってろ。」


上杉に羽織っていたパーカーを被せると、んっ、と子篭った声が漏れて、その美しいプロポーションが覆い隠された。


少し、勿体無い事をしたとは思う。


「……もう少し丁寧に扱って欲しいのだけど?」


「日差しも眩しいかなと思ったんだ。」


言い訳もそこそこに、浜辺で水をかけあったりしながらはしゃぐ星野や立花達を見つめる。


彼女の心の内に、どのような変化があったかはわからない。それでもあれは、あの涙は流させてはいけない類のものだった。


立花は、自分を語らない。僕がもう少し彼女に歩み寄ってあげられれば、もっと違った形で終わってあげられただろうか。


あげられただろうかなんて、そんな同情を抱いて欲しかったわけでもないだろうに。


「……ねぇ前崎君?菫花とは、結局何を話したの?」


「君だけを見つめると伝えたよ。」


「そう。……それだけ?」


「あぁ。」


上杉にはそう見えないのか、僕の解答には不満のご様子だ。


だが本当にそれだけだ。最初から、僕と立花の間にそれ以上の関係など無い。


だからこそ僕にはわからないのだ。なぜ立花が、あんな事を言ったのか。


「……菫花は、私のために色々なものを捨ててくれたわ。」


白い砂浜の向こうで輝くリア充達を見つめながら、物憂げな雰囲気を醸し出して、膝を抱えるように座っている上杉が、後ろめたさのある言葉を呟いた。


「くだらないいじめに遭っていたあの子を、私は偽善心を装った笑顔で近づいた。私はただ、持て余した時間を埋めたかっただけ。それでもあの子は、自分の時間も、友達も、家族も、気持ちも全部犠牲にして、私のためを第一に考えて傍にいてくれた。罪悪感から私は、できる限りのことをあの子にしてあげるようにした。」


普段の笑顔からは想像できない。上杉は、立花の裏側を知っている。彼女が誰にも見せない、彼女自身にももうわからないそれを、上杉はどんな風に見ているのか。


「私が塞ぎ込んだ時も、あの子だけは私を忘れないでくれた。変わらず傍にいてくれた。だからあの子が裏切るだなんて想像もできなかった。あの子も、そんなつもりはなかったと思う。」


立花が僕を呼び出して、二人が付き合うと言った時。確かに上杉があれ以上に動揺したのは覚えがない。二人の信頼関係は、それだけ強いものであった。


現にそれは傷つきようがなかった。立花はやり方こそ強引だったが、上杉のためにやったことだと一貫している。立花の意図を察したからこそ、上杉は特に気にすることもなかった。


それが立花の中でだけ、音を立てながら少しづつ亀裂を生んでいく。


本人には、どんな音に聴こえていただろうか。


「それでも、あの子があなたを本当に好きだったなら、どうか自分の気持ちに嘘はつかないでいて欲しい。例えどんな結果になってしまっても、私はあの子に……菫花に、傍にいて欲しいから。」


上杉は、自分が立花の人格を奪ってしまっているんじゃないか、そう思い悩んでいるのか。そうなってしまった立花に罪悪感を抱きながら共に居続けるのは、いつか共倒れになってしまう。立花に自分を失って欲しくないと言うのは、上杉自身が自分で精一杯だからだ。


立花が、上杉の事を考えて自分の気持ちを否定してしまうのを、上杉は恐れている。


「それでも、僕を譲る気はないのだろう?」


上杉は、肯定するかのように瞼を閉じた。


「酷い話だ。誰かを傷つけながら、自分を守って欲しいだなんて。」


上杉の言うことはただの身勝手だ。同じ相手に好意を寄せたとしても、その先には一人しかいられない。それがわかっていながら、一歩下がった場所にいて欲しいなどと、正気とは到底思えない。


だが二人の関係は、そんなやわなものじゃない。


「そんなのじゃないわ。私からあなたを奪おうと思うなら、病むのではなく、確かな覚悟を持っていて欲しい。それだけよ。」


遠慮から生まれる距離、背徳感から生まれる拒絶、そんなものに自分の愛を否定されたくない。


奪うのなら私以上の愛で奪って欲しい。それが二人が愛する一人を奪いあう、たった一つの守らなければならないもの。


「だから菫花の分まで、私の全てをあなたにあげるから。覚悟することね。」



…………………………。




僕は立花の頬を伝う涙を、指でそっと掬い上げた。


「それでも僕は、やはり上杉を選んだよ。」


立花の表情が、ゆっくりと柔らかくなっていくのを見届けて、涙を掬い上げた右手が柔らかな温もりに包まれる。


「……最低だよ。前崎くんのバカ。」


突然、腕を引かれた。咄嗟に体が前かがみになり、その僅かな時間に腕を首に回される。


立花の顔が近づいて、首元に温くて柔らかな感触を感じた時には、僕の頬は快音を立てて引っ叩かれていた。


あれが立花の気持ちの重さだと言うならば、これを埋められるのは上杉の気持ち。


勝負の行方がどうなったのかは、僕のパーカーに覆い被さった上杉に吸い寄せられた僕の唇が、重ねられた唇の愛おしさに委ねることにした。

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