第31話

 長いトンネルを抜け出したような気分だった。上杉を巡る北条さんとの一件は、先日のバイト先閉店騒動で幕を閉じた。もちろんこれで全ての話にかたが付いたわけではないが、ひとまず落ち着きを得たと言っていいだろう。


 ただ、僕ら学生の本分は勉強である。そこがおろそかになってしまっては余計な事を言われかねない。


 元々僕は成績の良い方ではないのだが、散々僕を持ち上げてくれる女狐のせいで、飛ばなくてもいいハードルを飛び越えなければならなくなってしまった。そもそも競っている相手が相手なので今回ばかりはと覚悟はしていたが、なんというか、狐に威を借りられる虎の気分とはこういうものなのだろうか。


 ともかく、夏休み前に張り出された期末テストの結果が公示され、仲良し二人組がそれを見上げて呆然としている時点で、わざわざ僕が結果を見に行く必要はないだろう。


「全教科……100点満点で学年一位……。」


「流石ね。後で先生に何を言われるのかしら。」


「朝から帰りたくなるようなことを言うなよ……。」


 北条さんがどの程度だったかは知らないが、とにかく数字にこだわりのある老害にはいい薬になるだろう。毒劇物指定品だが。


「前崎くんって……やっぱり頭良いんだよね?」


「やる気がないだけよ。胸でも揉ませてあげたらやる気出すかしら?」


「バレー部じゃないんだから無理だよ……やっぱりお見合いの件なのかな?」


「北条さんから正式に通達されたわ。「いい友達でいてくれ」と。」


「そんな事務的な……お義母様は怒ってないの?」


「よく煮えているけど、お父様の目的である業務提携はちゃんとしてくれるそうだから、何も言えないわ。むしろこれからは、前崎君のご機嫌を伺わなければいけなくなるでしょうね。」


「……澄玲ちゃん、笑顔が怖いよ?」


 澄玲のじっとりとした黒い笑みは、まったく無関係の菫花でさえ背筋を震え上がらせる。この親子の関係は本当に歪みすぎていると、菫花は一層、傍に居ることの難しさを痛感した。


「それより、夏休みの予定を決めましょ。晴れて彼氏彼女にもなれた訳だし。」


「……僕と立花が付き合っているのを、君は知ってるだろ?」


?慰めてあげましょうか?」


「…………。」


誤解だ。と言えないのが歯痒いが、上杉が嬉しそうなのでまぁよしとする。


正確には僕から断りを入れた。僕と立花の関係はもう終わりだと。立花は、どこか納得のいかない様子だったが……。


……僕らの関係は嘘偽りで、もう上杉に本心を隠す必要がなくなって、だからそれで終わりのはずだ。それをなぜ、立花はあの時、あんな表情を僕に見せたのか。


「…………………澄玲ちゃん、あのね、」


「何?菫花。」


僕の視線に気づいた立花の様子は、どこか虚ろで明後日を見つめていた。


「……少しだけ、前崎くんを借りてもいいかな?」


彼女は、僕の顔は一切見ずに、そんな大事なことを上杉に告げた。


違和感と、なぜか様子の優れない立花に気味の悪さのあるが、何より上杉の表情に、まるで変化がないことにおぞましさがある。


「……菫花、それがあなたの選択なら、私はまったく構わないわ。」


上杉は全てを悟ったような言葉を選び、真剣な眼差しを立花に向ける。


あれは、嘘をつくなという目だ。僕も何度か、あの力強さに捕まった。だからもう、逃げられないことも知っている。


それでも立花は、上杉の眼差しを振り切るように瞼を閉じて首を横に振った。


「……ううん、私は澄玲ちゃんの味方だから。」


それが、どういうつもりで言ったのかはわからない。ただ一つ分かっているのは、僕らは何も変わっていないということ。


だから、変化のないこの関係に変化を与える終わりを告げるということ。


「……中庭でいいか?いつもみたいに。」


すれ違った上杉と、ほんの少しだけ視線を合わせた僕は、立花の手を引いて歩いていく。それに上杉が何も言わない事に、立花は何を思っているだろうか。


……………………。


時は流れて、夏休み初日のこと。


僕は一人、冷房の効いていない部屋の中で、うだるような暑さを噛み締めながら、ノック式のシャーペンのカチカチが嫌になるまで、課題として出された復習プリントを片付けていた。中学よりも量が少ないのは、勉強は自分でしてこそのものということだろう。


それはまた八月の中旬ごろからやり始めるとして、今はこれを片付けることが最優先だ。最低限さえやってあれば、後は自分のペースで気兼ねなく遊べる。遊ぶなんて発想はしばらくなかったが、生憎今シーズンは先約がある。蔑ろにすると、年末まで怯えながら毎日を過ごさなければならなくなるだろう。


なにせ、僕は見てしまったのだ。そう、見てしまった。信じたくはなかったが、頬をつねっても目は覚めていたので間違いない。


少し気分転換に街へ出て、中規模のショッピングモールにただ清涼飲料水を買いに出ただけの時、広い通路に前かがみになって歩いていた僕の目の前で。


見たこともないぐらいウッキウキな笑顔を浮かべて、小さなブランド物の紙袋を手に提げた上杉が、鼻歌歌いながらスキップで歩いている様を、僕は見てしまったのだ。


「…………喉が、乾いたな。」


思い出しただけで冷や汗が滲んでくる。あれはなんだったんだ。あいつ今度は何を企んでいる?いや、わかっている。夏休みの予定は、北条さんのデートの予定と一緒に埋められていた。問題は、ヤツが一人でなんの相談もせず買い物に行って、ウッキウキだった事だ。


絶対、ろくでもないことを計画しているに違いない。


スマホのカレンダーにマークした日付けの記念日について調べてみる。


「白だしの日、福神漬けの日……。」


なんだこれは、カレーうどんでも作るつもりなのか。しっかりだしの効いたスープにこだわりの福神漬けをトッピングでもするのか。


もしそれが理由でウッキウキだったら、あいつは僕が無類のカレー好きとでも思っているのだろうか。


「……暑さで頭がやられたか?」


ふと冷静になって、万が一にもありえないだろうと確信した。


とはいえ、あれがそれだけ楽しみにしているというなら、約束を取り付けておいてよかったと思う。


これが忘れられない夏になるといい。シャーペンをカチカチ鳴らしながら、少し先の未来に思いを馳せている。

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