第17話

 自分の教科書が、生卵でぐちゃぐちゃにされていた。その中には、最後に父が誕生日に買ってきてくれた国語辞典もあった。


 僕はその日に犯人を割り出したが、しらばっくれたあげく周りを煽って僕を悪者にした。その時の僕は、真面目な人間ほど馬鹿を見ると本気で思っていた。


 僕は手元にあったカッターナイフで自分の手首を切り裂いた。深く立てた刃が血管をブチブチと言わせながら血飛沫を上げる様が、痛いとはまるで思わなかった。


 そんな僕を見ていた犯人は、腰を抜かして怯えきった様子で震えていたので、手首から血を吸い取って、彼女の顔目がけて勢いよく吐き捨ててやった。彼女の頬を伝っていく僕の血反吐を見て、彼女は失神してしまった。


 彼女はそれから、二度と学校には来なかった。


 時が流れ、球技大会で活躍した僕を妬んだ先輩数人が、僕を囲んでリンチしてきた。調子に乗るなとか、そんなことを言われた気がする。


 あまりに無駄な事をしているものだから、我慢できず吹き出したら頭を棒のような物で殴られて、そのまま意識を失って病院で目が覚めた。8針縫った。


 復学した僕に、またしても彼らはつっかかってきた。いい加減にウザかったので、僕は反撃した。


 一人をボコボコにして、体育のマットで簀巻きにして放置した。一人に噂を流して、何股か忘れたが付き合っていた彼女全員と修羅場にさせて社会的に殺した。一人の靴にワックスを仕込んで、サッカー部のエースだった足を切断させた。一人を監禁して、まともに喋れなくなるようにした。


 罪悪感はどこにもなかった。彼らは僕の事を忘れていた。


 ある日、ふと鏡に映った自分の顔が、もはや人間の物じゃなくなっていたことに気づいた。誰かを傷付けて笑っていた自分が、楽しんでいた自分が、悦んでいた自分がいる。助けを呼ぶ声を踏みにじり、逃げようとする足をへし折り、抗おうとする手を捻り潰す。

 

 誰かに傷付けられることを望み、傷付けることを悦んでいたあの頃の自分。


 それが今も、僕の意識を上書きしようとする。


 怖い。怖い、怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い怖い。


 耳元で誰かが囁いた。


【お前なんて、死ねばいいのに。】


「はっ!!?…………。」


 その声が聞こえた瞬間に目が醒めた。どうやらいつの間にか眠ってしまったみたいだ。仰向けになった真っ暗な部屋の天井が、今はなんだか不気味に見える。


「ぐっ!?んんぅむっ!!……。」


 安心したのも束の間、猛烈な吐き気が襲ってきた。風呂場やトイレに行くにも体が動かない。どうにもこらえきれそうになかった。


 するとどこからか、洗面器が伸びてきたので、それに必死に顎を乗せようとすると何かに体を支えられた。自分で動かすにも自由が利かない。支えのおかげもあって何とか洗面器の凹みの中に狙いを定めると、有無を言わずに吐き出した。


「ぅううええええっ!!…………っはぁ……はぁ……っ。」


 滴る涎。それで気が付いた。全身から嫌な汗が噴き出している。今自分がどんな格好をしているかはわからないが、とにかく寒い。


 体の自由は効かない。だが何かが僕の体を動かしている。されるがままにされていると、背を下に向けた状態で、柔らかな感触の枕に頭を乗せられた。


 直後に頬に触れた、長くてしなやかな感触の髪。


 暗闇で顔は見えないが、誰なのかはすぐにわかった。


「……上杉か。」


 呟くと、頬の汗をタオルのような物で拭われた。依然変わらず全身から、体中にまとわりつくような汗がべっとりと噴き出ている。


「筋弛緩みたいね。……ごめんなさい。バイトで忙しいのもあるのに、無理を言って勉強会なんてしたから……。」


 表情は見えないが、彼女は気まずそうに唇を噛んでいた。頬に当てられた掌の温度がほんのりと温かくて心地良い。


 筋弛緩と言われ、確かに全身に力が入らない。ここ数日、僕はずっと緊張状態だったとでも言うのか。上杉が何かしてくるのは、鬱陶しいとは思いながらもそれほどまで嫌なわけではなかった。それなら疲労か。上杉の言うように、僕は彼女たちの前で無理をしていたのか。


 いや、それも何かが違う気がする。何か心当たりはと聞かれて、間違いなくこれだと言えるようなものは何一つなかった。


 それよりも、だ。


「今日は帰れと……言ったはずだ。」


 掠れ掠れに喉から声を捻りだす。この期に及んで強がっても無様にしか見えないが、あれだけの事をされてこんなことをしている上杉も正気とは思えない。


 今なら、彼女の言ったことが全部本当に思える気がした。


 だが彼女は、僕の唇に人差し指を当てた。


「お母様が入れてくれたわ。あなたの様子がおかしいから、傍に居てあげてって。普通なら自分が隣に居たいでしょうに。今はリビングで菫花が一緒にいてくれてるわ。」


 上杉の声は落ち着いていた。不思議と、静寂の中で響くその声に安心する。


「……酷くうなされていたわ。どんな夢を見てたの?」


 思い出に耽っていたと、言葉はすぐに出てきたが喉が動かなかった。


 父が死んですぐの事、僕が不祥事を起こす度に母が学校に召喚されるせいで、一時期母が病みかけた頃があった。


 目覚める直前に聞こえた最後の言葉。あれは仕事疲れで机に伏していた母が、魂の抜けた目で朦朧としながら僕を見た時の譫言うわごとだ。そのすぐ後に意識を覚醒させた母が泣きながら謝り倒してきたが、あれが無ければ、今頃僕は少年院だったかもしれない。


 母は、僕がまた壊れてしまう事が怖いのだろう。我が儘も言わない、見返りも求めない、ただ一人でいつの間にかボロボロになっている。気づいたら、人が変わっていた。どうしていいかわからない。そうなってしまうのが、自分では目に見えているのだろう。


 ……酷い親子だ。似すぎていて反吐が出る。


「それが、君がここに居る理由にはならないだろう?」


 僕が上杉を拒絶したのは、そういうことだ。


 上杉は才女だ。平々凡々に生きようと決意したサイコパスの僕と、決して釣り合うような価値じゃない。彼女には、しかるべき人生があるべきだ。


 彼女は僕の事が好きなのかもしれない。好きでもない男にここまでできるとは到底思えない。僕にも、彼女に酷い扱いをした自覚はある。だがそれで諦めると思っていたんだ。


「一時の感情に流されて人生を無駄にするな。上杉、君に僕は相応しくない。」


 僕は誰も憎まず誰も羨まず、誰にも愛されず誰も愛さない幸せな生き方を選んだ。それが、あの日僕が憎んだものを拒む方法だ。


 上杉、君は僕にとって太陽だ。太陽は空の向こうにある。どれだけ手を伸ばしたって届かない。でも君が照らしてくれるなら、もう少しだけ生きようと思ったんだ。


「それが、菫花を選んだ理由?」


 上杉が問いかけた。


 違う。僕は君に気づいて欲しかった。君はこんな場所に居る人間じゃないって事に。だから立花の計画に乗った。計画に。僕が最低な人間になることで、君にそっぽを向いてもらえるように。


 言葉には出ない。首を横に振る力もない。無言だけが、僕の答えだった。


「…………本当に、酷い人。」


 ……終わった。これでいいんだ。僕はいつも通り、最良の選択をした。


 僕にとって、最良の選択を。


「…………んっ、」


 そう思った矢先に、ひんやりとした何かが左手首を伝った。


 ざらざらとした感触、湿っぽく、柔らかいそれは生きている。僕の顔には驚愕が浮かび上がった。


 上杉が、僕の左手首の傷跡を舐めたのだ。


「んくぅっ、はむっ…………くちゅっ、くちゅくちゅ…………はむっ。」


 動かない体に、上杉の舌攻めは苛烈を極めていく。舐めるだけではない、時々唇を押し当てながら吸い上げる。


「じゅるずずずずっ!……んんっ、はむっ……ちゅっ。」


 耳がくすぐったくなるような吸引音に、背筋がぞわぞわする。執拗に舐め回される傷跡が解れていくような、それが徐々に熱くなっていくのがわかる。


 筋弛緩が徐々に抜けて、震わすぐらいなら動くようになった体で、動揺で高鳴る鼓動を押さえながら声を捻りだす。


「何を……して……、」


 手首に視線を向けたその時、暗闇の中で目が合った。それを合図に、ちろりと舌先で傷を舐めた舌が、止まった。


「上杉……ダメだ……君は……、」


「私は、地に落ちることすら叶わない花びらだから、」


 言葉を遮られて、詰まった。上杉の強い口調には、何故だか体が一歩後ろに引いてしまう。


「貴方の手には届かないかもしれない。それでも私は、あなたを好きな気持ちを捨てきれない。」

 

 握られた手が上杉の頬に触れたその時、ひんやりとした何かが指先に当たった。ぽつり、ぽつりとした感触が、断続的に指先を刺激する。


「私があなたを嫌うには、あなたは優しすぎる。あなたが私を嫌うのも、近寄らせようとしないのも、全部私の事を思ってなんでしょう?私はあなたに近づきたくて、抱きしめてもらいたくて、嫌われるほど傍に居た。いつか好きになってもらえるように。」


 ぴたりと、冷たい指が胸を押し当てる感覚が伝わった。彼女が指先でなぞるのは、喧嘩や事故でついた僕の傷跡だ。時々痛むものも残っているが、彼女の冷たさがその熱を奪っていく。


「昔から変わらない。あなたは誰かの為に自分が傷つくのを厭わないから、いつの間にか自分がボロボロだってことに気づきもしない。私は、そんなあなたの傷にずっと癒されてきた。」


 指先で冷たさを感じながら、また上杉の舌が手首の傷痕を這う。


 それはまるで、僕を癒そうとしているかのような行為だった。


「だから私も、あなたの傷を癒してあげたい。ただ我武者羅に生きて、前を向いて生きて欲しい。その隣で、私が寄り添っていられるように。」


 そっと床についた腕から手が離れ、頬に指先の冷たさが張り付いた。長く伸びた髪が耳や首をくすぐって、それとは別に湿っぽい吐息が鼻緒に当たる。頭が少し、持ち上げられたようだ。


「私が桜の花びらなら、あなたはそれを支える豊かな土。私が美しく咲き誇るには、あなたに居てもらわないと困るわ。」


「……ヘタクソな比喩だな。」


「あなたの受け売りよ。もしかして忘れたの?」


「僕のは君の受け売りだ。忘れたとは言わせないぞ。」


 いつもの調子を取り戻した所で、笑う余裕が生まれた。それが喜ぶべきことなのかはわからない。ただ今は、それが幸せに思えた。


「……僕の傷は、僕を守るためにできたものだ。君のためじゃない。」


「それでもいいの。私がもう、後悔したくないだけだから。」


「……後悔?」


 上杉の口から聞きなれない言葉が出た。咄嗟に反応してしまうが、暗闇の中で触れ合う温度に気を取られて曖昧になったまま、僕は言葉を失ってしまう。


 唇を、柔らかな感触が支配する。


「んっ……。」


 どちらのものかはわからない。甘く漏れた吐息が上ずって、苦しくなった息を吸い込めないもどかしさが頬を染める。


 お互いに動かないまま、静かな時間の流れを共有していた。ほんのりと塩味が効いているのは……。


「ぷはっ、はぁ……はぁ……はぁ……っ。」


 動かない頭を持ち上げられ、強引に寄せられた唇の感触が熱い。離れて数秒してからも、まだその熱が名残惜しさを感じさせる。


 息を切らした上杉の顔筋を伝う、月明かりに照らされた汗が色っぽい。


 胸の高鳴りに嘘を吐けるような余裕は、残っていなかった。


「待っているから。あなたが答えをくれるその時まで、ずっと。」


 上杉はそう言って、僕の瞼を静かに撫で下ろす。彼女の膝の上に抱かれたまま、彼女の鼓動に耳を傾けているうちに意識は遠ざかる。


 次の日の朝に目覚めた時には、彼女は家にいなかった。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る